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辰 明治座 十一月花形歌舞伎 昼 『車引』『一本刀土俵入』『藤娘』

<白梅の芝居見物記> 

 菅原伝授手習鑑 車引

 坂東彦三郎丈の松王、中村橋之助丈の梅王、中村鶴松丈の桜丸。
 私自身大好きな演目の一つであり様々な役者さんの素晴らしい舞台を拝見して来ているので、足りないな‥と感じてしまうところは確かにあるのですが‥。ただ、今回明治座というほどよい舞台空間で、肉弾戦のような荒事と荒事がぶつかり合うような舞台というのをはじめて拝見して、若手公演ならではの舞台といえるのかもしれませんが大変興味深く、面白く観ることが出来ました。

 橋之助丈。筋書にある梅王丸の写真は7年前のものだそうですが、その時に比べずっと隈取りが栄える立派な顔に成長されていて、それがとても印象的でした。花道の引込みが先々代の尾上松緑丈のように丸みがあっておおどかな荒事らしさが感じられるところもよかったです。また、彦三郎丈の松王丸を相手に一歩も引かない若さがほとばしる力強い舞台を見せていただきました。『菅原伝授手習』では桜丸や松王丸に比べて梅王丸は影の薄い人物と見做されがちかと思います。座頭格の役者は松王丸を演じるのが今では普通になっていると思いますが、「車引」や「賀の祝」ではこうした拮抗するような「力と力」のぶつかり合いや喧嘩をするところが、実は舞台としても非常に面白いのものとなることを、今回の舞台からはじめて教わったように思われました。

 彦三郎丈は口跡のよさが生かされて、荒事の台詞術に果敢に挑戦されており大きな成果をあげていらっしゃると思います。荒事と言えば力強さや役者ぶりの大きさが強調されます。もちろんそれも重要なのですが、荒事ならではの台詞の面白さというのは確かにあるのであって、さらに磨きをかけて荒事の台詞術の素晴らしさをご自分のものにして頂けたらと大きな期待をよせずにはいられません。今回の松王丸の力強さにさらに磨きをかけた台詞術が加われば他の役者さんにない武器となっていくのではないでしょうか。さらにさらに「連ね」のような弁論術とも言える荒事の台詞術に取り組むことが出来れば、新しいタイプの(私としては本来のと言いたいですが)荒事役者としての可能性も開けてくるのではないかと期待が膨らみます。

 鶴松丈ですが、桜丸が実は若手の役者さんには一番ハードルの高い役かと私は思います。その上今回は肉弾戦の兄二人の芝居に引きづられてキリリとした強さが前面に出るのはやむを得ないかも知れません。若く美しいところが芸の足りなさを補っているので、決して悪いとは言えないですが‥。一つだけ大きな期待を寄せたいのは花道の引込みです。最近は、二歩ほど和事味のかかった歩きの芸を申し訳程度に見せるだけで梅王丸を追ってバタバタと入ってしまう桜丸が多く、そのことが気になっていました。鶴松丈もご多分に洩れず速ければいいのかと思われるくらいの勢いで走り入ってしまうのが私としては大変残念に思われます。桜丸らしい走りの芸を見せるのが本来の歌舞伎の在り方ではないでしょうか。それを省略してしまうのではなく見せ場としていけるように努力するのが、歌舞伎役者さんとしての本道ではないかと私は思います。そうしたしっかりした芸を身に付けるべく精進を重ねて頂けたらと願ってやみません。 

 一本刀土俵入

  中村勘九郎丈の駒形茂兵衛が、昨年の秀山祭における代役の時とは見違えるほどで、先々代の中村勘三郎丈の逸品を彷彿とさせるところもあり、丁寧に仕上げられていてとてもよい舞台を見せて頂きました。
 「新国劇」を観ているような肌合いの芝居になっていて、今では貴重ともいえるお祖父様以来の中村屋ならではの『一本刀土俵入』を見せていただけたと思います。勘九郎丈の茂兵衛にはお祖父様やお父様のように渡世人のキレの中にも柔らかみのある人物像を描き出す芝居とは違って、ともすれば鋭すぎるとも言えるようなキレがあり、勘九郎丈ならでは茂兵衛像をつくりだしつつあるようにも感じるところでした。取手の宿では素直で朴訥な若者でありながらどこか知性を感じさせるところがあるのが特徴的です。若さならではの魅力も光る今回の舞台ですが、これからさらに年を重ねてどう深められていくのか、とても楽しみなところです。

 中村七之助丈の酌婦のお蔦ですが、祖父の先代中村芝翫丈や先輩である坂東玉三郎丈の色合いを配しながら、丁寧にお蔦という人物を描いていらっしゃいます。きちんと描き出していくところに安定感が出てきていて美しさもある魅力的なお蔦になっていることは確かであると思います。
 ただ、まだベテランの役者さん方のような理屈抜きの味わいを堪能出来る域には達していないと思ってしまうのも正直なところです。一観客としてどこが足りないのだろうなどと余計なことに考えてしまいます。
 お蔦という人物を考えているうちに、取手の宿での茂兵衛との出逢いは、茂兵衛にとってだけではなく、お蔦にとっても人生の転機となっていたのかなと今回初めて思い当たりました。信じた男に裏切られて自暴自棄になっていた一人の若い女性が、茂兵衛との出逢によって母性に目覚めたのかもしれない。さらに身を持ち崩してしまうのではなく娘との二人の生活に踏み出すきっかけとなったのかも知れない。
 そんな考えが浮かんできて改めて、この長谷川伸の作品の素晴らしさに感動を覚えました。
 話がそれましたが、お兄様の茂兵衛とともにさらに高見を目指していかれるお蔦に期待したいと思います。

 本公演では役者さん一人一人が自分の持ち場に責任をもって演じられているのがよく伝わり、一座全体でこの作品を作り上げているという雰囲気がより作品を魅力的なものにしていました。明治座という劇場もこの作品を拝見するのに最適な空間であると言えるかもしれません。音響という点ではかなり減点要素があることは否めませんでしたが‥。
 市川男女蔵丈の老船頭、橋之助丈の根吉、鶴松丈の若船頭、中村梅花丈の酌婦、中村芝のぶ丈の子守‥、皆この作品をしっかり支えていらっしゃるのですが、今回、中村いてう丈の弥八が単なる嫌われ役、敵役に終わらないどこか愛嬌というか面白い味わいのある人物となっていたのがとても印象に残る舞台であったので、特筆したいと思います。 

 藤娘

 歌舞伎の舞台で繰り返し上演されてきた作品であり舞踊会でも非常に人気のある曲のようですが、今回の中村米吉丈の舞台を拝見していて、またいろいろと『藤娘』に関して考えさせられてしまいました。
 『藤娘』の成立過程に関しては、本年大坂松竹座での尾上菊之助丈の舞台を拝見した際の感想で、少しつっこんで考察してみたのでそちらも参考にしていただけたらと思います。

 もともとこの作品は真女形の舞踊として発展して来た作品ではないということを、今回米吉丈の舞台を拝見していて再認識させられました。変化舞踊として、獅子や座頭や坊主、奴も演じるような役者が演じてこその舞踊なのかもしれないと思わされました。この作品は、ただ若く美しいだけでは充実した舞踊にはならない作品なのかもしれません。
 今回の踊りがそんなに悪かったわけではありません。とても丁寧に踊っていらっしゃって、娘としての魅力にも溢れていました。

 米吉丈の女形は、清潔感がありとても純粋で一途な女心のようなものが感じられるのが魅力の一つであるかと思います。ただ、それは例えば七世尾上梅幸丈のようなおぼこな娘とは少しちがっているのでしょう。お光というよりはお染の女形さんなのかもしれないと、今回の舞台を拝見していて考えさせられました。
 真女形の最高峰である三姫に意欲を燃やし、確実に山を登っている米吉丈が光るのは、『藤娘』ではなく例えば『鷺娘』のような舞踊であるように私には感じられました。

 自分を生かす舞踊、女形として極めるべき舞踊はどんなものなのか。『京鹿子娘道成寺』を踊りきることを目指すとか、自分を光り輝かせる新作舞踊の開発も含め、ご自分自身で模索していくことも芸術家としての一つのありようと言えるのではないか。そんなことを考えさせられた、今回の舞台でした。
                      2024.11.17



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