身魂(みたま)の磨き方 2
こんにちは、白山大地です。
私たちは、真中にマコトを据え、「我」を律することが、神として求められていたのですが、真中に「身欲」を置いてしまったので、「我」に振り回されている「ただの人間」に成り下がってしまったのです。
『よひとやむみな』の著者穂乃子さまが下ろした『身魂磨き実践法』(ナチュラルスピリット)によれば、「観照者」になれとあります。
「観照者」というのは、自分を純粋に観察する存在(意識体)を意味するそうです。たとえば、映画の中で演じている自分の演技を劇場で鑑賞している自分が観照者です。私たちは、三次元の世界で懸命に自分を演じているわけですが、その自分を三次元世界から離れて観察している自分がいて、その自分こそが観照者です。
ただし、観照者は、「私」ではないということで、あくまでも観照者。「私」と思った瞬間、それはエゴの意識となるそうです。
少し難しいですね。根源神は、究極の観照者です。ですから、自分が観照者でいるかぎり、自分の意識は根源神と一体なのです。
では、その自分の観照者はどこに存在するのかというと、自分の中心だそうです。つまり、火水伝文でいう、真中と思われます。ということは、観照者とは、「マコトの自分」ということになるでしょう。マコトの自分というのは、三真釣る行でマコトを出せる自分です。
『よひとやむみな』には、こうあります。
「草を見て神が見えるか。雨を見て神を感じるか。人を見てその人の中に神が見えるか。身魂磨きができた人から神の姿がそれ相応に映るようになるぞ」