元プロサッカー選手がサッカーを辞めて思うこと
冬だった。サッカー選手は毎年12月になると翌年の契約にそわそわし始める。といっても1月から11月までの成績・結果が契約に反映されるので、12月から慌てても何もならない。選手もそれをわかっていながら、それでも落ち着かないのが12月という月なのだ。そんなある意味その年の通信簿を渡されるような月に、僕はこの世で一番愛しているもの、サッカーを辞めた。
サッカーで生きていくということ
僕がいたのはとあるプロサッカークラブだった。お世辞にも環境が良いとは言えないが、夢にまで見たプロ生活。好きなことをして生きていく喜びを僕は18歳にして手にしたのだ。将来は明るかった。地元では小学校から一番で街のちょっとした有名人だったし、市・県・地域の選抜にも選ばれていた。高校で全国大会には出られなかったが、運良く県の決勝にスカウトの方が見に来てくれていて、僕はサッカー選手になった。
有頂天だった。地元ではちやほやされ、周りのみんなは僕に成功の秘訣を聞いてきた。どこに行っても特別扱いをされた。いつしかそれが当たり前になっていった。僕は長いサッカー選手生活が始まる前から、何かを手に入れたような気持ちになっていた。
3年で3試合。これが僕がプロとして残した数字だ。得点もアシストもない。高卒の選手をプロクラブは3年待ってくれると言われている。僕もご多分に漏れず3年待ってもらった。そして、だめだった。
クラブは僕と来季の契約を結ばないと言った。当時20歳。これから輝かしい未来が待っているはずだった。どうして、どこから間違えたんだ?僕は契約更改しないという事実を突きつけられてからそのことに気づいた。いや、本当は気づいていた。気づかないふりをしていただけだ。こうして僕のサッカー選手生命は何の見せ場もないまま終わった。
サッカー界という現実
18歳でこの世界に足を踏み入れてから3年間、僕は、僕にしか見えていないちっぽけな世界で地獄のような日々を送っていた。自分の心の唯一の拠り所、サッカー。
恋人もいない、友達もいない、認めてくれる人も、心をさらけだせる人もいない。そんな僕のただ一つの生きられる場所、それがサッカーだった。でも、そんなサッカーで毎日批判され、貶され、叱られ、結果も出ない。僕はどうしようもないやつだった。
誰より自分が一番そう思っていた。今思えばよく耐えられたなと思うぐらい、吐き気のする日々だった。
まず、結果が出なかった。点を取る、試合に出るどころじゃない。紅白戦にすら入れず、チームスタッフと一緒にボール拾いやドリンクの準備をしていた。一番下っ端だったし、そう言われたから。
そこから這い上がろうとしてみるものの、どうやっていいのかわからない。何をすれば状況が変わるのかも。未熟だった僕は、チームメンバーとあまりコミュニケーションも取れず、改善点を一緒に考えてくれる先輩もいなかった。
練習ではいつも”標的”になった。僕がミスをすると罵声の嵐。他の人がミスしてもそこまで言われないのに。僕には人権がなかった。少なくとも18歳の僕はそう感じていた。
好きだったはずのサッカーが全く楽しくなくなっていった。練習が苦痛になり、朝起きるのが嫌になった。大好きなサッカーに関われるはずなのに、いつしか休みを待ちわびるサラリーマンのようになっていた。
サッカー界では、結果を残したものにのみ人権が与えられる。それはプレー中だけでなく、普段の生活でもそうだ。昼の食事、遠征に向かうバスの中、試合に出ているメンバーは堂々と、誰に許可をされるわけでもなく大きな声で冗談を言っている。
対して僕は、人に話しかけることができない。「試合に出てないくせにピッチの外では元気だな」と思われるのが嫌だったから。実際にそれに似たことを言われたこともある。
八方塞がりだった。何をしてもうまく行かなかった。いつしか僕は、サッカーを辞めることを考え始めた。冬の休暇のことばかり考えていた。そうして半ば衝動的に、僕は人生を捧げてきたサッカーを辞めた。
結果と過程
結果を出せば全てが変わる。結果を出せば、本当は見えない人間性までも評価してくれる。結果ありきで、全ての物事は決まっている。そう思っていた。
でもある出来事によって、僕はその考え方を見直すことになる。
3年目の夏、いつものように練習後シャワーを浴びていると、僕より4つ上のタカくん(仮名)が珍しく話しかけてきた。
「お前、今週の土曜の夜、空いてる?」
僕は驚いた。チームメイトにオフで誘われるのは初めてだった。というか誘いなのかも分からなかった。しかもタカくんは絶対的レギュラーだ。僕にかまう必要はないはずだ。僕はとっさに、
「空いてると・・・思います」
と言った。予定なんて何もないのに予防線を張った。冗談かと思ってたと言って当日断ろうと思っていた。
土曜の夜、タカくんは家に来た。僕は「本当に来たよ」と思ったが、家まで来られてはさすがに断れないので「どこかいくんですか?」と聞いた。
「いいから、とりあえず乗れよ」
車に乗って着いた先はお洒落な居酒屋だった。僕は居酒屋にカラオケがついているところに初めて行った。個室というものも初めてだった。何人かのチームメイトがいたので僕は驚いた。でも本当に驚いたのは、チームメイトに混ざって女の人たちがいたことだ。
「じゃあとりあえず自己紹介しよう」
タカくんはそう言って僕を戦場に放った。自己紹介って何を言えばいいんだ。大半の人は僕のことを知ってるし。知らない人にどこまで情報を開示していいのか。
「いや緊張しすぎだろw」
タカくんの一言でみんなが笑った。僕は何が何だかわからなかったけど、一緒に笑った。
「わからないならとりあえずモノマネで自己紹介しよう。やってみよう」
誰かがそう言い出し、僕は頭が真っ白になり、当時人気だったタレントのモノマネをした。
「・・・」
数秒の沈黙のあと、個室が爆笑で包まれた。
「なんだよ、いいの持ってんじゃん」
「めっちゃ面白いね!」
「タカ、いいの連れてくるって、こういうことか」
みんなが口々にモノマネのクオリティと僕を連れてきたタカくんの手腕を称賛した。その後のことはあまり覚えてないけど、僕は何年かぶりに楽しいという感情を味わった。
代行の車で家に帰って、僕は考えた。
なぜタカくんは僕を誘ったのだろうか?単純に人数が足りなかったから?笑い者にしたかった?なんとなくの気まぐれ?
タカくんは頭のいいプレーヤーだった。そして副キャプテンを務めていて、チーム全体が見えてる人だった。
今にして思えば、チームの中で、僕が明らかに浮いていたのであろう。不協和音にはならないものの、誰かがそろそろケアしないといけないと考えていたのかもしれない。
それでも僕にとってはありがたかった。サッカーとは全く関係なかったけど、ここにいていいと言われた気がした。極限の精神状態だった僕はそれだけで救われた。
オフ明け、練習にいくと、僕は何故か人気者になっていた。
「あれやって!もう一回!」
タカくんがみんなに言いふらしたのだ。おそらく、僕を輪に馴染ませるために。
僕はこの時点でサッカーを辞める決断を既にしていた。望むような結果が夏までに得られなかったら辞めようと決めていたからだ。
いいさ、どうせ辞めるなら、とことん笑われてやる。チームにいた証をどんな形でもいいから残してやる。俺は、道化になってやるー。
その日から僕は、求められる笑われ役を演じ続けた。練習では率先して大声を出して盛り上げ、試合後のイベントも積極的に引き受けてこれまた盛り上げる。
するとある時、別の先輩からこんなことを言われた。
「次の試合、あいつじゃなくてお前がメンバーインした方がいいのにな」
僕は驚いた。たしかに最近、前に比べてよくパスが回ってくるなと思っていた。ミスをしても、次次!と言われることが多くなった。前のように、"標的"にされることはなくなった。
そしてなぜか、プレーの質も大幅に向上した。パスが回ってくるということももちろんあるが、チームメイトのプレーの理解が進んだことと、そして何より、吹っ切れた分、メンタル面で安定していることが大きかった。
ダメで元々、ミスして当然。チームメイトが自分を好きでいてくれることで、そんなマインドを手に入れられたからこその副産物だった。この時僕は初めて、サッカーがチームスポーツであるということの意味を理解した。
あれだけ欲しかった周りからの承認は、サッカーの結果ではなく、どんな形であれチームに貢献することで、いつの間にか手に入っていた。
僕は今まで、世の中結果が全てだと思っていた。試合に出れば、チームでの発言権、優位性(僕にとっては人権、アイデンティティのようなものだった)が保証される。
しかし、他人に認められることで、評価されることで得ようとしていた価値を、もう諦め、自分のやると決めたことをやることだけにフォーカスした途端、視界がぱっと晴れ始めた。
結果や評価に囚われず、もう一度「サッカー」を見つめ直した時に、底に残るのはただ「サッカーが好き」という純粋な気持ちだけだった。
この根本にもっと早くたどり着いていれば、くだらないプライドや思い込みをなくせて、僕はサッカーを続けられていたのかもしれない。
憧れのポジションにこだわって、得意でもないプレーをすることもなかった。”見え方”に気を取られすぎて、がむしゃらに走れないこともなかった。
ただただ「サッカーが好き」ということをもっと早く思い出せていれば・・・と思う。
結果を重要視しすぎると、こういう苦しみやもったいなさを生んでしまうんだ。結果を心の拠り所にすると、結果が出ているうちはパワーが湧くが、ひとたび結果が出ないと、一気に辛くなる。それも依存度が高ければ高いほど。
世の中の偉い人は、みんな結果が全てだと考えていると思っていた。過程が大事なんていうのは成功者だけが言える綺麗事だと。
でもそうじゃなかった。様々な書籍に出てくる著名で社会的に成功している経営者やビジネスマン、アスリートたちは、結果と同じくらい、その過程を重視していた。
誰よりも結果を追い求めてきた彼らの言う”綺麗事”は、驚くほどスムーズに僕の心に響いた。
ある人は「自分の自己ベスト、100%を出すように頑張ればそれでいい」と言った。彼もまた、結果に囚われて死ぬほど努力した経験を持っていた。
僕は決心した。結果という後付けの値でしかないものを必要以上に神聖化することはやめようと。その代わり今できることを、自分の100%を出し全力でやろうと。そこに価値を見出そうと。
辛かった。それはわかってる。それでも。
辛かった。本当に辛かった。それは間違いない。報われなかっただろう。一生懸命だっただろう。それを否定する気持ちはこれっぽっちもない。
しかし、である。あの地獄のような修行の日々を経た今、「あれは本当に100%でしたか?もうこれ以上ないくらい、努力しましたか?」という問いには、今の僕の視点ではNoと言わざるを得ない。
もちろん当時は精一杯やっていたし、何よりもサッカーを優先していた。あのときの僕が怠慢で何もしていなかったわけではない。そこは揺るがない。
だけど、本当に自分と向き合って恥も外聞も捨てて自らと対話した上で現実にぶつかっていけていれば、やっぱりもっと努力できたな、と思うわけである。
あの頃の僕は、自分の今の現在地を測れていなかったのだと思う。今、実力不足で、試合に出れないという現実を直視できれば(これは相当の痛みを伴うのだ)、じゃあ人の10倍努力しようと思えたはずだ。
僕は「現在、人から認められていない」「上手くいかない」ということから逃げ、そう思われないように振る舞うことに多くのエネルギーを割いていた。
何かのきっかけで変わるはずだ、何かが変えてくれるはずだと。そこで変わればこれまでの自分のできなさがチャラになるなんて、都合のいいことばかり考えていた。
つまり、今の自分がダメなことを受け入れられなかったのだ。受け入れたら、自分は本当にダメになってしまうんじゃないか。もっと沈んでいってしまうんじゃないか。その恐怖が、僕の目を現実から逸らし続けた。
だから自主練も乗り気がしなかったし、声出しやチームの準備もできなかった。実力がないやつが必死になっていると思われるのが嫌だった。これが僕の思う「ダメなプライド」だ。このプライドさえ捨ててしまえば今はダメでもいずれ・・・というマインドで100%努力できるのだが、もったいないことをした。
さらに、ダメだというはっきりとした悪い結果が出てしまうことも恐れていた。努力して努力して、もしダメだったら・・・。今度こそ僕は、本当に完全に才能がないやつだと思われてしまう。だから努力も100%でできなかった。
思うに今までの僕は、コインを投げて表なら喜び、裏なら落ち込み、日々どうすれば表が出るのか?とか、なんでこんなに頑張っているのに裏が出るのか?とかを一生懸命考えているような生き方をしていた。
つまり、たまたま出た結果に自分の人生の価値を委ね、成功とか失敗とかそういった評価基準を与えられたものに依存していた。
驚くべきことに、コインを100回連続で表にして、成功しようとしていたのである。コインの表裏なんて50%で、何をしても変わらないのに。
コインの表裏は一切関係ない。そこには一切関心がない。だってコントロール不能だもの。では何をするのかというと、自分が決めた道筋に沿って、今の100%を出せたかどうかを基準に、これを成功、失敗の軸として生きていくべきなのだ。
結果に囚われすぎていなければ、もっと早く、結果はコントロール不能なものとわかっていれば、こんな過ちを犯さずに済んだのだが・・・。まあ裏を返せば、こんな過ちをしたからこそ、今こうやって思えるということなのだけど。
時は経ち・・・
時は経ち、僕は今とある企業で働いている。サッカーと同じように、成果により天国と地獄が待っている世界だ。運良く今は天国側にいられているが、先はどうなるかわからない。
だけどここが僕の現在地なのだ。心を入れ替えて、自己ベストを毎回出そうと心がけてはいても、どうしてもうまくいかない時もある。以前はそんな自分を責めてもいたが、そんなことをしても仕方ない。情けない自分も現在地なのだ。次から反省して、同じことをしないようにするしかないのである。
僕はそういう意味で、自分も他人も変えられないと思う。ただ現在地をどう生きるかによって、あとから見たら変わっているように見えるだけで。自分にできることはひとつだけ。現在自分がどういう状況なのか、ありのままを分析して、できる限りの努力をすることだ。
そしてそんな結果を出すための道中を、結果なんて放っておいて目一杯楽しめばいいと思う。