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カメラじゃ食っていけないけど、自己満の写真が好き
「カメラじゃ食っていけないよ」
当たり前に来ると思っていたけど、いざ言われると返事に困る。
2020年になりたてのころ、大学3年生の僕は当たり前のように進路に迷っていた。「就職したいのかしたくないのか」すらも定まりきっていない、怠惰で優柔不断なメソメソ大学生をしていた。
カメラにハマり始めたのは、たしか大学2年生のころ。FUJIFILMで安いやつ探そ〜と思ってX-E1を中古で購入し、しばらくしてからまだ安かったXF 35mm f1.4も買った。初めての単焦点レンズに「これよ!こういうの!」となって、カメラが楽しくなる。
大学3年生の冬ごろ、僕は趣味で映像も作るようになった。当時持っていたのはいちばん低スペックのMacbookに、手ぶれ補正のないFUJIFILM X-T20、AF音けたたましいXF35mm f1.4。
当然、今思えばクオリティはめちゃくちゃ。色編集も、ネットに転がっている無料フィルターを雑に被せるだけ。それでも楽しいのだから仕方ない。夢中になりすぎて夜ご飯を忘れかけたときは、自分でも驚いた。
いくつか作って、YouTubeにも載せてみる。最初の動画が意外と好評。数字としては全然しょぼいけれど、自分が作った動画に海外の人からコメントが来る。驚きと感動を隠せなかった。
当然のように、これからどう大人としてこの星に生息するかを考える上で、「カメラ」が頭から離れなくなる。
そうして冬が明け始める頃、母親と電話しているときにふと「映像や写真を作って生きていくのも憧れなんだよなあ……」と口にすると、母親は苦そうな声で「カメラじゃ食っていけないよ」と言った。
「カメラで食べている人は、専門の学校で学んでいる」
「年を取ったらセンスとか枯れちゃんじゃない?」
「まず食べていける保障がないと、親としてなんて言ったらいいか……」
このとき、「それでも!」と口にすることはできなかった。そうだよなあ……と弱々しい声を出すしかなかった。自信がなかった。
その後就活で頼れる人を探し、見事どす黒い大人に引きずり込まれた挙げ句、同時期にお世話になっていたカメラマンさんとのお仕事はうつ病によってすべてをダメにしてしまう。こうして書いているだけでも内蔵がうにうにと軋む。謝っても謝りきれない。
数日に1度しかご飯が食べられないくらい食欲がなくなり、大学近くの下宿先で1日の大半をベッドで寝て、ず〜〜っと壁を凝視しながら、カメラのことなんて忘れていた。むしろ「撮る資格なんて無い」とさえ本気で考えていたし、カメラは実家にあずけてしまおうかとも思っていた。
病院に行き、半ばチート技を使ってなんとか就職先を決めた後、外を歩く元気くらいは出てきた。
人間とは怖いもので、外を歩けるとなるとカメラを持たずにはいられない(あくまで自説です)。
身体の毒を抜いていくように、カメラのシャッターを切っていった。数カ月ぶりに彼女にあったときも、夕焼けを眺めて大泣きしたときも、右手にはカメラを持っていた。
実家に帰るときも、毎回カメラを持っていく。実家の犬を撮り、クルマからの景色を撮り、整理されている僕の部屋を撮り……としていると、
「ほんとにカメラが好きなんだねえ」
と母がニコニコしながら言った。
そうなんだよね。仕事にしていたらどうなっていたかはわからないけど、仕事にしなくてもカメラは大好きだし、それがいいと思っている。
正直、カメラに救われたと思う。自分が撮りたいものを撮っていき、好きなようにレタッチしていく中で、「撮ること」や自分との向き合い方も変わっていった。
だから、カメラを仕事にしなかったのはまったく後悔していない。そう思えること自体幸せだと思う。
姉の結婚式で流す映像を撮り母に見せたところ、後日こっそり姉上に「この動画、絶対消さないようにね」と言っていたらしい。友達とかに見せて、僕に撮らせてあげてほしいと。仕事にしないほうがいいと言った母は、もはや営業活動をしてくれていた。
姉から聞いて、なんじゃそりゃと言いながらふたりで笑った。
ここまでかなり勢いで書いてきたけど、今思えばあのときにカメラを仕事にしなくてよかったと思う。超絶心配性だから「フリーランス的収入」で生きていくのはおそらく無理だし、撮影技術も低い。当時の写真を振り返るたびに、「今だったらこうやって撮るのになあ〜」と思う。
それに、鬱っぽくなったらカメラを買え!とも思わないし、僕のこのストーリーを美談にするわけでもない。ただ、うつから抜け出してカメラを手放せなくなったあたりから、写真の撮り方が変わっていったような気がする。
それまでは「きれいに撮る」「見せるために撮る」を何処かで意識していた。SNSにはしっかりアップして通知の数をチェックしていたし、褒められたら露骨に鼻息を荒くしていた。
でも、ただの散歩でカメラが手放せなくなった頃から、「自己満足としての撮影」に変わっていったように感じる。
![](https://assets.st-note.com/img/1702808791025-SNnTsfSVjk.jpg?width=1200)
SNSにあげることもほとんどなくなっていったし、彼女に見せる写真すら少なくなった。でも、自己満足として撮るようになってからのほうが、写真を見返したときの心の豊かさが違う。
ポジティブに感じる写真ばかりではない。ネガティブなことがある時に撮った写真からは暗い気持ちが漂ってくるし、圧倒されながら撮った写真には「うおおおお畏怖うううう」という声が漏れている。
でも、自己満足の撮影ってなんだろう。具体的に言うなら、自分が見て感情が動いたものをきちんと写す、だと思う。
感動ではなく、感情が動いたもの。圧巻の絶景でも、切ない顔をしたモデルさんでもなくていい。
自分の感情・思考は五感から影響を受けているし、感情・思考が五感に影響を与えていると思う。そのように自分の感情と結びついている五感がどうなっているのかを写すのが、自己満足としての写真な気がする。
僕がクリスマスに浮かれている気分のときは、でっかいクリスマスツリーが見えているかもしれないし、滋賀の田舎道ではなく神戸の街並みを歩いているときかもしれない。大きな山や湖を眺めて全身で風を感じながら、自然の香りを嗜んでいるときは、大らかで静かな気持ちになっているはず。
でも自分の感情を紐解いていくと、それもまた複雑。人はいろいろな出来事を自分なりに統合し、記憶していく。出来事に対してどう感じるか、その結果どのような因果関係をつけて記憶し、自分のアイデンティティに組み込んでいくか。人によってぜんっぜん違う。
同じ「りんごを食べる」でも、僕は「あ〜甘くて美味しいアレね、実家にいたときはよく食べたけど自分ではあんまり食べんなあ〜」くらいだけど、白雪姫からしたら一生モノのトラウマ、もしくは「りんごを食べたおかげで王子様に救われ今の私がある」と考えるかもしれない。
一発芸をしてみんなに笑われたときも、「俺っておもしれーやつ」と考える人もいれば、「屈辱……己が恥ずかしい……!!」と感じる人もいるかもしれない(統計的にどれぐらいの人数比になるかは知らない)。
つまり、ただ単に「感情が動いたもの」を撮ろうと思ったら、「SNSで魅せるもの」でも「誰かに評価してもらうもの」でもなく、純粋に自分がなにを感じているのか、何から影響されているのかを細か〜く考えていく作業が必要になる。考えれば考えるほど、自己満の写真が撮れそうな気がする。
自分の頭がだいぶごちゃついてきたので、一旦まとめ。
自己満の写真とは、自分の感情が動いたものを撮ったもの
感情が何によって動いたのかを探るのが難しそう
そもそも自分の感情を理解するのって難しそう
じゃあなんで、自己満の写真にハマっているのか。いくつか理由がある。
まずは、撮れる写真について。自己満の写真は、見返した時に思い出す情報量が豊富。撮ったときの自分を繊細に思い出せるし、そうして自分の過去を見返すのが好き。豊かだ〜ってなる。
そもそも僕がカメラを買った理由も、思い出をきちんと残せるようにするためだ。スマホの画角、センサーサイズ、カラーだと、どうしても「あれ?なんかこんな感じだったっけ?」という写真になってしまっていたし、見返したときに撮影時を追体験するのが難しい。
(もちろんスマホカメラの性能はぐんと上がったし、これは僕の主観的な意見に過ぎません。そのことを明記しておきます)
見返した時に「あ〜このときはこんなこと感じながら撮ったな」「こんなこと考えている時期だったな」とわかる写真の方が、思い出を記録するという目的をより果たしている気がする。なにより、見返している時も感情が動く。
![](https://assets.st-note.com/img/1702808899159-g1Iyq4YEfG.jpg?width=1200)
写真を見てどう思うかだけでなく、撮る瞬間も、自己満で撮る方が自分にとって良いと感じる。
自分の感情を丁寧に紐解きながら、五感を丁寧に分解していく作業は、瞑想に近い。自己満でシャッターを切っている間は、雑念や悩み、考え事に囚われづらくなる。
日頃、僕たちは主観的に世界を見ているのだけど、自己満の写真を撮る間は「主観の自分」と「自分と向き合う自分」を行ったり来たりする。
日本語で説明すると難しいけど、いつもはFPS的な目線で生きている僕が、カメラを通じてFPS的自分としてだけでなく「そのゲームを画面の前でプレイしている自分」として、自分の内面や感覚、景色を見れるようになる。
その結果何が起こるのかを言葉だけで説明するのはどうしても難しいけど、主に次の2つがある気がする。
自分を知る
感情や思考に対して寛容になれる
自分のことは自分が一番わからない。日々の感情や思考なんて日記のように自分と向き合う作業をしないとサラサラ流れて行ってしまう。「今日は気分がいいな〜〜」という日も、なんで今日は気分がいいのか、その時何を見ているのか、カメラを通じて丁寧に向き合ってみて初めて分かることも多い。
自分を知れるだけでなく、感情や思考そのものをどう捉えるかも変わってきたと思う。
「感情や思考に対して寛容になれる」というのは、次のようなステップで現れると考えている。
感情と思考を事実と切り離す
すっごくきれいな紅葉を見ているとしても、「きれいな紅葉」は事実ではない。葉っぱが赤くなり、赤い葉っぱを付けた木が集まっており、そこに建物や人工物が並び……みたいな視覚で得られるものが事実。それに対する「きれいだ!!」は、ただ自分の頭の中だけで生成された解釈に過ぎない。感情や思考がコロコロと移り変わりやすいことを実感する
カメラを持って撮っていると、考えていること・感じていることなんてコロコロ変わる。さっきまで「紅葉がきれいだ〜!」なのに「この肉まんおいしそ〜!」とかすぐ考える。意外とひとつの思考・感情にとどまり続けるのが難しく、目移りしまくったり同じ思考ルートをひた走ったりすることが多い。感情や思考を取捨選択できる
自分の感情や思考に対して「どうせ事実じゃない」「割とすぐ変わるしあてにならない」と考えられるようになると、自分の感情や思考を取捨選択できるようになる。「三脚をぶつけられた!なんて非常識で無礼で自分勝手な野郎だ!!」って思っても「でも良い写真を撮る上で別に必要な思考じゃないなあ」くらいには考えられるようになる。
(すぐに怒りが引くかどうかは別として)
もはや仏教の教えに近い。己の執着に振り回されるな〜手放して身を任せよ〜みたいな感じ。
自分が思うこと・感じることを事実のように捉えて、振り回されてしまうと、自分の生き方がぶれてしまうように感じる。自分はどんな人でありたいか、何を大事にしたいかを明確にした上で、必要ない思考や感情をきちんと感じて受け入れつつ、でも言うことは聞かないというスタンスが必要だと思う。
めっちゃくちゃ難しいから、きっと一生かけて修行していくことになると思う。でもつらいことではないし、人生が淡白になるわけでもない。むしろ心地よいし、豊かになる。いろんな感情があっていいし、狂った考え方をしている時期があってもいい。自分が大事にしたいものさえあれば、振り回されずに味わいながら、心を動かされつづけられる。そんな生き方が理想なのかもしれない。
そんな生き方に通じるのが「自己満の写真」だと思っている。
これまで写真をきちんと学んでこなかった。でもこれからは、自己満の写真を追求するためにいろいろ手を出してみようと思う。
学んでみたいものはたくさん。
写真のレタッチ・カラーリング技術
構図
写真の選球眼
照明技術
過去の写真家たち
認知心理学
ナラティブアプローチ
生物学
仏教
後半カメラと関係ある??となりそうだけど、人についていろんな角度から考えられるようになった上でカメラ技術を身に着けてみたら面白そうですやん。
これからの探求テーマがなんとなく決まった気がするので、できるかはわからないけどつらつら文章に残しながらいろいろ考えてみたいと思う。
やっぱり書くのはいいっすね。いろいろインプットできるようになるし、「こう考えていたのね、俺!」という発見がある。カメラのnote書いているのに理想の生き方に触れるなんて思いもしなかった。
いつになるかわからないけれど、また次回。ほな!
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