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人を頼れない理由

「人にお願いするのが苦手」
という人は多いと思いますが、私もそのうちの1人です。

だから、いろんなことを抱えがち。

例えば
3年前に、クラウドファンディングで自分の絵の個展とライブを行ったことがありました。
その時も会場手配から、オンライン配信の機材設置、伴奏アーティストへのオファーや当日のお客さんのサポートまで、全部ひとりでやっていたんですね。おまけに場所が東京だったため、当時、別の県に住んでいた私は車で4時間かけて会場入り。大量の荷物を車に積んで、搬入・搬出も行いました。

ところが、配線トラブルなどが続きでパニックに。さらに当日、雪が降って車がエンストするという事態にまで。

どうしようもない状況まで追い込まれて、泣く泣く頼れそうな知人に電話をしたら

「なぜ、こんな大変なことをたった1人でやろうとしていたのか!?」


と、目を丸くされたこともありました。

当日、受付も自分でやろうとしていたので、見かねたお客さんが受付をやってくれる状況になっという。

つまりなにが言いたいかというと

「どうしようもない状況になって、はじめて頼らざるを得ない形になる」ということ。
そして、それ以外に、私は人を頼る方法とタイミングがわからないのではないか、ということを自覚し
「じゃあ、何がそうさせるのか?」
をせっかくなので考えてみることにしました。

①やるべきことを整理して説明することが苦手

人にお願いする時点で、「アイデア出し」→「決定」→「伝える」ことが必須です。自分でできることと、人にお願いすることを明確にし、意思決定をする。

「やってほしいことを言ってくれたら手伝から言ってね!」
とこころよく言ってくれる人がいても、そもそも「やってほしいこと」を整理するのがものすごく苦手なのです。さらに、それを具体的に伝えることがさらに難しい。

お願いしたとたんに、後戻りができなくなる気がしてこわい

おそらく私は常に主観的で、全体を見渡してしかるべき行動順序に落とし込むことがやたら下手なのだと思います。でも、人に伝えるために言語化は必須です。でも言葉にして伝えたとたん、もう後戻りできない取り返しのつかない感じがしてこわくなるのです。

自分の中にとどめてさえおけば、妄想は変更可能。無責任にいろんなパターンを考えては、やっぱやーめた、と打ち消すことも自由。
つねにうごめいているイメージの中では、「確定する」ということが怖いことのように感じられるのかもしれません。そのままにしておくことで、直前に偶然にも面白いアイデアが浮かんで、一気に巻き返す、みたいな体験もあったと思います。
それ以前に、追い込まれたり、〆切ギリギリで確定を余儀なくされることが常ですが。

③「あの時、協力してあげたよね?」がこわい
こんなことを言う人は、「そもそもその人の問題」っていうのは今ならわかります。

過去に2人、仲たがいしてもう会うことのない友人がいるのですが
そのきっかけがこれでした。

私は20代のある時期、昔からの付き合いのある友人にとてもお世話になったことがありました。
海外に住んでいた彼女の家に居候させてもらい、身の回りのことを助けてもらいました。心から感謝していましたし、伝えていました。実際ずっと関係性は良好でした。

状況が変わったのは、私に好きな人が出来たとき。ひょんなことがきっかけで、彼女と意見の相違が。譲れないテーマだったので、私は折れずに自分の真意を通しました。
すると、彼女が言いました。

「さんざん協力してあげたのにそれ?」

と。

思い切りサーっと血の気が引くような心地がしました。
十分に返すこともできていなかったと思いますが、それ以前に
大切なものが崩れていく感じがしました。

実際、十分に返すこともできていなかった負い目があったため
罪悪感でいっぱいになりながら、私は彼女から去りました。

この手のエピソードは、夫と義母からもたくさんあります。

「車の免許取るのに金をだしてやったのに」
「誰が働いた金で生活してると思ってるんだよ」

「~やってあげる」「~やってあげた」が口癖の義母は
日常的にこれがありました。

もちろん、最初はすべて私への思いやりだったと思いますし、私もそう受け取っていました。
でも、関係性は変わっていきます。結婚する前、付き合っていた時の夫は

「あなたみたいな才能がある自由な人を、僕はずっと支えて行きたい。だからお金の心配しないで好きなことだけやっていればいい!」

って、まっすぐこっちを見つめてはっきり言っていましたから(笑)

そう。状況が変われば、心理も変わる。
心理が変われば、最初差し伸べてくれていた手も、気づいたら「借用書」になってしまうことがある。

なんなら、夫は最終的に私の「お願いの仕方」の日本語が適切でないからと、毎回不機嫌に修正かけてきたりしてきたものだから

もはや「お願いする日本語を正しく使えるかどうか」の不安にまで至る(笑)

それでいて「人にお願いをできない(あなたのような)人は、信頼を得られないし、自分一人でやっているっていうことは人を信じていないっていうことだ」
とか言われるから、意識的にお願いをしてみようと頑張ってみたことがありました。

でも、「お願いの仕方」へのつっこみが入るから、(しかも正しい感じがしていたたから)

やりたくもない「夫へのお願い」を、「信頼関係を築くためのコミュニケーションとして必要だからという理由であえてトライする」という練習をしていたのですが、その際も突っ込みを受けないようにパワーポイントで原稿を作ってから伝えていたのを今、思い出して泣けてきました。
今は昔の話です。



「誰かにお願いするということ」=「私がその人にとって適切な言動を続けなくてはいけない」

という強迫観念を伴うことだったのは間違いありません。


ーところで、このことに気づいてみて、同時に数えてみたんです。
「差し伸べた手」が「借用書」になったパターンの人の数を。

夫、義母、上記の友人、小学生の時の性格の悪い名前も忘れたあの子、あとは20代で組んでたバンドのギタリストで私が思い通りにならないからとキレてやめちゃったおっさん…


………………………。


(…え、5人?)


チーン。


昨日もこんな記事を書きましたが


今回も同じ。


アホみたいな少ないデータを拡大して、「みんなそうなのである」という解釈につなげる。


だれだよ、「みんな」って!


5人だってば。


しかも、今後もう二度と会わないであろう人々しかいない…。


そしてやっぱり結論としては
「その5人のせい」とかではなく

それを自分にわざわざ取り込んで、自分を孤立させようとする「自分の中のDV野郎」の仕業なのは間違いなく。

つくづく、とんだ茶番を繰り返して生きてきたんだな、と自覚するばかりです。

あー、まったく。

考えてみたら、私のために「そうしたいからそうさせて!」みたいに、めっちゃ助けてくれて、一切の恩着せがましさの跡を残さぬよう配慮しつくしてくれ、ニコニコしながら、私が元気になったら静かに「やってくれた事実」はフェードアウトして、また再会したら何事もなかったみたいにスマートに付き合ってくれる友人ばかりじゃないか。

だいいち、私も彼らが困っていたら、全力でできることをしたい。
できれば、彼らが「やってもらった恐縮感」みたいな要素を一個も発生させないような形で、って思うわけだ。

先述の「頼れない要因」ついて、振り返ってみると

①はチャットGPTに助けてもらえばいいし
②は変更したくなったら、変更したいと伝えて大丈夫だと人を甘える練習をすればクリアできる。
③は5人だけ。

以上。

反射的に「頼るのが怖い」と思いそうになったら、立ち止まってみようと思いましたとさ。


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