運と信念。
先週、島根県の出雲市におりました。私はなぜか出雲と縁が深く。大好きな場所です。
出雲は空とほど近くて、その青と雲の白のコンストラクトが半端なくて、紫外線も半端なくてw 天候が変わりやすく、ああ本当に雲が生まれる場所だなと実感します。
雲という古代の文字は、雲間から龍のしっぽがのぞいているところ。龍は水の神様だから今にも雷がなり雨が降りだしそうな文字。ひさしぶりに書いてみようかな。これは「神の気」と書いたのだけど、
雲が三本流れているところを表したのは「気」という文字。掴みどころのない、形をとどめることのない雲をみて、感じることしかできない「気」を投影したのかなとも思いました。神気とか運気といいますが、その動きを表すときに「気」の文字をつける気がします。
そういう意味でいうと、運と運気というのは違うもので、”運”がそこに動かずあるものと仮定したら、”運気”はあなたの雰囲気に合わせて、動くほどに流れ寄せるものだと考えています。出雲の雲が次々にできるようにね。
気というのは、その人がもつ気に合わせて、自然と調和をするために訪れます。
ですので、自分の気というものは自分でつくりだすことができるわけです。纏うとでもいうのか、滲ませるとでもいうのか、醸し出すとでもいうのか。
例えばA氏に会いたいと思っていたら、そういう気を醸し出すことになる。そして、”その気”になって本当に会えることになるのも、奥底の気、真心でつくられた自分のもつ気が合わせて運んできてくれるわけです。
人と気の調和。これが運気だと私はとらえています。
私たちがまとう気はどうつくられるかというと、よくある説明だと、顕在意識と潜在意識があって、奥底の気、つまり潜在意識の方が気をつくる真心に近いわけですから、潜在意識が置き換われば、訪れる運気も素早く変化するという仕組みです。
私たちは信じることしかできない生き物、つまり信念の生き物ですから、潜在意識、つまり信念と運気というのは、非常に密着した関係性です。ですので、どんな信念をもっているかによって、どんな運気をまとうかが決まってゆくのです。
だからといって、何度もいうように、今がよくないから、無理やりに潜在的意識を書き換えなくてはとか、取り払おうとしたりする必要はありません。
なぜなら、私たちは信念を使って、自分たちのことを守って(保って)いることもあるからなのです。
その意識は幼なすぎて(大概幼い頃に決めたことだから)、ただただ怖くてぎゅっと握り締めて、硬直しているなんて場合が多い。こうなると運気が澱む、あるいは悪循環でぐるぐる回っている状況になりかねない。
それでも、守りたい何かがそこにあるんですね。←ここに気づけると、一気に運が解き放たれ、軽くなるから風の如く上昇していきます。でもそれにはタイミングが必要です。
タイミングは待つのではなくて、自分で決めればよいのですが、タイミングに出会うことだってあります。信念の置き換えには、成長するぞという心の準備、覚悟なども含めて、タイミングがあるのです。って話が逸れるからこれはまた別の機会に。
たとえば、傷つかないようにする手段として、とある信念を持っていたとした場合。その信念は、幼い頃の自意識が、自分を守る方法として作ったものなのですね。これが絶対安泰だという信念のもと。
その幼い信念が、別手段のバリエーションに気づかずに、いまだに信念を貫いている形です。本来、大人になれば、さまざまなルートで自分を傷つかないように守ることができると学んでいるはずですよね。たとえば、知識武装する、逃げる、第三者に相談する、気を紛らわす、ごまかす、嘘をつくなんてのもそのひとつ。
そんな経験値豊富な今の自分が気づいて、もうその信念じゃなくて、別の方法でもやっていけるよ大丈夫って実感できたときに、ようやく潜在意識の置き換えというのは実行されます。ああ!こういうやり方もあったのか!とバージョンアップするわけですよね。(かなり説明端折ってますw)
そうでなければ、何度置き換えを試みても、また信念は殻の中に戻ってしまうだけなんだけど、それはまだ、その信念に使えるメリットがあると信じているからです。←ここね。
私たちは信じることしかできない生物だし、だからこそ人生自由選択でしたよね。なので、他者から「そんな生きづらくなるような潜在意識なんて書き換えろ」とか言われたとしても、これは、誰の人生?と問いかけるべし。そんな他者の言葉に従わなくていいし、手放しなくなければ持っていていいのですよ。
最近気になるのは「あなたの潜在意識を置き換えます」という謳い文句。他人が置き換えられることでもないし、それってマインドコントロールと何ら変わらないじゃん。
たしかに、厳しいけど結論からいえば、もしもうだつのあがらないと感じていて、いくら運命変えたいとかいっていても、それを仕組んでいる信念が置き替わらなければ、何度も同じ思いを繰り返す人生になります。(いい悪いの話ではない)
けれども忘れてはいけないことは、そういった思い込みは、自分や誰かを守るため、何か役に立っているということです。つまりけっして悪いものではないのです。その時には都合のよい、大切な機能なのです。
だから他者から切り捨てろとか、書き換えろとか、それは書き換えなくてはいけないとか、そういうことを言う他人がいたとしたら、それは、その人自身の信念において、思い込みは悪いものだと決めているということです。その人の問題なのですよ。
これは、誰の人生?
私たちは、自分の人生の世界の中で、大切だと選んだ信念を自分で見い出して、自分で自分の運ケツを拭いていきましょうね。
そしてもう一つ忘れてはならないことは、いまだ人知の及ばぬ世界も存在するということです。この人生は自分のものであって、自分だけのものではないことも、どこかで書きたいなあ。
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