
他人は自分の写し鏡
家を出て、実家に子どもたちを連れて引っ越しに奔走し、転職して、心敗れて、ある意味もう社会的に失うものはないけど
二度と繰り返したくないから、どうしたって自分の内側を見つめなおしまくることに時間を使っています。
思考で考えても自分の掘り下げは限界があるから人にたくさん会って、数年ぶりの人と話したり、古い友人と久々に電話したり、過去住んでいた町に行って、友人と話したり。
またはじめてのコミュニティや、少しでも興味惹かれたイベントや、声をかけてもらった会合、出会いにも参加しています。
時間ができた分、それまでできなかったことにエネルギーを費やして、今後のための充電に充てているのかもしれません。
その中でつくづく思います。
目の前で話す人の言葉を聞いていると、それがポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、すべて自分の内側にあるものが顕在化していること。
もともと大切だと思っていたことが、言語化され他人の口から語られることで、無意識に自分が大事にしている価値とつながっていることを再確認したり、または逆に触れたくないと思ってびくびく蓋をかけたまま見ないことにしていた感情がほじくり返さりもします。
つい先日、わりと仲良かった年の近い従姉妹と1年半ぶりくらいに話ました。話せるのはうれしく、簡単に近況を伝えました。すると彼女はこう言いました。
「あなたにはこの状況を超えるのは無理だ。子どもたちは夫の方に手放すべきだ。」
と言われたんです。
一瞬耳を疑いました。
(何を言っているんだろう、この人?)
と思って、血の気が引くような心地になりました。
少なからずこれまでの状況は知っているうえで、何を言っているんだろう、と。
同時に思いました。
「なぜ私は血の気が引くような心地」になっているのだろう、と。
納得して決めてきたことならば、誰から何を言われても方向は変わらないと思います。
事実、周りの人たちは基本的に私に対して促すような言葉がけをしてくれていましたし、私自身勇気をもらって前を向きながらここまで来ました。
それはある意味とても楽でした。
否定されることがないから。
従姉妹に言われて心が痛くなった直後に思いました。
(あ、これ私の心の中に残っていた不安の残りカスだ)
と。
気づいた気がします。
人の口を借りて、私は自分の心を感じていたこと。
ー人生の中でバンジーを行うタイミングって起こることがあります。
そんな時、なぜか走り出した後で、思い切り否定したり制してくる人がいます。
それも、かなり身近で信頼を寄せていた人であることが多い。
これは私の過去の体験です。
アンチの立場で言われているわけじゃなくて、むしろ心からの愛情に基づいて言われているから、さらに深く刺さるんですよね。
バンジーする前は、当然不安があって、それをようやっと乗り越えた気がしたところでかかるストップ。けっこうたまりません。私の場合はそこで「感情」は揺れますが、「判断結果」は変わらないので言ってくれた相手に対して不信感と怒りを持って、その場でわりと深めにキライになっちゃったりします。
一旦キライになってから数年後に再会して、「あの時言ってくれてありがとう」、という気持ちにすらなったりするので、やっぱり「バンジー直前ストップ」はある意味カミサマからの「お試し」みたいなやつなんだろうなと思います。
そんなわけで、今回の「お試し」。
私はもれなく従姉妹がキライな気持ちでいっぱいになり、その場で電話を終えましたが、私の心の中の最後の不安カスを可視化したような気持になり、ある意味晴れやかです。
そして、それでもなおこの先のビジョンは依然として明るく、なぜかうまくいくことしか想像できないので
「不安カスよありがとう、さようなら」の気持ちで再スタートをきることができそうです。
迷いと決断から始まった人生初のチャレンジストーリーは
時間はかかっているけれど、着実に終盤に向かいつつある、そんな気がしました。