大阪 立春歌舞伎特別公演 昼
「大阪国際文化芸術プロジェクト」の一環として、「立春歌舞伎特別公演」が大阪松竹座で上演されました。
上方の文化芸術を世界に発信することを目的に、大阪府と大阪市が共同で今年度から始動したプロジェクトとのことです。
歌舞伎芝居が、古典に学び伝統を守りつつ、新しい世の中の活力や叡智を生み出すことの出来る発信拠点になっていけるとしたら、とても素晴らしいことではないでしょうか。
様々な取り組みによって、とにかく「行動」し「実現」していこうとする前向きな姿勢が、明日につながっていくと信じます。
観客のニーズに合わせつつ、次世代につながる「伝統文化」を育んでいっていただけたら、こんなに嬉しいことはありません。
『源平布引滝』 <白梅の芝居見物記>
『源平布引滝』は、寛永2年(1749)大阪竹本座で初演された時代物の人形浄瑠璃です。
全五段の作品の中で、歌舞伎では二段目切の「義賢最期」と三段目切の「実盛物語」が歌舞伎でもよく上演されています。今回はその間に三段目口と中の「竹生島遊覧」を挟んで一纏まりの半通し狂言として昼の部に上演されました。
賛否あるようですが、私にとっては丸本歌舞伎の今後の上演に対する可能性を考えさせていただく良い機会となりました。
人形浄瑠璃の物語性の長所を生かそうとする考えは、当代の片岡仁左衛門丈のお話に色濃くお示しになられているところですが、そのお考えを片岡愛之助丈も引継いでいらっしゃるのでしょう。
そうした今の観客にわかり易く物語を提示していこうという姿勢は、いかに観客によりよい舞台を提供できるかという思いから生まれてきているからこそ、舞台としても成功をおさめていらっしゃるのだと思います。
浄瑠璃作品それぞれが持つ作品のテーマをしっかり芯に据えていれば、枝葉を切っても古典作品としての生命力は失わない。
様々な捉え方によって、様々な解釈の上に古典作品が上演されてもいい。むしろそうした、それぞれの時代の役者の解釈によって生まれ変わり続けてきたからこそ、歌舞伎は常にその時代の観客に受け入れられる古典であり続けることが出来たと言えるように思われます。
そうした視点をもってみると、現在埋もれている数多の浄瑠璃作品に、今また日の目を見せることのできるものがあるのではないか。
その作品の本質を読み解けば、今だからこそ上演できる作品や、見せ方があるのではないか。そんな思いにとらわれました。
歴史の重みを考え直すことにはつながらない奇想天外な新作だけに頼らず、浄瑠璃という宝庫の中に新しい可能性を見いだしていく、そんな行き方もあるのではないか、そんなことを考えさせられました。
義賢最期
三幕を通しで見てみると、『実盛物語』の面白さに比べ若干見劣りがしてしまった感は否めません。
折平の尾上右近丈を除き上方役者の布陣で固めましたが、右近丈の存在感に比して中村壱太郎丈の小万を除き、上方勢がこぢんまり纏まってしまっているように私には感じられてしまいました。
上方の観客の視点からすれば、右近丈が芝居としてのまとまりを崩しているように思われるのかもしれませんが‥。
厳しい見方かもしれませんが、上方ならではの芝居を目指すのであれば、右近丈の存在感に負けない芝居を上方勢が目指す必要があるように私には思われます。
特に愛之助丈のさらなる奮闘が期待されます。
時代物の修羅場として、役者としての大きさや肚のすわった重厚さ、もしくは微に入り細にうがった人物像の描出がもっと欲しいように思われます。どれをとっても、残念ながらまだ愛之助丈には物足りなさを感じざるを得ません。
派手な立回りでの「戸板倒し」や素襖大紋での「仏倒れ」など見所満載の一幕で、若いうちはその清新さが魅力ともなりますが‥。
今の愛之助丈がそこで止まっていたのではいけないように思います。
上方歌舞伎を担っていこうとされる立場を自覚するのであれば、課題はまだまだ大きいといえるのではないでしょうか。
歌舞伎役者の五十代というのは、なかなか難しいものがあると思いますが‥。
通しにしたことにより、この作品における「源氏の白旗」のもつ意味がいつも以上にクローズアップされることになりました。小万が命をかけ、実盛が泥をかぶってでも守り抜こうとした「源氏の白旗」の意味するもの。
今その意味にまで言及することはしませんが、義賢が「素襖大紋」をきちんと身に付けなおし最期を迎える、その矜持とはどんなものなのか。
そうしたことが心に残るような芝居が見たいと一観客としては思ってしまいます。
松竹座という義太夫狂言が生きる劇空間では、アクロバティックな場面だけにスポットがあたるより、時にはじっくりとした芝居の方が作品としても役者としても生きるように思われます。
『義賢最期』もそうした深いテーマのある作品であることに改めて気付かされました。そうした視点に立てば、観客にそう思わせるだけでも半通しで『源平布引滝』が上演された意味は大きく素晴らしい試みであったはこと確かだと言えましょう。
昼の部の座頭として、愛之助丈の一座全体にスポットが当たるような取り組みは、一座の実力の底上げにとっても芝居自体に活力が生まれるという点でも、大変よい取り組みであると思います。
こうした意欲的な試みを継続し、また果敢に挑戦していくことによって、是非とも上方歌舞伎をさらに盛り上げていっていただけたらと思います。
竹生島遊覧
義賢館から矢橋(ヤバセ)、竹生島遊覧の場まで、小万を演じる壱太郎丈が大変魅力的でした。
凜としていながら情も程よくみせている上に、やはり若々しい演技と身体能力で、義賢館だけでなく、矢橋や竹生島遊覧の場を付け足しに終わらせない見せ場にすることに貢献していたと思います。
この幕での愛之助丈の実盛は、生締めがよく似合っていて爽やかで色気もあり、観客にとっては嬉しい一幕になっていたかと思います。
また、義賢館での進野宗政といい竹生島遊覧での塩見忠太といい、上村吉太朗丈が芸域を広げ奮闘していらっしゃる姿を、微笑ましく拝見しました。
実盛物語
一座にいい意味での纏まりがあり、芝居も手堅く充実していて楽しめました。
葵御前で抜擢を受けていた片岡千壽丈。義賢館ではまだ時代物の格を出すまでには至らず物足りなく感じましたが、この世話場では艶もありいい芝居を見せて下さっていました。
愛之助丈の実盛も作り込まなくとも自然体で魅了があり、上村吉弥丈や片岡松之助丈がしっかりと脇を支え、安心感のある舞台でした。
ただ、鴈治郎丈の瀬尾には少し物足りなさを感じてしまいました。
最近は老け役にも、ただ老けているだけでない厚みと味わいのある芝居をを見せてくださっていますが、この役は丈の仁とは言えないように私には思われました。
2024.2.24
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