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山岡鉄次物語 父母編3-2

《 母の物語2》辛い別れ

☆珠恵は幼い時に父と母を亡くしてしまう。

父小澤辨三は日露戦争の後、地元の石材店で働いていた。

塩川では質のいい御影石が豊富に取れて、塩川みかげと呼ばれる銘石となっていた。

加工の機械のない時代、腕一本と道具で硬い御影石を形作っていかなければならない。
8年の間、腕を磨いた辨三は同じ塩川に住むきくを妻に迎えたのだ。

御影石は花崗岩で石英を含む為、長い間シリカの粉塵を肺に吸い込むと肺の病に冒される。
父辨三は肺の病になっていたのだ。

腕のいい石職人をしていた珠恵たち6人兄姉の父辨三は40歳、珠恵がまだ乳飲み子の頃に、病によって亡くなった。
手元には辨三の若い頃、日露戦争当時の軍服姿の写真が一枚残っているだけだった。

6人の子供を抱えた珠恵の母きくは、親戚を頼りながらも頑張っていたが、女手ひとつでは子供全員を育てるのは大変だった。
幼い子供を奉公に出したり養子に出すしかなかった。

長兄の勝義は甲陽市の葡萄酒醸造業者に奉公にあがっていた。
勝義はこの後、18歳になるまで奉公を続け、塩川に戻り妹たちの親代わりをしていたが、20歳になると2年間軍に服役してから実家に戻り、所帯を持つことになる。

長女のいえ子は尋常小学校を卒業すると、東京の下町にある和菓子屋に奉公に出た。
その後のいえ子は、和菓子屋の家で跡取りの嫁になり、店を切り盛りするが、子供が出来ずに養子を迎える。
いえ子の和菓子屋には妹清子の息子が修行に来ることになる。

まだ幼かった次兄春芳は東京八王子の秋元自転車店で奉公をしていたが、跡継ぎの無い秋元家の養子になった。
その後春芳は、自転車店の跡を継ぐ時に、秋元家の養子になっていたウメと結ばれる。
秋元の養父母亡き後、店を畳んで八王子から都内の下町に転居して生涯を送る。

珠恵も親戚にもらわれていた。まだヨチヨチ歩きの頃だった。
珠恵を養子にした親戚は、子供の無い家だったので、可愛がられていた。

ところがある日、珠恵が階段から転げ落ちる事故が起きてしまった。
幸い軽い打撲で済んでいた。

これを知った母きくは、一番小さい子供を養子に出してしまった自分を恥じて、珠恵を自分の手元に連れ戻すのだ。

その後、珠恵の母きくは家に残った子供の為に、農家の手伝い仕事と内職仕事を頑張っていた。
一日中働き続けても楽にはならなかったが、無理を重ねながらも、子供の成長を楽しみに生きていた。

家に残った清子・芳江・珠恵に贅沢をさせてやれない代わりに、母きくは3人の幼い子供と明るく朗らかに生活していた。

貧しい生活で食べ物が足りないと、子供たちに食べさせるため、母きくは空腹を我慢する日々を送っていた。

数年後、珠恵が小学生の時に、きくは栄養不足と無理がたたって肺炎を患ってしまい、命を落としてしまう。
きくは辨三と同じ40歳の人生を閉じた。

きくの子供たちは、皆集まっていた。父のいない生活を送るなか、明るく頑張っていた母きくのことを思い、悲しみに暮れる兄姉だった。

珠恵は母との別れの時に、きくの柩に一緒に入って行きたいと思った。

既に父親を亡くしている珠恵は、母親とも辛い別れをしなければならなかったのだ。

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