明るい自分に殺される時代。
「はい、どうも皆さんこんにちは。スワンです」
画面越しに、見慣れたは顔が口を開く。明るくハキハキとした声で、意外にも物おじもせず、よく人前で顔を出しておしゃべりができるものだなと、まるで遠方に住む祖母のような気持ちになることがある。
紛れもない、そこにいるのは自分自身だというのに。
発信をすると決めた日
私がインターネットを通じ、意識的に社会への発信を始めたのは社会人3年目を過ぎた頃だったように思う。それまでは匿名で細々と、日常の戯言をつぶやくのが席の山だった。
今ほどコンプライアンスを意識していたわけではないが、まだ社会の中で明確な価値や役割を自分の中で見出せていなかった自分が、どの面を下げて世間様へ話をしていいのか途方に暮れて口をつぐんだのが本音であった。
ところが社会人になって少々手痛い経験を経たのちに、社会とか会社とかそういう頼りにしていた存在の危うさにうっかり気づいてしまったのが一つのキッカケになった。私はその何とも言えない不安感や、毎夜に迫ってくる内臓の収まりどころの悪さを何とかしたい一心で名前を晒し、筆を取った。
幸いにも幼い頃から作文にはめっぽう強い子供だったので、文字を書くことにアレルギーはなく、むしろ一種の高揚感を覚えた。
続けたもん勝ちというのはよく言ったもので、当てもなく始めた自分の拙い文章も読んでくれる人が徐々に増えていき、2020年にはなんとnoteを経由しての出版が決まり、初めての著書である「あなたの24時間はどこへ消えるのか」が世の中に転がり出ることとなった。
まあつまりのところ、曲がりなりにも私の出身は寝ても覚めても「文字」によるコミュニケーションだったのである。
YouTubeという新しい村
ところが2020年の社会情勢変化の真っ只中、自分から手を出した新しいメディアがYouTubeであった。
自他ともに「意外」と言われたその無謀な思いつきは思いのほか面白く、気がつけば継続的な1年と半年が過ぎ、ありがたいことに登録者という一種の数字も1万人の大台を超えた。
合わせてサブチャンネルの方ではととのう月曜日と称し、ラジオも配信している。音声という少々特殊な形式であることもあって少々視聴者は絞られるが、それでも個人がやっているラジオに年間万単位でのアクセスがあるというのは純粋に驚くと同時に、見知らぬ誰かと穏やかな昼過ぎのお茶会でもしているような楽しさがある。
しかし会社を辞めた慣れない生活の中で慣れないことを始めたものだから、あんなにも身近だった文章を書くという行為が、自分の生活から自然と機会を減らしていった。
それと同時にテキスト村からやってきた新参者の私は、映像という新しい村で、いい子に振る舞い続けた。
努力の甲斐もあってか、ようやくその村で存在することを少しだけ許されたような、妙な安堵を感じたのもつい最近のことである。しかしこの頃、忙しさにごまかされていた自分の中の違和感がムクムクと漏れ出してきた。
この映像に映っている「ワタシ」が本当に私なのか、ついに分からなくなってきたのだ。
乾いた「闇」を表現すること
文字におけるコミュニケーションの良さというのは一つ、とても乾いた「暗さ」を伝えられる部分にあると、映像や音声での発信を経験した今になって改めて思う。
暗い文章、というのは不思議と読めるものだ。
むしろそういうエッセイなんかは長い雨の日に、暖かいコーヒーを抱えて過ごすような上質な暗さをまとっている。
それは何故なのだろうと頭を巡らせていると、ふと思うことがある。書き物をしていると文字になった瞬間、句読点を押した瞬間、自分の頭から感情が剥がれて目の前に平たく置かれる感覚があるのだ。
頭の中の燃えたぎるような怒りも、どうしようもない劣情も、ひとり叫びたくなるような興奮も、文字情報に置き換えたら妙に他人事で、大人びたものとなって私の前に鎮座するような感覚がある。
最初は乱暴に書き殴った言葉も、一度読み返すと「こういうことでは、ないんだよな。」と己を嗜めるように、理性的な言葉へ置き換えられることも少なくはない。
誤解のないように補足しておくと、これは表に出すために忖度をしているわけではない。自分でもなんだか上手く掴めなかった暴れ馬が落ち着きを取り戻していくようなものであり、最終的にそこに残るのはより正確な「感情」だったりもする。
そういう汚れをこしていくような、形を整えるような作業が私にとって「文章を書く」ということであり、その行為自体が暴れようにも暴れがたい性質を持っているのだ。
暗さを排除する世界で
一方で暗いラジオや暗い映像というのは、どうも見るに堪えないから不思議だ。
近年で目にする機会が嫌でも増えた「謝罪動画」なんてものは非常に分かりやすい。見たことがある人なら容易に想像ができると思うが思うが、そこにある空気や間、話している本人の表情や仕草、声色のその全てがあまりにリアルで生々しく、見ている側を飲み込みそうな重さをまとっている。幼い好奇心で一度は開くものの、その重苦しい雰囲気に加えてコメント欄には罵詈雑言が飛び交う。それらが脳に入り込んだ瞬間、見るに耐えかねて私は画面を閉じてしまう。
基本的に映像や声という情報は、テキストに比べると副次的な情報量が多い。それは声色だったり、言葉の間だったり、表情だったりと様々だが、テキストに「元気です」と書けばまあ元気なんだろうと思えるのに、はた映像となると同じ本人から発された情報にも関わらず「とてもそんな風に見えない」と思えてしまう。
どうやら察する能力というのは、人間の佇まいにおいて発揮されるものらしい。
その結果、奇妙なことに動画や音声コンテンツでは「明るい」ことが前提として求められる。映像や音声における「暗さ」は必要以上に見る人の気力と体力を奪ってしまうからだ。顔が出ているなら尚更で、そんなブラックホールのようなものを見続けられる常人はそうそういないのだ。
つまり映像という世界において、暗くて、自信がなくて、テンションが低い人のコンテンツはどうしても再生されにくい。これは誰かへ自分の声が届きにくいというだけでなく、収益性を期待するクリエイターからすると非常に死活問題な話でもある。自然と人は声を張り、血色がよく見えるような化粧とライティングを工夫して、後ろめたいことがあっても明るく企画や商品を紹介する。ぱっと見の印象は雑多なので誤魔化されがちだが、自分自身が発信をするようになって嫌というほど意識した。
視聴者は「明るい自分」を求めているのだ。
二人の自分
ところで私には、自分でもたまに戸惑うほどの二面性が存在している。そういう事実をようやく飲み込めるようになったのはつい近年のことである。
これは二重人格とかいったものではなく、誰しもが一定持ち合わせている「明るい自分」と「暗い自分」というような、モードのようなものだと思う。どちらの自分も本物であり、作っているわけでもなく、その時々で出やすい自分の方が表面に浮上してくる。どちらでも根っこの価値観は変わらないし、対面する人によって挿げ替えるものでは決してない。
これはあくまで自分の中の波でのみ構成される、ある種の季節のようなものだと思っている。
それが春と秋のような緩やかな変化ではなく、真夏と真冬が交互に来るような激しさを伴うから余計に戸惑うのかもしれない。だから稀に「すごいポジティブですね」とか「野心的ですね」と言われると、内心すごく驚くことがある。その人はたまたま私の「暗さ」に対面していないだけであって、私にも人並みに暗く、布団にくるまり、ジッとに春を待つ獣になる日が間々あるのだ。
それでもテキストでの発信を中心にしていた時は、自分の中で暗さと明るさのバランスがうまく取れていたと今になって思う。仕事を終えて家に帰った夜や、寝起きの朝、ひとり過ごす週末に幕が降りるように暗い自分が顔を見せる。嗚呼、おいでなすったかと頭で飲み込むと同時に、静かに温かいお茶を入れるのだ。
やあやあ、よく来たね。
そう頭の中で労ってから、何も言わずに目の前にお茶を出す。暗い自分をもてなすわけでも、執拗に構うわけでもなく、そっとその場に置いておくようにしておく。
そうすると、自然と文章を書こうかという気持ちになってくるから不思議だ。
書いては消し、書いては消しを繰り返していくと、自然と頭と体が一致してくる感覚がある。そうしておくといつの間にか静かな獣は満足して帰っていき、また自然と明るい方の自分が顔を出してくる。これがこれまでの、私の中の季節との向き合い方だった。
暴走する明るい自分
しかし現代の映像という世界では「陽気な隣人」としての役割が常に求められる。そしてそこに、暗い自分を出す余白は存在し得ないのだ。
加えて動画コンテンツというのは、すでに撮った明るい自分が映ったデータを反復して見続けるという奇妙な工程がある。明るい自分、みんなが見ている自分、それを真顔でしみったれた表情の自分がカタカタをキーボードを叩いては編集を施していく。
暗い自分も、明るい自分も自分なのだけれど、こう明るい自分ばかりに触れていると、暗い自分は居心地が悪いようでそそくさと引っ込んでしまう。気がつけば朝になり、仕事の時間になり、また明るい私が表に出てくる。週末もちょっと余裕があれば、やっぱり編集や撮影のストックに時間を当てたいと思ってしまう。
そんな忙しない暮らしを続けていると、ある日を境に自分の中のバランスがぐらぐらと揺れ動くようになった。妙に体が重かったり、穴の空いた袋のように気力が漏れ出ていく感覚があって、ついには何もできなくなる時間が少々続いた。それは自分の中で突如発生した氷河期のようで、どこまでも冷たく、深く、掴みどころのない暗さを纏っており、上手く同居していたはずの心地よい暗さが、妙な唸り声をあげて自分の喉笛を掻き切ろうとしているようにも思えた。
自分の暗さを引き出す
しかし、解決策はひょんなところから現れるものだ。その皮切りとなったのは、知人を経由してお手伝いをすることになったYOUTRUSTというサービスであった。そこでは仕事やキャリアにまつわるテキストを投稿する機能が備わっており、その生態系を理解するためにもまずは何か自分でも投稿をしようと思って自然と筆を取った。
テキストを書くのは、ひどく久しぶりに思えた。
その場の空気というか暗黙の文量みたいなものを感じつつも、スマホの中で打つ文章は自然と500字程度に落ち着いた。noteではパソコンを開き、つい気が張って1万字に迫ることも珍しくない自分が、ものの十分程度で短文を書いて推敲し投稿できるというのは信じがたい手軽さであった。嬉しい声もあったので週一程度で更新を続けたのだが、それは週を追うごとになんとも言えない清々しさを覚えるようになった。
文章を通して、私は必要な「暗さ」を取り戻し始めていたのだ。
短文を書くたびに、春を待つ獣がひょいと顔を出してくる。明るい私は、文章を書かないのだ。最初は荒さが目立ったものの徐々にその息は整っていき、やがて以前のように真冬と真夏が交互に来る自然なペースが戻ってきた。
また不思議なことに、安定した暗さが顔を利かせるようになると明るい自分がより明るく、無理なく映像の中で喋り出すようになった。編集をしているときの自分も、心なしか仏頂面がマシになったようにも思う。暗さを取り戻したわたしは、これまでにない安堵を感じていた。
そしてその延長線上に、いまこの少し長めのnoteが繋がっている。
春を待つ獣
暗さというのは、どうしても社会的に嫌煙されがちな要素だ。
暗い人よりは陽気で明るい人がいいと思うのは、共同生活によって営みをつなげてきた人類の本能的な欲求なのかもしれない。だが暗さというのは明るさとセットであり、暗いだけ、明るいだけという人はほぼ存在しない。その配分は人によって様々だが、私は1:1ぐらいの、ちょうど半分ずつの明暗を孕んだ人間のように思う。
私はしばらく、執筆の時間を意図的に増やそうと思っている。
散々こき下ろしてしまったが、映像という面白い表現方法をまだ続けたいとも思うから、この明るさへの対抗馬としてこれよりも少々多めの暗さが必要になってくる。そして意外にも、私の暗さを上手く引き出してくれるのは「書く」というその行為に他ならなかったからだ。
同じ伝える手段であるというのに、テキストと、音声と、映像とではその作用も副作用もかなり異なってくる。そして現代の表現者は、まだその違いがわかっているようで分かりきっていないようにも思う。5Gのインフラ整備が粛々と進む中、いよいよ動画黄金期と呼ばれるこの時代に動画を作り続けることで病む人が後を絶えないのは「明るい自分」に蝕まれた結果なのかもしれない。
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とにかく明るく、広く晒されるこの時代において「暗い自分」を残しておくのはとても難しい。仕事をしたり、誰かと関わったり、家族と暮らしていく中で妙な息苦しさがあなたを襲うかもしれない。それは押し込められた自分の根源的な暗さが、ついに行き場をなくして暴れようとしているからかもしれない。
春を待つ獣は、ひどく臆病だ。
大きな音や、人混みの中ではそれらは決して出てくることができない。彼らがそっと出てこれるよう、物音を立てず、ジッと様子を見る。機嫌が良くなるよう、茶を出してみるもの良いだろう。どうにかしようとするのではなく、出てくるだけの余白を消さなければいい。獣はまたひとり、足跡を残して静かに森へ帰っていく。
それは巡り巡ってまたいつか、眩しさに目が眩んだ自分を導いてくれる「何か」になることを願って。
読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃