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『扉座版 二代目はクリスチャン』に思う
白梅の芝居見物記 <任侠の世界を考える>
泥の中に咲く”蓮”の花の美しさ
原作:つかこうへい 脚本・演出:横内謙介 企画:見城徹
幻冬舎Prezents『扉座版 二代目はクリスチャン』(紀伊國屋ホール)を拝見しました。
笑いあり、涙あり、熱気がみなぎる社会劇。
素晴らしい舞台を見せて頂いて、感激しました。
歌舞伎中心の思考回路をしているので、さらに脚色は必要でしょうが、この作品は歌舞伎になるのではないか、歌舞伎にして欲しい、と強く感じました。
企画者である見城徹氏の思いが、さらに大劇場で老若男女を問わず多くの人たちの心に響けば、世の中に活気が生まれ、世の中がもっといい方向に進んでいける。そんな力を与えてくれるキッカケとなる作品になるのではないか。そんな思いにさせてくれました。
なんだか見なければならないような気がして、チケットを手に入れたのですが‥。手に入れた時はチラシがなくどんな芝居かもよくわかっていませんでした。上演が近づいてから宣伝の写真を見てびっくり。ヤクザがらみの作品だとは恥ずかしながら知りませんでした。
失敗したかも知れないと思いつつ拝見すると‥
社会の歪み、残酷さを扱いながら‥、それでも昭和的な仲間との結びつきを大切に、自分たちの力で懸命に生き抜こうとする人たちの姿が描かれていました。泥にまみれながら、聖なるものを心の片隅にもった人たちの姿。それは、悲しくもたくましく、”蓮”の花のように凜として美しい姿が描かれていました。
今では徹底的に否定されてしまう、暴力的であるかもしれないけれど、人間らしい、人と人とのぶつかりあい。
世の中の現状を受け入れるしかない‥、悔しさややるせなさや心の傷を抱えながら、それでも社会の歪みの中でもがき、闘い、生きていくことを諦めない姿。諦めさせないようにしようとする姿。そこには、”人間ていいものだな”と言える、愛や優しさや意気地や美学が、確かにある。
そうしたものが”昭和”にはあった‥
そして、それはすでに”歴史”になってしまっている‥
そんなことが胸に沁みる舞台でした。
ただ、そんな昭和を懐かしんだり、全肯定するだけで終わらせない。
昔を懐かしむだけではない。
そうかといって、世の中の歪みをただ批判するだけに終わらない。
問題を抱えながらも、前を向いて進んでいこうとする、そうした人間としての生き方の”美学”を、圧倒的な役者の熱量によって訴えかけてくる‥
<ALL YOU NEED IS PASSION>
副題に謳っている通り、生きた演劇ならではの、生の舞台ならではの迫力が、悲観的な心を生じさせない。明日の活力を私たちに与えてくれる。
一人一人の明日に向かう活力、矜持こそが必要なのだと訴えてくる。
そうした、素晴らしい舞台を拝見させて頂きました。
見城徹氏の情熱と、横内謙介氏の脚本演出の秀逸性が非常に大きかったのはいうまでもありません。
一方、つかこうへい氏の芝居作りの基本であったようですが、今回の舞台を成功させた大きな要因は、登場人物一人一人の存在感や熱演にあったことは間違いないと思います。
岡森諦氏、伴美奈子氏、新原武氏、他、皆さん一人一人が印象深く光っていました。とりわけ、有馬自由氏の渋い存在感と太刀捌きの見事さ、犬飼淳治氏の実直さと殺陣の切れの味が素敵でした。
排除されるあぶれ者
日本において、ヤクザの世界と”任侠”は切り離せない部分が歴史的にあるといってもいいと、私は考えます。
そして、それは長い日本の歴史の中で育まれてきたもので、決して”負”の側面だけではなかったと言えるように私には思えます。その”歴史”を考え直すことは、今後の世の中を考えていく上で、避けては通れないことであるのかもしれないと、今回、あらためて思わされました。
戦後、高度経済成長期を経て、ヤクザの世界が”暴力団”として排除されなければならなかった必然性が、果たしてあったのか。あったとしたらその理由は、ヤクザそのものの世界の変質に原因があったのか。世の中の側の都合によるものなのか。
「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」
戦後日本の行く末を左右したGHQのマッカーサー元帥の残した、有名な言葉です。
戦時下にあっては、神の如く崇められたり賞賛される軍人も、平和な世の中になったとたん、忘れ去られる。忘れ去られるだけならまだしも、その遺族も含め、軍人は非難の対象にさえなっていきます。
日本国を守るために命をかける自衛隊さえ、「暴力装置」と言ってはばからない政治家が出てくる世の中。まして、ヤクザは当然排除されるべきものとなっていったのは、世の中の考え方の変化といえる部分も大きかったかもしれません。
昭和の時代に日常的にあった任侠映画、その隆盛も今は昔のこととなりました。任侠映画で一世を風靡した高倉健さんが男性の理想像であった時代さえ、もはや過去のものとなっているのだと思います。
私自身、子供心に温泉施設でよく上映されていた任侠映画が恐ろしく、それがトラウマとなったのか、若い頃は邦画を見ることさえずっと避けるような心理になっていました。
若き頃、大阪道頓堀の中座に歌舞伎を見に行ったとき、その楽屋に、その筋の人と思われる人が入っていくのを偶然見かけてびっくりしたことを覚えています。昔、興行側には興行が無事に行われるようにその筋に対応する方がいたと聞いたことがあります。四国のこんぴら歌舞伎大芝居が上演されるようになった当初、初日前に、木刀をもって肩をゆらしながら十数人以上の集団が、芝居小屋にゾロゾロ来ていたのを見たこともあります。
それなりの機能があって続いてきた慣習でもあったのでしょう‥
ただ、警察という公権力で世の中の秩序が保たれるのであれば、その筋の人に頼らなくてもいい時代が来たという点では、否定されるべきことでないのは言うまでもありません。
ただ、本年も歌舞伎座で「清水の次郎長」が8月に上演されしたが、任侠物の世界で描かれる美学は、決して忘れ去られていいとも言えないように私には思われます。
そうした美学がどこから来ているのか。新しい時代にも伝えられる美学として生まれ変われるのか、少し考えてみたいと思います。
あぶれ者をまとめる姐御の伝統
たまたま、歌舞伎『マハーバーラタ戦記』が再演されたばかりで、それを考察していく中で、この叙事詩がキリスト教の成り立ちに関係しており、大乗仏教にも関係していると思われることに言及しました。
今回、つか氏やそれを発展させた横内氏が意図的に設定されたのか、たまたまそういった設定になったのかわかりませんが、キリスト教の成り立ちを暗示するかのごとき内容になっていたことに驚きました。
私には、神竜組の二代目組長となる「今日子」の人物像が、マグダラのマリアに重なります。ただ、ここでは、キリスト教に言及する余裕はないので、その点の指摘だけしておきたいと思います。
日本において「一家」とされる規模のあぶれ者の集まりでは、それを束ねていく上で「姐御」の存在が大きかったのではないかと、推測します。
その「姐御」の美学が強い「一家」の伝統の中で、「力」の均衡における衝突だけに終始しない、任侠の行動原理が生まれ受け継がれた。それが日本のあぶれ者の集団の特徴ではないか。
外国のマフィアや、日本においても広域暴力団に成長していくような大きな組織との違い。男性間での権力闘争の論理だけが働く集団との決定的な違い。それが、その集団に女性(母性)的考えが反映されるか否かにあるのではないか。
私は、中世足利氏までの清和源氏の棟梁は女系(母系)であると考えています。詳細は別のところで少し触れているので参照して頂けたらお思います。清和源氏の在り方を考える場合、清和天皇に関して考察する必要があるのですが、そこまではまだ自分自身至っておらず、言及がまだ出来ません。ただ、武家政権を担ってきた系譜の中で、清和源氏発展の礎を築いた多田満仲の在り方は、その後の清和源氏の流れを引く河内源氏の在り方にも大きな影響を与えたことは間違いないと思います。
多田満仲は、武官貴族でしたが、中央政界の中で高級官僚に使われ暗躍、汚れ役を引き受け殺生など悪行を繰り返し、官職と富を得て勢力を拡大。さらに武士団を形成するに至った人物です。武士団と言うのは言わば、荒くれ、あぶれ者の集まりであり問題も起こします。ただ、満仲は中央から罪人として追求され捕まえるように命ぜられても、配下の者をかばうような姐御肌の人でもありました。
そして、殺生を禁止する仏教全盛の時代にあって、悪行の限りを尽くすのですが、晩年は多くの郎党や家人とともに出家し仏道に入った人でもあります。
近世、江戸時代になるまでは、清和源氏は女系(母系)でした。
日本の「家」を守る、最小単位の共同体を守るという考えは、子供や女性を守るという発想から出てきていると私は思っています。
男性の戦いは、雌雄を決し自分の縄張りを認めさせるためにあるのでしょうが、女性の戦いは、子供や集団を守ることにあります。
そうした考えが、男系となったにも関わらず、清和源氏を自称した徳川政権にも受け継がれ、武士道精神にも反映されていった‥。そう推測しても無理がないように思います。
「肝っ玉母さん」などという言葉も、もう死語と言えるでしょうか。
母であることより、女であることが優先される昨今。
また、父であるより、男であることが優先されているようでもあります。
男性の「任侠」の精神を支えるのは、「母性」であると言えるのか。「父性」を支える「母性」の再評価、それが必要な時代なのか‥
そんなことを考え直してみることも必要かと‥
とりとめのない話になってしまいましたが。深めていきたい課題を頂いた作品に出会えたことを感謝します。
2023.12.3