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辰 明治座 十一月花形歌舞伎 夜 『鎌倉三代記』『お染の七役』
<白梅の芝居見物記>
鎌倉三代記 絹川村閑居の場
中村勘九郎丈の藤三郎実は佐々木高綱、坂東巳之助丈の三浦之助、中村米吉丈の時姫、中村歌女之丞丈の長門、中村鶴松丈のおくる。
初役揃いのフレッシュな顔ぶれでこの一幕一場の大作に挑まれており、皆さんそれぞれに好演されていらっしゃいます。花形公演としてみれば決して悪い舞台とは言えませんし、楽しませて頂けたのは事実です。
実際、昨今の中堅や若手の舞台で、先人の舞台を「役者の芸」で堪能していられた時には見えてこなかった作品世界が見えてくるようになっていること、それに気付かされることが観客としての今の私の一つの楽しみとなっていることは否定できません。
作者の意図したであろう作品としての本質に、今更ながら気付かされることが増えたように思います。ベテランの芸を堪能していた時には気付かなかったこと。それが、むしろ中堅が中心となって舞台をつとめるようになってから見えてくるようになったことも多いです。
先輩から教わったことを丁寧に再現しようとする若手の真摯な演技から発見することもあります。また、ベテランの舞台を拝見していた時に味わっていた充実感が味わえない分、その物足りなさがどこからきているのか。そんなことを考える機会が増えて、自分自身も改めて丸本なり歌舞伎の脚本と向かい合って考える、それがひとつの楽しみになっていることは間違いないでしょう。
今回の『鎌倉三代記』を拝見していて、役者さんとともにこれからの時代において歌舞伎や古典芸能を支えて下さる観客を育てていくためには‥、ということを改めて強く考えさせられました。それは歌舞伎や古典芸能を大切に思われる心ある方々にとって、今後の大きな課題であるとの認識は共通するのではないでしょうか。
本作が、歌舞伎や古典芸能としての在り方を改めて考えなければならない課題をつきつけてきている作品であることは間違いないかと思います。
この作品と向き合う場合、私の興味は「大坂の陣」における歴史の裏側の動きを探ってしまう方にどうしても興味が引かれいってしまうので、今回、作品の解釈を深める考察にまで至ることが出来ませんでした。
芝居としての本質を見いだすという点では、渡辺保氏の劇評が大きな示唆を与えて下さっており、私としても今後の課題としていきたいと思います。
私には、この作品から「家」や「家族」というものの在り方を見いだす視点が今までは全くありませんでした。
ただ、「家」というものの問題は「夫婦別姓」を強引に推し進めようとする昨今の流れを考える上でも、大きな示唆を与えている作品であったことに改めて気付かされ、「古典」というものの奥深さを感じないではいられません。
現行の『鎌倉三代記』は、初演時に上演禁止となり丸本も出版されていない近松半二作『太平頭鍪飾(タイヘイカブトノカザリ)』が原作とされます。大坂冬の陣を題材とした『近江源氏先陣館』の後編とされ「大坂夏の陣」を題材とし、真田信之、信繁(幸村)兄弟を作品の中心に据えています。
真田の兄弟は、「関ヶ原」でも西軍と東軍に分かれて戦ったことで有名です。ただ、実は両陣営に分かれて戦ったという点において、真田家が特殊であったわけではないかと思います。子孫というより「家」を守り受け継いでいくこと。それはおそらく日本建国以来の「知恵」として受け継いで来たものであろうかと私は考えています。
ここでは深く踏み込みませんが、この二つの作品の周辺作も含めて考察し、『鎌倉三代記』の解釈につなげていくべきものかという課題をいただいたように思います。
また、こうした丸本歌舞伎を掘り下げて後世に伝えていくには、役者さん自身が演じながら実感していくことがやはり舞台芸術にとっては、大変重要なことだと思います。そうした意味でも、歌舞伎の「通し上演」をしていく試みは非常に重要であり大切であることを今更ながら強く感じます。
国立劇場の仕事として、やはり民間企業ではなかなか手が出せない「通し上演」という形で、古典芸能を守り受け継いでいくための事業が欠かせないことを実感いたします。
於染久松色読販 お染の七役
中村七之助丈が、油屋娘お染、丁稚久松、許嫁お光、奥女中竹川、芸者小糸、土手のお六、後家貞昌の七役を演じ分ける奮闘です。
ただ、今回はすでに五回目の上演とのこと‥
ご自分で役を開拓してきた作品ではなく、坂東玉三郎丈にしっかりと教えを受け引継いた作品ということを考えれば、早替りの鮮やかさだけに心を砕くのではなく、もう少し一役一役に、七之助丈ならではの工夫や深みが加味されていても良かったようにも思われます。
久松などは師の玉三郎丈より七之助丈の持ち役と言えるでしょう。
また、美しいながら所在なげに演じている役などより、どの役も生き生き演じていらっしゃることは確かです。
ただ、役の性根として心を動かされる女方の役を見せて頂くには、まだ距離があるように残念ながら感じられます。
自然と役の性根に同化していけるお父様のような役者とは違い、例えば、中村吉右衛門丈のように非常に分析的に役作りをしていくタイプなのだと思います。そうした個性は、客観的に舞台を見ることが出来る演出家のような仕事では能力を発揮できるでしょう。ただ、歌舞伎役者としていかに説得力のある役を演じられるかという点では、思いの他難しいところがあるのかもしれません。
地方の巡業において、本年お兄様の代役で弁慶をつとめられ、それが素晴らしかったというコメントをSNSで見かけました。生来男っぽく芯のある役が本当は好きなのだろうと推察します。
ただ、同じ男らしさでも、お兄様が予想を超えて『鎌倉三代記』の高綱を演じ上げてしまう個性を見せる一方で、七之助丈は弁慶というより、富樫の方なのだと私には思われます。
そして、久松や先日の『髪結新三』の手代忠七などもそうですが、こうした歌舞伎における役柄の人物と富樫は、実は歴史上同一人物であり、視点を変えて描いているにすぎません。そうした視点に立てば、七之助丈が手の内にしていける役柄だと私は考えます。
この歴史上の人物は、無器用で一徹、純粋な心の持ち主。本来はとても勇敢で強い人物です。そうした人物も時と場合、状況によって弱さを見せざるを得ないこともある。歌舞伎における女性も同じような人物です。正義感に熱く強く純粋な人であっても、どんな人にでも、弱さや情けなさ、嫉妬や業いったものを併せ持っているでしょう。
そうした視点をもって、歌舞伎における人物を掘り下げていけば、役の性根の中心には凜とした品格がどの役柄にもあることも見えてくるでしょう。
今後の七之助丈の役に対する取り組みに期待です。
今回、大詰めで中村橋之助丈の船頭長吉が色もあり、いい雰囲気をだしていました。鶴松丈の猿回しお作とともに、中村屋の舞台で大きな戦力となってきていることは頼もしい限りです。
鬼門の喜兵衛の喜多村緑郎丈、舞台での活躍の場がさらに広がることを願います。
また、序幕の柳島妙見の場と橋本座敷の場など、喜劇の味わいを出していくにはどんな試みが必要か、役者さんお一人お一人お一人のさらなる芸の工夫に期待したいと思います。
2024.00.24