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巳 国立劇場 初春歌舞伎『彦山権現誓助剣』 <白梅の芝居よもやまばなし>
通しで見る丸本歌舞伎の面白さ
国立劇場文芸研究会の評価すべき仕事
国立劇場の歌舞伎公演における『彦山権現誓助剣(ヒコサンゴンゲンチカイノスケダチ)』の通しは、昭和42年、平成14年に続いて3回目ということです。過去の上演と比較する余裕は今の私にはなく申し訳ないのですが‥。
今回の新国立劇場中劇場による公演は、国立劇場文芸研究会による補綴がよく出来ており、本作のテーマがよくわかる構成になっていていることは、まず評価させて頂きたい点であると思います。
正月の芝居としては、一見地味なようにも当初は感じていたのですが、そこは菊五郎劇団で固めた正月芝居で、尾上菊五郎丈演じる真柴大領久吉の大きく華やかな雰囲気を中心に、ちびっ子役者が勢揃いして元気いっぱいの立回りなどで見せつつ大団円で打ち出された芝居は、大変満足のいくものでした。
この作品が天下統一の過程における重要な出来事を暗示している作品であることが念頭にないと、解釈しきれない作品であることは確かだと思います。一見作品としては不完全であるように思われる本作ですが、今回、読み返してみて非常によく練られた作品であると感じました。
それが演者に理解され「役者の芸」によって練り上げられないと、下知識なしにはなかなか難しい面もあることは確かだと思いますが‥。
今回、「朝鮮出兵」の世界で書かれている本作からその世界をすっぽり外すことにより、本作の中心的テーマを却って浮かび上がられることに成功した補綴になっているように私には思われました。
とはいえ、大切なキーワードである「千鳥の香炉」「名刀蛙丸」「永禄9年生まれ」など、丁寧に扱ってくださっているために中心的テーマが壊されることがなかったことは評価されるべきであると思います。
ただ、一つ大変残念なのは、本作の一番大切なテーマであると私が考える「遺恨の刃は合わすとも、四海に望みをかくるな」「汝に勝つべき者あらば、それに従い身を治め、末長久に栄よ‥」という戦国から江戸時代を生き抜き後の世まで「家名」を残すための教えが、観客の心に残るまでには練り上げられていなかったと思われる点です。
本作は単なる私怨を晴らす仇討ち譚でないところが、実は一番大切なところなのであり、そこが鮮明になってこその通し上演と言えるように、私には思われます。
微塵弾正のモデル
近世芸能の主人公には必ず歴史上のモデルがいます。
本作における微塵弾正のモデルは、永禄9年(1566)生まれである真田信之であろうと私は推測します。そして本作において、永禄9年生まれの弾正が34才であるとしているので、お園のモデルとなっている人物が仇を見いだすのが、慶長3年か4年(1598・9)のこととなります。それを類推させるように、微塵弾正の誕生日が殊の外強調されているところが、この作品にとってはとても大切になっているのだと私は考えます。
慶長3年、豊臣秀吉の死によって朝鮮出兵が終わりますから、この仇討は「関ヶ原の戦い」によってなされたことが暗示されているのであろうと私は推測します。
豊臣秀吉の死後とは考え難く、また信之は関ヶ原では東軍に与して死んではいないではないかと思われるでしょう。ただ、親の真田昌幸や弟の信繁(幸村)は西軍に与してその結果滅びていくのですが、信之は東軍に与したからこそ家名を残すことが出来たのも、また事実でしょう。
詳細には踏み込めませんが、西軍方を牛耳っていた人物こそが悪逆非道な人物であり倒されるべき人物です。西軍方として行動していた「生」を捨て、東軍方として生まれ変わって生を全する道を信之は選んだのだと思います。だから、本作でも西軍方としての微塵弾正は討たれて果てるのです。
本作における光秀の亡霊の思い、言葉を信之が受入れたことが暗示されているのだと思います。
本作において微塵弾正は明智光秀の子であるとしています。信之は真田昌幸の子であるはずではないかと思われるでしょう。私としてもこの暗示には正直驚きました。ただ、中世において源氏の棟梁が女性であったように真田昌幸が女性であったと考えれば、これはあり得ないことではありません。この点に関しては今後の課題ですが‥。
ただ、信之は歴史の謎を一身に背負っている「小野の於通」と親しい間柄ですから決してあり得ないことではないと私は考えます。
信之は後に徳川方にも天下を伺う人物と邪推されてしまいますが、それを毅然とはねのけており、後の世まで家名を残していることは記憶に留めておくべきことだと思います。
この仇討ちの物語がもし「関ヶ原の戦い」を暗示しているのであれば、今回の幕切れは、一見改悪のように感じるかもしれません。ただ、近世演劇における「真柴久吉」は、決して史上の「豊臣秀吉」そのものを描いてはいないので、むしろ本作としてふさわしい幕切れとなっているように私には思えます。
一味齋のモデルとその弟子
年初に、本能寺の変の真相に迫っていくことを本年の豊富として書かせて頂きましたが、上記の推測も決して単なる思いつきで書いているわけではありません。
本作において一味齋は、己の身分を隠して毛谷村の六助にその技量と心底を見込んで自身の跡継ぎとすべく奥義を伝授しています。
私はこの吉岡一味齋のモデルは齋藤道三であろうと考えます。
そして、一味齋を闇討ちにする微塵弾正の行動の本体は織田信長を暗示しているのであり、六助こそが実は明智光秀を暗示する人物として描かれているのであろうと私は考えます。
信長も光秀も、天正10年に亡くなっているのに、関ヶ原の戦いにからませて描かれること自体、戦国史の通説から見ればナンセンスきわまりないことと思われるでしょう。
ただ、歴史の真実としては本能寺の首謀者は信長その人であり、光秀はむしろ信長にはめられた側の人間です。また両者ともに少なくとも関ヶ原の戦いまでは、間違いなく生存しています。
本能寺に至るまで、そこからさらに関ヶ原の戦いにいたるまでには大変複雑な政治的動きがあり、とても簡単に説明できなることではないので、ここでは深入り出来ないませんが‥。
今回、発端が上演さたことにはとても意味があると私は思います。
本作の舞台が彦山(英彦山)という、日本三大修験道の霊山を舞台にし、血族に関わらず才あり見込みのある者を見いだし、育てようとする風潮は、天下統一を目指す世の中にあって貴重な動きだったろうと私は考えます。
とかく悪行がクローズアップされがちな齋藤道三ですが、後進を育てたという点で、司馬遼太郎も『国盗り物語』で興味を示していますが、注目すべき点であることに間違いはないように思います。
歴史的背景を考えると本作は大変興味深い作品であることは間違いありません。
弾正の悪逆非道に対して、六助の孝心の熱さと誠意や正義感、お園の男勝りでしたたかな行動力。
お園がなぜ遊女に身をやつしてまで仇を見いだそうとしたのか‥。歴史的背景を考えると、役柄としてどこまでも深められ、魅力的に描いていける役どころであることは間違いないと思います。
今回の舞台では、お園の中村時蔵丈が女武道のキレのよさで健闘し、坂東彦三郎丈が国崩し的敵役を好演しました。中村吉右衛門丈の素朴で男っぽい六助像がまだまだ記憶に深く残っているのも事実ですが、山賤の素朴さとは違った音羽屋系のすっきりとした色男風の六助があってもいいように私には思われます。ただ、色男ながら芯の強さ男っぽさはしっかりあって欲しいとは思いますが‥。
国立劇場事業に対する期待
国立劇場の再整備が迷走する中で、国立劇場主催の本興行も縮小の一途をたどっていて寂しい限りです。
それでも、この状況を跳ね返すべく今回の上演のように質のいい古典芸能としての芝居作りにさらに磨きをかけていって頂けたらと思います。
それこそが、国立劇場の存在意義だと思います。
また、国立劇場は営利目的を第一義とせず、そこは民間と協議もしつつ、安価に多くの方々に古典芸能を享受していただけるよう、努力に努力を重ねて頂くことを願って止みません。
今回のように上質な舞台であっても、なかなか気軽に拝見できる金額ではないと私は思います。古典芸能を楽しめるようになるには、やはり拝見する回数を増やすことも大変重要だと思うからです。
安い方の席も数が限られていて、あっという間に売り切れてしまいます。ご覧になれる方が非常に限られてきしまうのは、大変大きな問題であると思います。
舞台を作る側や民間企業も含めて、古典芸能のそのものの質を高めていくということは、観客の質を高めていくことであるのもまた事実ではないでしょうか。両者に対してさらに工夫を重ねていって頂けたらと願わずにはいられません。
2025.1.17