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「結局、現実は思ったようになる」のウラ話②

ちゃんと実現していた皮肉な過去・幸せな過去

私、かつてビリヤードが好きだったんですが、ビリヤードをやっていて
いつも不思議だなと思うことがありました。

ビリヤードのゲームで自分の持ち球を全部穴に入れた方が勝ち、というのがあるのですが

圧倒的な大差をつけていながら、最後の一球だけがぜんぜん入らないのです。

勝負事に関しては、この現象が実によくありました。

スポーツ部に入っていた人だったら経験あるかもしれません。

有利な試合展開なのに、最後までなぜか勝利できないチーム。
圧倒的に不利なのに、思い切りひっくり返して勝利するチーム。

偶然の展開と解釈していましたが、アファメーションの濃度の違いが現実に反映していると、今なら思います。

私は、勝つのが怖かった、ということに今さら気づきます。
当時は「詰めが甘い」という言葉で終えていましたが。

「ああ、私は結局、勝てないんだよな。」
という気持ちが、チラつくクセがあった。

そしてこの

「どうせだめだ」

の気持ちを持っていると、ちゃんと「だめ」の現実がやってくる。

つい、過去の手痛い失敗体験から、こうやって自分を守っていたつもりでいたのですが、それが負の連鎖を作ってくれちゃっていた。

「ああ、お金ないなあ…」
とお金ない不安に打ちひしがれていたら、ちゃんとお金がない現実になっているし

「誰もわかってくれない!私は一人きりだ」と絶望していたら、ちゃんとそういう現実が育つ。

「私、何やっても結局だめだから」
って思ったら、ちゃんとダメが実現する。

それだけ考えると、それって、べつに因果関係なくない?って思ったりしてたけど、例えば、実現したことも思い出すわけです。

20代の最初、大学を卒業したものの、くすぶっていて、日々のルーティーンをこなしながら当時の自分では叶えることなど到底できなそうだけど、妄想してニヤニヤしていた願いがありました。

実現するために、具体的なアクションプランを立てる、とかではなく
ただ、その光景を妄想してニヤニヤしていた類のことです。

例えば、ギャラをもらってお客様の前で歌うこと。
例えば、海外に住んで仕事をすること。
28歳の時に「結婚はイメージできないけど、子どもたちがいたら素敵。3人くらい。男の子が一人と女の子が二人。」という空想をしてニヤニヤしていたこともありました。
海外の仕事も、歌いたいと思ったら、ボーカルを探していたバンドといきなりマッチングしたり、ライターになりたいと思ったら、ライターの仕事が手に入り。

そう考えると、ちゃんと実現していることは実現しているし

「私、お金稼ぐの下手なんだよな…」
と、グズグズしていたら、ちゃんとそうなった。

でも、「やりたいことがあってお金が必要です」と公言して、クラウドファンディング行ったら、目標金額の倍ほど集まったこともあった。

黙っているだけでは現実化しない

これもよく「引き寄せの法則」とかで言われていることだと思いますが
最終的にはやっぱり動くことが大事です。

①はじめての人と会う
②場所を移動する

これに尽きるな、と言う気持ちがあります。

とはいえ鬱々しているときって、この2つがまーしんどいんですよね。
現状維持で精一杯なのに、さらにムチ打つかんじ。

でもこれは結果論だから、何より大事なのは今の自分を受け入れることだなっていうのも思うんです。

布団から起き上がれないときは、布団から起き上がらない。

どう考えても、コンディションが一番大事です。

苦しい時には、苦しさをガソリンしなくては進めない時があるから。

ただ、けっこうあっさりと「え、こんなに展開早いわけ?」といった感じに

現実が動くときは動く。



出会った人に感謝する、のウラ話

28歳で海外生活と歌と子どもの妄想をした私が、28歳で海外で素敵な生活をスタートして、29歳で結婚をして出産をして35歳までに3人子どもに恵まれて―というある意味奇跡のような展開は、夫と出会えたことが大きいわけです。

私はこのアファメーションを通して、はじめて夫に「感謝」しています。いや、違うな。「夫に」ではなく「夫の存在」に感謝しました、が正しい。その後の結婚生活については、さておき。

また、コミュニケーションに苦労した母親。
「彼女の存在」にも感謝しました。それは何かというと

「私が何かしようとしたときに一切口出しをしなかった」



ということ。

19歳でひとりバックパッカーで3万円だけもってベトナム行った時も
23歳で戦争のイラクに行くときも、タイに移住すると言った時も。

日常生活の細かなことへの不満や文句はいまだに好きではありませんし
精神的なやりとりは昔から問題だらけですが

でも、「私の自由を決して妨げなかった」、と気づいたのです。
親になってみてわかるけど、それはなかなかできることじゃない。
親に許可を取る、ということを私はしたことがなかったかもしれない、と気づいたのです。

それは、もしかしたら、崇高なイメージとは程遠くて
ただ「めんどうくさい」というだけだったかもしれないし
「よしやってみろ」だったかもしれない。

でも、いろんな「母親」を見ていると、自分も含めて子どもの自由を制限する人がほとんど。


一番の苦しみの種だった、親と夫。その存在がもたらしてくれたことに
私は今、とても感謝しているのです。

繰り返しになりますが「親に感謝」「夫に感謝」という言葉はやっぱりちょっと抵抗感があって

自分の人生における、あくまで彼らの「存在に感謝」ということを強調しつつ。(イヤなものはイヤなままだから。)


そんなことを考えていたら
なんか、先に進めるような気が、すごくしています。

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