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”芸の工夫 1” 古典芸能の身体表現

歌舞伎鑑賞教室、虎之介丈の「歌舞伎の見方」に思ったこと

 未だ、先が見えないことがありますが、お帰りになることを信じて、前向きに一歩一歩進んで参りましょう

 6月、印象に残った事の一つとして、国立劇場の歌舞伎鑑賞教室における、中村虎之介丈の「歌舞伎の見方」があります。
 幕開き、洋楽に洋服姿で登場し、若者達の関心を舞台にしっかりつなぎ止めることに成功していた「歌舞伎の見方」。その「舞台運び」(?)は、彼のインタビュー(CREAweb)であかされたように、回を重ねるごとの工夫のたまものだということを改めて感じさせる出来栄えでした。
 洋服から、着物に袴、さらに浴衣にまで早変わり(?)し、中村祥馬丈をアシスタントに奮闘する姿は、頼もしい限りでした。
 クイズに答えてもらうため、座席の下に解答するための装置がある旨、虎之介丈が案内した時、学生さん達が一斉に身をかがめてその装置を探す姿は、3階から見ていて壮観でした。国立劇場で見慣れている者にとって、そうした装置などはなく、冗談だということはすぐにわかります。初めての学生さん達にわからなかったのは当たり前ながら、皆、クイズに積極的に参加しようとするだけ、虎之介丈に「つかま」れていたのが、よくわかる風景でした。
 若いときの体験は、長く記憶に残るものです。
 学生さん達に、その後の舞台も興味深く観ていただけたことは、やる側にとっても、観る側にとっても意義深いものであると思われます。
 すべてに対して、「工夫」するということの大切さを改めて、虎之介丈に教わった気がします。

 ただ、ひとつ今後の工夫のために、虎之介丈に期待することは、幕開き、洋楽・洋服で登場した際に、せっかくなら、そのビートにのって踊るところまで「見せる」意識を持っていただけたらということです。
 もうしばらくは、鑑賞教室はないではないかとおっしゃいますか?
 いえいえ、鑑賞教室に関わらず、下半身の安定感、ねばり、ばねを持った古典的な肉体の芸を身につければ、現代的な音楽や肉体表現でさえ、手の内のものとなる、ということを言いたいのです。

丹田を中心とした日本の古典芸能の身体表現-その面白さ

 古典芸能の身体表現は、丹田を中心にしています。
 現代の身体表現は、腰高であり、みぞおちあたりを中心にしています。

 何年か前までであったら、古典的肉体表現と現代的肉体表現は、別物で相容れないものだと私も思っていました。
 しかし、今では現代の肉体表現に、古典的肉体表現の面白さを取り戻していくことの意義を、強く感じるようになったのです。

 そのため、市川猿之助丈への期待として、ワーグナーの『ニューベルングの指環』を歌舞伎にしていただけたらとの思いも生まれました。
 それは、歌舞伎役者に、オペラ歌手のように歌うことを期待しているのではありません。オペラの音楽自体に、古典的肉体表現との親炙性があり、歌舞伎と融合出来るのではないかと思ったからです。

 私が、そんな視点をもつに至ったきっかけは、ラジオにおいて、民謡歌手でもある方が、オペラを歌うのを聴いたことでした。
 映像だけではありますが、ある程度オペラに親しんだ私にとって、言葉がわからなくとも、それは聴いているだけで大変面白いと感じられるものでした。
 そして、そのオペラが生まれた当初は、現代の都会的な唱法ではなく、ある意味、土着的な、ある意味民謡に近いような唱法で表現されていたのではないか、と思わせるほど、音楽自体とマッチしているように感じられました。

 武智鉄二氏が、白石加代子さんに認めた、土着的な表現を自然と出来る身体性。
 それは、今でも、ベテランの歌舞伎役者の肉体には辛うじて残っているし、若い役者の皆さんが目指していける肉体性だと思います。

 昨年、8月の納涼歌舞伎における『弥次喜多』で、市川猿弥丈が、市川染五郎丈の代役をつとめた時のことです。現代的な音楽にのって、踊るシーンがあったのですが、これがとても面白かった。
 染五郎丈が復帰した際、再度『弥次喜多』を観に言ったのですが、そのシーンの、踊りとしては、圧倒的に、猿弥丈の時の方が面白かったのには驚かされました。
 まさに、古典的肉体や技術が、現代音楽にのった表現にいかされる例といえると思います。
 現代音楽にのりながら古典的な肉体技術で見事に表現出来るのは、この猿弥丈と、藤山直美さんが、双璧だと私は思います。

                      2023.6.30


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