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セクハラは「死」に近い恐怖である説。

直近、わたしのタイムラインが荒れに荒れている。スタートアップにおける女性起業家のセクハラ被害についてのジャーナルが話題になり、各々の意見が飛び交う中でSNS上ではかなり熱い論争が繰り広げられていた。

日頃からインターネット上で話散らかしている自分でさえ、ジェンダーの問題はあまりに可燃性が高すぎて、つい無意識に「触れないでおきたい」と一線を引いてしまいそうになる。

しかし「沈黙は賛同」という、かなり使い古されたフレーズではあるが、結局は的を得ている言葉にあやかりつつ、今回は私なりに「セクハラが女性にとって、どんな意味を持つのか」を言語化してみようと思う。

セクハラ問題における、根本的な分かり合えなさ

わたしは身長154センチの女性だ。いわゆる小柄で、ユニクロの服はSかXSばかり着ている。運動神経は抜群に悪いが、耐久力があるので登山をする。よって同性の中では力持ちな方だと思うし、公私共に男勝りな気質も持ち合わせていることを自負している。しかし髪の毛がベリーショートでまるで少年のような容姿だった時代も含めても、記事に上がっているほどの強烈なエピソードはないものの、こんな私でも社会人10年の間で仕事におけるセクハラ経験は多分にある。

仕事で不用意に体を触られたり、性的な言葉を投げつけられたときは何故か幼い少女のようにビクリと身体が強張り、心臓がバクバクして一気に血の気が引いていく。頭の奥がカーっと熱くなり、脳内にはサイレンが鳴り響く。

これって仕事なのか?と大いなる疑問符を抱えながら、その場をやり過ごして席を立ち、安堵なのか悔しさなのかもわけ分からず溢れる感情にまかせて帰りの電車でワンワン泣きながら家に帰ったこともある。

女性がセクハラされる時に感じるこの嫌悪感について、しばしば「その程度」と吐き捨てられてしまう時が多々ある。近年は、それに対する強烈なNOを突きつける傾向の世の中になりつつあるが、そもそもこの感覚の違いが男女間において、根本的にわかり合いにくく、常に平行線で食い違っている気がしてならなかった。

その違和感が、今回の一連の話題性を浴びることによって言語化された。

身体的弱者にとって、セクハラは死に近い恐怖である説。

嫌悪感、不快感という言葉からは何だか「道でガムを踏んだ」とか「服装がタイプじゃない」とか、そういう私的で個別感情の塊のようなニュアンスが含まれてしまうような気がする。そして、その妙な軽さが、セクハラという事象と組み合わさったときに最悪の食い合わせを起こしてしまうのではないか。

端的に言うと、女性を始めとする身体的弱者にとってのセクハラに対する恐怖感は「このままだと、殺される」という、生命の危機に近いものなのではないかということだ。

女性にとってのセクハラはサバンナでシマウマがライオンに足を噛みつかれたような、まさに絶体絶命の、生と死をかけた恐怖と攻防そのものなのである。

そしてこれはあくまで想像の域を出ないのだが、この恐怖感覚は本能レベルで、男性には理解しにくいのだと思う。何故なら、男性は性として身体的に強固であることが多く、少なくとも女性や子供と比べて平均的には自己防衛能力が優れているからだ。

男同士でも殴り合いや性的搾取もあるとは思うが、最悪正当防衛で殴ればいいとか、勝てなくても腕を振り払って逃げられるといった「最低限の身体的腕力による自信」があるように思う。少なくとも、男性が女性に襲われるなんて発想はとんでもないストーカーの精神的な被害をのぞいて経験することは少ないのではないかと思う。

その一方、女性はあらゆる男性に手を掴まれたら大抵は振り解けない。走ってもだいたい追いつかれる。もし首を締められたら、自分の腕で抵抗しても止められない。法治国家でそんな悪行をする人は居ないに等しいと信じたいが、セクハラをされた時にDNAレベルで女の脳は叫ぶのだ。

「ヤバい、死ぬかも」と。

言葉やお触りなどの軽いセクハラの先には、究極的にセックスからの出産という、非常に身の危険が伴う行為が待っている。そしてそれには、旧時代であれば間違い無く死に近い危険が隣り合わせていたはずだ。女性の方が不安に敏感で、危機を感じやすいのは生物学的にも理にかなっている。

またこれは女性に限らず、子供であれば男の子でも力に対する恐怖を感じるだろうし、男性でも虚弱体質だったり、健常者でもムキムキで屈強な男集団の部屋に放り込まれるといった謎シーンを妄想すれば、相対的に体格や身長が周りより小ぶりな場合において、同様に命の危機を感じることが少しは想像がつくだろう。俗にいうリンチなどがいい例だ。

個人的な感覚ではあるが、恐らく多くのセクハラ問題において大きな課題感を持っている人の多くがこの「死にたくない!」「殺さないで!」と、血相を変えて困っている当事者に寄り添っている形だろう。

実際に殺されることなんて本当に滅多にというか、ほぼないと願ってやまないが、手前のセクハラという行為の延長線上に「生命の危機」を真剣に感じているのが女性のセクハラ問題の根幹なのではないかと思う。

悪は無くならないから武装して対処する人と、社会倫理を強めて根絶を目指す人。

また、今回の一連の議論が巻き起こっている状態を横から見ていて、わたしは非常にしんどくなった。何故ならこの議論に「本当の悪者」は不在であるからだ。

そして今も素知らぬ顔でその振る舞いを続けて誰かを傷つけているかもしれないのに、インターネット上では男女関係なく、悪者に実際に苦しめられてきた者同士が喧嘩しているように見えてしまったのだ。今回の一連のインターネット議論を読み漁り、大きな2校対立が起きていることに気がついた。それが下記の2つである。

①どうしても悪は0にならないから、己で刀を磨き、力を待って対処するしかない派閥。

②そもそも力や刀を持たなければいけないような構造自体がおかしいから、社会全体が倫理観を高めて根絶を目指す派閥。

非常にやるせ無いのは、どちらもそれぞれ嫌な思いをしており、自分なりに悪に立ち向かっているだけである。山の上り方が違うだけで、男性にとっても仕事の裏切りや不義理、法スレスレアウトな経験における「地獄だった」はちゃんと本当なのだと思う。また同様に、女性の「セクハラが心底嫌だった」も、めちゃくちゃにしんどいし、紛れもない現実なのだ。

いや、やはりこの2者を、そもそも比べるべきではない。

何故なら、みんなで目指している先は同じだからだ。男性だって脅迫されないで欲しいし、騙されるようなことがなくなって欲しい。それと両立して、女性もセクハラをされない世界が良いに決まっているのだ。

しかしそれをどうやって実現すれば良いのか、私たちはまだ先の見えない道中にいる。そして各々が、自分にできることから声をあげ、時に刀を磨き、信じる道を進んでいるのだと思う。

もはや「神さま、何とかしてよ」と、わたしはフルスイングで匙を投げたくなったが、ぎゅっと手の中の匙を握り直し、私なりに今できることとして、今考えていることをちゃんとインターネットの海に流しておこうと思う。

誰かにとってはぬるいと言われるかもしれないし、フラットな見解は擁護と捉えられて「悪への加担」とみなされるかもしれない。でも、現実問題として「そんな簡単な話じゃ無い」と思うから。簡単じゃないなりに、私は私なりに、時に誰かと一緒に、世界が良い方へ進むような抵抗をコツコツ続けていこうと思う。


追記:2024年8月30日 12:20

公開直後から自分の想定を超えるご意見をいただき、素直に学びになったと同時に「申し訳ないな」という感情が湧いたので補足しておきます。ほとんどの男性に非はないし、セクハラ根絶は犯罪と一緒で死にゲー並に超難関案件だろうけど、100点目指さなくて良いから男女ともに皆んなで生きやすい世界を探し続けたいですね。

以上!

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スワン
読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃