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目の前の事象から「解離すること」と目の前の事象に対して「俯瞰的に賢くあろうとすること」の違い

もうすぐ長女の誕生日です。
彼女は、動画制作やマインクラフト、ウェブデザインを好むのでPCを欲しがっていました。
離れて暮らす夫に娘がずいぶん前から

「誕生日にノートPCがほしい」

と伝えていたようです。
そして夫のおさがりをくれる話になっていたようでした。

仕事で動画編集なども行っている関係で、夫の部屋にはハイスペックPCやノートパソコンがあります。

そこまではよかったのですが。

今朝、娘が言いました。

「今週末にパパと会う事になっているんだけど、その時にノートパソコンをもらえないかと聞いたら、こんなふうに言われたんだよ」

と。聞けば

夫:「何に必要なのかを明確にする必要がある。」

娘:「マインクラフトやスクラッチで自分でゲームやお話を作っている。」

夫:「目的は遊びだけ?」

娘:「…あと勉強にも使う(かも)」

夫:「説明の仕方が嘘っぽいからだめ。」

娘:「…」

夫:「ちゃんと明確に、どのように勉強に使用する目的があるのかを説明するように。冬休みに、こっちに来てきちんと話をしよう。」

娘:「なんで、前はくれるっていったのにだめなの?」

夫:「理由があればこっちに遊びにくるから。」

娘:「…」


何かをリクエストすれば、かならず
「なぜその必要があるのかをプレゼンするように」
と、子どもたちに言ってきます。


以前、長男が「塾代は払ってあげるから」と夫に言われていたとのことで、実際にその時になって
「冬期講習に通いたいから費用を負担してほしい」
旨を伝えたところ

「なぜ、そこの講習を選んだのか。また、自分にとって何が必要だから冬期講習を受ける必要があるのかを、こっちが納得できるようにプレゼンしろ」

と返事が返ってきたこともありました。
ちなみに、長男がそれに対して返事をしたところ
「日本語の説明が下手すぎるから、払わない」
と言われ、本当に払ってもらうことはありませんでした。


これが
「必要なものと、単にほしいだけのものを区別して、消費と投資の感覚を養ってもらいたい」
というスタンスなのだとしたら私も同意します。

それは、子どもたちの金銭感覚やコストセンスを培うのに有効だと信じるからです。

つまり、子どもにとって納得感につながるものであることが第一の目的です。

ところが、夫のそれは相手を思いやるそれではなく

自分が納得できるかどうかの固執

に思えてならないのです。
「ケチ」と言ってしまうと、かわいすぎて嫌です。もっと、ギラギラしていて笑えないやつです。(しかも今回の娘のPCは、買うわけでもない。自分のお古。)

娘は、一度「あげる」と言われたのに、期間を引き延ばされることについて不満を伝えてきました。おまけに父親が気持ちよく納得するようにプレゼンをしなくてはならない。

「めんどうくさい。もうPCいらない。自分で中古を買う方がマシだと思う。」

と言っていました。

「父親に頼ることを体感してほしいなあ」
「父親に『気軽にちょうだい』って言えるセンスが、子どもの健やかな金銭感覚を育てるというから、私は黙って見守るべきかもしれない」


そんなことがぐるぐる脳内をめぐりましたが

このあたりで私は彼女に共感することにしました。


親の愛情に基づいた戦略的な教育方針のそれではなく
馬の前ににんじんぶらさげて走らせているような光景が脳裏に浮かんだからです。


「〇〇がほしいなら、お前も▽▽しろ。」

走らされたあげく

「そんなやわな走り方ならにんじんあげない」

そういうことが、簡単にできてしまう夫の気質を思い出しました。


私はこのことを考えるとき
「とてもいじわるだな」
と思っていました。

でも、いわゆるモラハラのそれとは違っている感じもしていて
やたら夫に理解を示さなくてはという気持ちになっていて

やっぱり発達障害ゆえのこだわり、というのが一番しっくり来ていたんです。一瞬、いつものように自分の中の「客観的であらねば」の性格が顔を出そうとしていました。


でも、さっきふと思ったんです。

①「発達障害ゆえのモラハラみたいな言動」

②「モラハラ動機に基づく正式なモラハラ言動」


「あれ?どっちにしても、こっちが被っているのはモラハラ言動じゃないか」

という事実に。

なぜ「客観的にならなきゃ」が発動するのかの理由も合わせて考えてみました。

  1. 相手を責めて、自分が罪悪感を感じたくない

  2. 相手は悪くない、と自分が納得したい

  3. 人を良い人・悪い人に分類するなんてそもそもできないものであると思っていることへの、私自身のこだわりがある

このあたりかな、と思いました。

でも、ここで自分で自分につっこみますが

これって事象から解離している捉え方なんです。

自分を自分の世界の真ん中に置いたならば

自分の違和感
自分の嫌悪感
自分の憎悪

これらは、根拠があろうがなかろうが

事実なんです。


それは、夫に理解を示す努力をしても変わらない
事実なんです。

もちろん、理解を示す努力をすることによって
相手との間の誤解が解消することもあります。

「でも、15年間かけて
まったくそんなことにはなるわけがないという現実、骨の髄まで染みてるでしょ?」

私は自分にそう問いかけて

目の前の事象から「解離すること」と
目の前の事象に対して「俯瞰的に賢くあろうとすること」の間には大きな違いがあることを、実感した次第です。


本当に賢いっていうのは

自分がちゃんと事象の真ん中にいて、感情も受け入れて
そのうえでさらに第三の目を持つという「メタ認知」の状態です。

私は賢く在りたいと思っていたけど、けっこうやり方間違っていました。
解離するくらいなら、感情のままに叫んでいる方がずっとマシとも思いました。

というわけで、叫びます。


「この、どケチ・モラハラ野郎!」


次回は、この夫と同様
人を操る「マニュピレーター」について掘り下げていこうと思います。

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