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歌舞伎とは如何なる演劇か その参

初夢と三大仇討ち

 「一富士、二鷹、三茄子(ナスビ)」
 これは初夢として、縁起のいい夢を順に並べた語とされています。
 何故、この三つを縁起物とするかには、諸説あります。
が、本来は、日本の三大仇討ちの成就を指して、縁起のよいものとする考え方から生まれた、とする説が正しかろうと私は思っています。

 富士山の裾野で果たされた曽我の仇討ち。
 主君、浅野家の紋所が”鷹”の羽であった赤穂義士の討入り
 茄子のヘタにはトゲがありますが、イガナスから連想される、伊賀上野の仇討ち

 初夢として、目出度いのは
 富士が日本一の山であり、不死を表すから、とか
 鷹が百鳥の王で、「高」を表すから、とか
 茄子が「生す」「成す」を表す、とか
 そうした説が今は一般的ですが、それは「仇討ち」を単なる「復讐」と見なす考えが出てきた影響で、解釈も変化してきたのではないか。
 この三つの仇討ちを伝承する意味を見いだせなくなった、時代の移り変わりのなかで生まれてきた解釈ではないか、と私は思います。

 江戸時代の「仇討ち番付」には、様々な仇討ちが列挙されています。
 その中でも、曽我、赤穂、伊賀が、三大仇討ちに選ばれているのには、やはり大きな理由があります。
 それは、この三つが、幕府の中枢の政道に対して物申した、もしくは物申す結果となった事件であるからです。
 伊賀の仇討ちに関しては、芝居が最も危険視される事件を取り扱っていると私は考えていますが、その詳細に関しては、かなりの説明が必要なので、ここでは触れられません。
 ただ、他の二つに関しては、詳細な説明がなくともを、作品を素直に見れば、考え得る範囲で解釈出来ると思います。
 まずは、曽我の仇討ちに関して考えて見たいと思います。

曽我仇討ち

中世の『曽我物語』 

 歌舞伎において、曽我狂言と呼ばれる作品群は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて成立したとされる『曽我物語』を題材として、書かれたものです。 
 曽我の兄弟が親の仇を討つという物語。
 親の敵である工藤祐経を、源頼朝が催した富士山の裾野での巻き狩りの夜、兄弟が討ち果たしますが、兄の十郎はその場で殺され、その後弟の五郎も処刑され命を落とす、といった内容です。
 兄弟の、御霊信仰を背景とした伝承をもとに成立しているとされますが、実は鎌倉幕府成立における史実では語られない、歴史の裏側が描かれており、それはそれで、考察されるべき重要性を持つ物語と言えます。

 そうした背景がわかった上で、歌舞伎においても曽我狂言は成立していると思われますが、そこには踏み込まなくとも、上演される内容を考えるだけでも、十分ではないかと思います。

曽我の対面

 今に伝わる歌舞伎の曽我狂言においては、曽我兄弟によって工藤祐経が討たれることはなく、兄弟が殺されることもなく、祐経が兄弟との再会を約束して「幕」となります。
 歌舞伎において、工藤祐経は一座の座頭級の役者がつとめる、格の高さが必要で重要な役どころであり、単なる敵役ではありません。
 そして、回りの協力で工藤に「対面」した兄弟に、祐経は仇討ちよりは、源氏の重宝「友切丸」を探せと命じます。何故「友切丸」なのか。

 歌舞伎で描かれる曽我物は、頼朝時代の事を描いてはおらず、祐経も、十郎、五郎も、鬼王新左衛門も、そのモデルが誰かということが実は重要になってくるのですが、そこには踏み込みません。
 ただ、今上演されている芝居の中の状況として、公の責任を全うできる要件を揃えることを、祐経は兄弟に要求していると言えると思います。

 その要件を満たせる協力者がいることを確認すると、祐経は公の責任ある仕事を全うするまでは、自分が兄弟の敵として討たれることは出来ない、時節を待つように言います。
 兄弟も、悔しいけれど、公の立場にある祐経に、それ以上迫ることが出来ないという状況を受け入れます。ただ、祐経は仇と名乗ることは出来ないが、公の責任を全うした後、兄弟に会うことを約束し、約束の印の手形を渡して舞台は幕となるのです。

将軍家の動向と曽我

 元禄十年(1697)、京都の都万太夫座で上演された、近松門左衛門の「大名曽我」の狂言本に、「嘉例なれば今年も曽我をするであろう」という言葉があり、その頃には曽我物が吉例になっていた、と推測されています。
 江戸においては、曽我物は、享保年間(1720年代)頃より、初春(正月)狂言として上演が定着するようになったようです。
 能にも曽我を題材にしたものがありますが、上方や能における曽我物と、江戸の初春狂言として吉例になり、今に伝わる曽我物は、作品のテーマ自体がかなり変化してきている、と言えるのではないかと私は思っています。

 享保年間と言えば、八代将軍徳川吉宗の治政下です。
 吉宗の二代前、病に倒れた六代将軍徳川家宣は、幼い我が子ではなく、尾張藩から次期将軍を迎え入れる意向があったようです。ただ、回りの説得により断念し、息子の家継がわずか5才で七代将軍に就任しまた。しかし、家継は8才にして逝去してしまいます。この時、尾張から次期将軍を迎え入れる動きが当然あったでしょう。それが、将軍候補からはほど遠い存在であった吉宗が、八代将軍に付いた経緯に関しては、憶測とされる事が、実際にいくらかはあったのではないか。

 歌舞伎狂言の中でも、毒殺を試みる悪人がよく登場するようになります。加藤清正の毒殺説をにおわせる歌舞伎狂言もあります。しかし、戦国から徳川初期の天下統一の過程で、毒殺を政争の手段にする風潮があったとは、歴史を追っていても、私には考えられません。
 主に天下統一の過程における人物を描くのが、歌舞伎の中心テーマであると私は考えていますが、歌舞伎がその時代に息づくメディアでもあることを思えば、後の時代の出来事が当て込まれているのは、当然とも言えるでしょう。

 こうした狂言が生まれる背景は、吉宗が将軍になる経緯が関係するのではないか。
 吉宗その人は、回りに担がれ将軍になった人であり、直接陰謀らしきものに関わったとは、その後の動きを見ても、考えられません。
 ただ、それをよしとする勢力に担がれ将軍になった可能性は、排除出来ないのではないか。

 当時の政治状況として、質素倹約の中で幕藩体制を健全化させていくのか、貨幣経済を発達させる方向にカジを切るのか。どちらにも、それぞれの言い分があったと思います。政治の中で理想を実現していくことの難しさは、昔も今も変わらないのだと思います。
 そして、吉宗、家重、家治の時代、まだ、幕府自体は政争の中でも、よりよい方向に進む道を模索する健全さは、残っていたのだと思います。

曽我上演史に見る世の中の健全性と頽廃

 江戸の中心地で、初春の寿狂言として、曽我物が上演され続けたのは、どんな立場にあっても、世の中に責任を持っているのだという芝居側の意思表示と言えるでしょう。また、そうした意識の客層に支えられていたのが、歌舞伎であると言えると思います。
 さらには、江戸の中心地で、そうした初春狂言を上演されることが許されていたこと、これは大変重要なことであると思います。

 そして、自ら世の中に責任を持って行動しようとする人たちが、都市だけではなく、全国に、農村社会を含めた地方のコミュニティに存在していたのが、江戸時代であったと言えると思います。
 そのことは、天下がどういった考えのもとに統一されていったのかということと、深く関わることで、記憶にとどめていただきたいと思います。

 初春の曽我狂言も、幕末近くなると頽廃的な雰囲気の強い世話がかった狂言が主流となり、不健全さが強くなっていきます。
 寛政の改革を経て、世の中の腐敗が進み、どうしようもない閉塞感が蔓延する中で、さらに天保の改革による打撃が、芝居の世界にも大きな影を落としていった結果と言えるでしょう。
                        2023.8.29
 

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