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いきることがずっとつらかった、でもいきることをするため
ただ生きることをやめたくなかったため。
私にとって書くこととはそれだけだ。
私はできることが少なくて、周りの人たちに褒められることがない。この前はヤクルトのフタがが開けられなくて娘に呆れられた。
電車、バス、タクシーに乗ることなとが不安で移動に困難もある。
歳をとるごとになんか不安という気持ちも増して、生きること自体が大変になってきつつもある。
自分の子どもがいることはもちろん生きがいになっている。
ただそれは日常であるし、評価されることが難しいことだ。
当然なのではあるが、親である以上、子どもの世話を見ることが普通だからである。
むしろそれができなかったら私は終わっている。少なくともそれだけはできてきたという意地はあった。
仕事も同じような感じなのであるが。
でも、生きることを価値付けることは、生活の他にあると私は思ってしまっているのである。
いくら育児や仕事を頑張っても、それは当たり前なのだ。特に育児は子どもをちゃんと育てるのは親の義務だから。
自分としてはどちらも必死で毎日頑張って、自分の能力の100%をだしている。
周りの人にとっては私くらいのことは誰でもやっていると思うり
それもよく分かっている。
私だけが頑張っているとか、私だけがかわいそうとか、私だけが苦労しているとかそんな気持ちは毛頭もない。
みんなやっている。
でも私の日々を暮らす能力の低さゆえに、それが大変なのである。
それを同情してもらおうとか、憐れんでもらおうとか、優しい言葉をかけてもらおうとかそんな気持ちだけはないことを分かってもらいたい。
しかし、何が言いたいかというと、よく分からないけど何かつらいということだけなのだ。
そしてそれが私が書くことができているただ一つの理由だ。
行動でも言葉でも表現できないが、私の気持ちを表すことができるたった一つの手段がそれを書いて示すことなのである。
私は書き続ける。
つらいからといって生きることをやめないために。つらい気持ちを誰にも分かってもらえなくてもいいから、文字にすることで明日を生きる力にするために。
だから私は書き続けることができている。