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巳 新春浅草歌舞伎 <白梅の芝居見物記>
真摯で清新な若さ溢れる舞台
歌舞伎の殿堂、歌舞伎座での舞台では古典作品が少なくいささか寂しさを感じさせられた一方で、浅草は平均年齢24才という若者達が、古典作品に果敢に挑戦する姿が清々しい、浅草の初春歌舞伎でした。
一部と二部それぞれで同演目を違った配役で見せる趣向もとても面白いと感じられました。
昨年までの舞台は、稚拙な自分たちをいかに成長させるのか‥、自分たち自身でこの興行を成功させなければならない、といった責任感を感じさせる意欲的な姿が応援させたい気持ちにさせていただけるものでした。
本年は古典への取組みの大切さをしっかりと自覚している若手の真摯な姿が印象的なのは勿論ですが、その背後に感じられる親や師の熱い思い入れが透けて見えるところが、舞台に充実感を与えているように思われました。
絵本太功記 尼崎閑居の場 (一部)
市川染五郎の光秀、中村莟玉の久吉、中村鷹之資の十次郎、中村鶴松の操、中村玉太郎の初菊、尾上左近の正清。
やはり一番目を引いたのが染五郎丈の光秀でした。十代にしてこの義太夫狂言の難曲に果敢に挑戦し、ここまで成果をあげるとは正直思っていなかったのでとても驚かされました。ダブルキャストである年長の橋之助丈にも負けまいとする意識があったのでしょう。力のこもった肚の大きな舞台で、この一場の座頭として力強く舞台に存在していただけでも素晴らしい出来栄えであったと思います。肚を十分に意識しながら型を丁寧に描いてゆく上に、熱演で身体を大きくゆするのですが、大落しのところでさえ行過ぎたおおげさな演技には感じられませんでした。真摯で清新、初演ならでは、若さならではのフレッシュな光秀であったからこそでしょう。
莟玉丈の久吉は、とても華があり爽やかであるのがこうした役どころの仁(ニン)にあっていることを感じさせました。ただ、義太夫狂言としてのこの場の久吉はそれだけでは十分でないのがこの役の難しさで、それが最初の数分に出ないといけないのだと思います。本作において久吉は天下統一の過程の中でキャスティングボートを握る人物として描かれていますが、史上の秀吉を描いてはいません。外題の『太功記』が「太閤記」でないことも注目すべき点です。その一筋縄ではいかない人物像が究極的には求められる役どころであることは心にとめて置きたいところだと思います。
鷹之資丈の十次郎。初演としてはよくやっている‥ということだけで終わらせてはいけないと思うので、期待という点で少々辛口なコメントをしたいと思います。お父様はお亡くなりになる前に確か中村吉右衛門丈に鷹之資丈のことを頼まれていたようにお見受けしていました。その親心に思いを致してみることも必要なのではないかと私は考えます。お父様を追い求めることは決して悪いことではありません。ただ、二代目市川猿翁丈が市川團子丈に「お祖父様より立派な役者になる」ことを口上で言わせたのは、それなりの思いがあったからだと私は思います。鷹之資丈のお父様にもそうした思いがあったであろうと私は推察します。鷹之資丈には上方歌舞伎を支えていく一員になっていくことも期待されているでしょう。「中村富十郎」という名前はは歌舞伎史においても燦然と輝く大変大きな名跡です。義太夫狂言をきっちりと学び自身の血肉にしてこそ、ご自分自身がこの歌舞伎界で責任を果たす立場となり、なくてはならない存在になっていく道筋のように私には思われます。
染五郎丈の話を伺っていると、お祖父様やお父様の指導のだけではなくかなり光秀の役を自ら深く研究しているようにお見受けします。鷹之資丈にももう一歩将来を見据えた野心と責任感、それに伴う芸を身に付けていく貪欲さが求められるように私には思います。
教わることを待つだけではなく、先輩方の芸を見て自ら研究し貪欲に盗み吸収していく姿勢を私は期待したく思います。
鶴松丈の操が、他の役者の邪魔にならないという意識が必要以上に働いているためか時に貧相に見えてしまうのが残念でした。他の役者の邪魔にならないようにその人物としての肚を持って舞台に存在することは出来るだろうと思います。光秀を支えてきた奥方がどんな人物なのか、どんな人物であって欲しいのか、どんな役にもその役者の人としての美学が表れてこその歌舞伎芝居であると私は考えます。
玉太郎丈の初菊。毎日ダメだしをしてもらえる立場ではないでしょうが、中村魁春丈の清潔感のある純真な赤姫の芸系を継いでいける可能性がある役者さんであると言えるように私には思われます。自らももっと積極的に近くで修行していく気持ちを持つことが必要かもしれません。
左近丈の正清が思ったより健闘していて、隈取りも映えていました。役者としての方向性にまだ迷いがあるようですが、どんな役にも果敢に挑戦していい時期なのかもしれません。
道行旅路の花婿 落人
舞踊の難しさを今もって感じ、またこの舞踊を数多くの名優達で見てきている者として、改めて中村橋之助丈の勘平、莟玉丈のお軽に関して云々することは差し控えたいと思います。
二人とも舞台が華やかで大きくなってきているとは言えるかと思います。
私がこの幕で一番印象に残ったのが、中村玉太郎丈の鷺坂伴内です。慣れないながら生真面目に伴内を演じているところが、かえって独特の味わいと面白さをかもし出す結果となっていたのかもしれません。それが今後のこの仁の役柄につながっていくものなのか私にはわかりませんが‥。玉太郎丈には他の役者にはない独特の味わいがあることは確かであり、大切にすべき個性であることは間違いないかと思います。
春調娘七種
この舞踊は本来かなり古風な味わいのある舞踊なのだと推測するのですが、まだこれぞという舞台の記憶がないので、私としてはそうした舞踊に巡り逢ってみたいものだと感じさせる演目です。
左近丈の五郎、玉太郎丈の十郎。丁寧に踊ることに精一杯といった踊りがかえって真摯で清々しい舞台にしていて、いい一幕になっていたように思います。
その中で、鶴松丈が舞台慣れしつつある静御前を見せるのですが、この舞踊における静御前というのがどういった魅力を持った役として描かれるのか骨格が見えてこなため、面白みに欠けてしまうように感じられるのが、舞踊の難しさではあると感じさせる舞台でした。
絵本太功記 尼崎閑居の場 (二部)
橋之助の光秀、染五郎の久吉、鶴松の十次郎、莟玉の操、左近の初菊、鷹之資の正清。
皐月は一、二部とも中村歌女之丞。
橋之助丈の光秀がお父様を徹底的に写すことを目指したとのこと。いい意味でも悪い意味でもそれが表れた光秀であったと思います。染五郎丈同様ベテラン俳優にはない、初役で真摯に取り組んでいる姿勢がよく表れていて、オーバーな大落でも鼻につかず光秀の心情が素直に感じることは出来ました。お父様は先代の成田屋に指導を受けたということです。その元をたどれば、初代中村吉右衛門から初代松本白鸚丈に伝わった型なのかもしれません。ただ先代の成田屋、二代目尾上松緑にもつながる芸風をさらにお父様が発展させているようで、成駒屋らしい光秀に磨きをかけていって頂きたいと思います。
浅草歌舞伎の座頭としての大きさは十分出てきているかと思います。長男気質とのご自覚もあるようですが、少し神経質で物事に性急な面があるところもあるように感じられます。それが役によっては肚の大きさ、おおどかさを欠くことにもつながりかねないので注意したいところです。
鶴松丈の十次郎は、教わったことを丁寧に消化し儚い哀れさや色もあり初役にしては健闘されていたと思います。ただ、鎧を身にまとって暖簾から出てくる姿に五等身の五月人形のような幼さなさが感じられ、この役の難しさ今更ながら感じさせられました。肉体的な柄の問題ではなく、やはりこの役には光秀をはじめこの一家が目指しているもの、光秀の心の辛さ、それを幼心にもしっかりと受け止めた上で負け戦に向かっていく、凜とした人物像がにじみ出ていなければならないのだということを痛感します。
型をなぞるだけでは決して出てこないものでしょう。歌舞伎役者としての日頃の精進だけでなく、人間としてどう在りどう考え行動しながら日々を過ごしていくのか。恐らくそれが滲み出てきて初めて完成していく役なのだろうと今回しみじみ思わされました。
莟玉丈の操。片外しの役柄も無理なく気品が出てきていることは成長だと思います。ただ、鶴松丈のところでも書きましたが、役に対する掘り下げが
求められるステージにあるこは確かであり、今後はより大切にすべきテーマになっていくことは間違いないと思います。
染五郎丈の久吉は、華があって爽やかな武者ぶりで、若さならではの活気も魅力でした。ただ、莟玉丈のところでも書かせて頂きましたが、この役はそれで終わらせられない役であることは心に留め置きたく思います。
左近丈の初菊。毎日指導を受けながら健闘した雛鳥とは違い、まだこうした大作の赤姫を演じるまでの地力は付いていない現状は否めません。気持ちだけでは表現出来ない技巧的難しさがやはり歌舞伎を支えているのだと改めて思います。
鷹之資丈の正清。等身大でも違和感なく舞台に存在できているところに成長を感じさせてくださっています。
皐月の歌女之丞丈、若手ばかりの公演で手堅い芝居を見せて下さっています。ただ、歌舞伎座の大舞台においてこうした大役で成功をおさめる志があるのであれば、役柄としての格―それは肚がある芝居が出来るか出来ないかということだと思いますが―が必要であり、そこにいくにはもう少し距離があるように思われます。
棒しばり
元気いっぱいで楽しい舞台で浅草の街に打ち出されるといった面ではいい演目であったろうと思います。初心者のお客様にとっては満足のいく打ち出しであることは確かだと思います。
ただ、老婆心から申し上げれば、ともすれば激しく身体を動かすことに意識が向かいそれを競い合う舞踊のようになりかねない演目です。本来は舞踊としての味わいがなくてはならないはずです。若く身体が動く分、役者同士が競い始めると運動会もどきになっていきます。そこは抑えて間の面白さで見せる舞踊を目指していただきたいと思います。
2025.1.31