無題-prelude[encore!]-

prelude

 高校生になって、あっという間に一年が過ぎた。初めての終業式は恙無く終了し、特に何も大きなことは起きることなく、春休みに突入した。
 新たに二年生なるまでの短い休みの期間、ゆっくり過ごしたいものだ。

 穏やかな気温と共に俺はしばしの休暇を満喫していた。いつもは観ることのない平日の番組や、録画番組の消化など、普段学校に行っていれば間違いなくできないことを贅沢にもこなしていた。これを満喫と言わずなんと言おう。
 そんな、人によってはもったいないと思ってしまうような過ごし方をしていた春休みの半ばのことである。少し前まで離れることさえできなかった炬燵をしまって寂しくなったテーブルに、俺と妹は座っていつも通りテレビを観ていた。朝っぱらからずーっと録画リストにあった映画を消化する、ゆったりとした休みの日だ。
 妹も俺も声を出さずにボーッとテレビに視線をやっていた。妹は、時には洗濯物をたたみながら、お茶を飲みながら、春休みの宿題をしながらなど、様々なことをマルチにこなしながら一緒に映画を観ることに付き合ってくれた。これが、宮澤家の春休みの過ごし方だった。春休みってのはこういう感じに、持て余すくらいの感覚の方がちょうどいい。夏休み以外の少々短い休みは、のんびり過ごすべし!
 ……そんな矢先に家のインターホンが鳴り響いた。舞はテレビから視線を外したくないのが見て取れるような表情をして、名残惜しそうに、受話器を取るために立ち上がった。インターホンのモニターを見て、妹の声色が一気に上機嫌になるのを聞いて、訪問者が誰なのかは容易に察することができた。

「やあ」
 数十秒後、その訪問者は肩に当たらない程度の短い髪を小さく揺らして、軽やかな歩調で家にあがってきた。自分の顔の高さくらいまで手を挙げて、俺に爽やかに挨拶をする。春休みだというのに制服を着ていやがる。俺は制服についてはあえて触れずに、リモコンの停止ボタンを押して、映画を消した。それを見て、「ま、まさかいやらしいものを……」などと、口元を手で覆い隠して、シリアスな顔をしやがる。
んなわけないだろ。
「こんな昼間に堂々と観るかよ」
「なら、夜に隠れて観るんだね?」
「そういうことでもない」
 冗談を言って、いつもの微笑に戻りつつ、ヤツは俺の真向かいに座った。キッチンで来客用のお茶の準備を終えた妹がやってきて、俺とヤツに湯気のたった湯呑みを手渡す。その行動に更に笑みを重ねつつ、ヤツはゆっくりとお茶を啜った。
「うん、美味しいね。温かいお茶は心も潤してくれる」
「老人かお前は」
「老人ではなくて、ヴァージンだよ」
「そんなこと聞いてねえよ……で、なんだこんな早朝に」
 ヤツにしては早い訪問であった。いつもなら昼前くらいに前触れもなくやってくるのに。今回も前触れはまったく無かったわけだが。
「学校に行こう」
 湯呑みをくるくると回して、表面に彫ってある文字を見ながらヤツはそう言った。
「学校?」
「うん、学校さ」
 そう言うとズズッと大きな音を立てて、またお茶を啜った。
「でも唯さん」来客用のお菓子をテーブルに準備した舞が口を開く。「お兄ちゃんの学校、春休み中ですよね? 登校とも予定表には書いてなかったと思うんですけど……」
 と、至極当然で、的確な質問を妹は俺の代わりにぶつけてくれた。「確かにそうだね」とヤツは一度頷いて見せた。
「ボク達には直接関係無いことなのだけれど」
 スカートのポケットから綺麗に折り畳まれた紙を取り出した。開くと何かのプリントであることが見て取れた。
「今日の昼に、新一年生の予備登校があるらしくてね」
「このプリント、いつ配られたんですか?」
「終業式の日にもらったと思うよ。君ももらっただろう?」
 首を若干傾げながら、ヤツが俺に問う。妹からものすごく冷たい視線も同時に向けられたが、頑張ってスルーした。
 そんなプリントもあったような、無かったような。よく覚えていない。もしかしたらスクールバッグの中に入ったままかも。
 そういえば、去年の今頃に予備登校があった気がする。今言われて、思いだしたくらいの記憶しかない。
 話を聞くに、ヤツはその予備登校の準備やらを手伝う気らしい。なるほど、だから制服なのか。
「だから、君も一緒に行かないかなと思って」
 テーブルに頬杖をついて、ヤツはニヤニヤしている。なんとまあ憎たらしい。
「あ、もしかして予定があるのかな?」
 少し首を傾げさせて、ヤツは聞いた。予定があったらこんな朝から映画なんか観てない。
「特にないけど、めんどくさい」
「ふむ」
 ヤツはテーブルに両肘をついて思案した。そんなヤツの顔を見て頬を膨らませた妹が、俺に向かって、
「行ってあげなよお兄ちゃん。どうせ暇なんだしさ」
 『暇なんだしさ』、ストレート一発KO級の発言で、心の中でよろけてしまった。どうやら、妹は俺の味方では無いらしい。
 確かに、妹の言うことももっともだろう。外にあまり出ない兄を見て、少なからず残念な気持ちがあったに違いない。とは言うものの、買い物にはたまに付き合ってやってるんだがな。
 深く溜め息を吐いて、俺はぬるくなったお茶を飲み干して、ゆっくりと立ち上がった。
「着替えてくるから待ってろ」
 ヤツは思案していた顔を、笑顔に戻して頷いた。

 俺達が通う御十時(おととき)高校には、制服はない。私服での登校、改造制服なんでもありだ。とは言っても、案外私服を着ているやつは少ない。俺もヤツも私服で登校したことは一度もないくらいだし。
 制服自由の理由は校長がとにかくユニークな人間だということに尽きる。自由な校風に惹かれて御十時に入学する生徒は多いと聞く。俺は、一番近い高校だったという点が大きかったのだけれど。
「登校期間外に行く学校というのは、なんだか不思議なものだね」
 知らない教師に指示された業務をこなしながら、ヤツはにこやかに言った。
 今、新入生に配布するプリント一式を、机の上に一つずつ置いていく作業をしている。この学校はとにかくデカいので、すぐに終わるような作業では無かった。
「前日に済ませとけば良かったのに、なんでこんな直前にやるんだよ。1学年15クラスもあるんだぞ」
「しかたないよ。昨日はセキュリティーの点検のせいで学校の中に入れなかったそうだから」
 ちょうど前日に点検をやるとは、尚更タイミングが悪い。
「それにしても。……ねえ」
 全て置き終えて、こちらを振り向いた。ゆっくり俺の方に寄ってきて、少し顔を赤らめて、
「二人きり……だね?」
 と、伏せがちな目で真剣な顔をしてみせた。
「いきなりなんだ。まだ終わってない教室残ってるぞ」
「それは後でもできるよ。今は二人きりでしかできないことをしよう」
 自らの唇を優しく撫でながらヤツはさらに俺に近づいて、目を閉じた。唇を尖らせてきやがる。
「アホか。早く次の教室行くぞ」
 接近していた顔をプリントで軽く小突き、俺はできるだけ足早に教室を出た。コイツのいつものノリなので、特に気にすることでもないのだが、誰かに見られるとまずいと思っての行動だ。俺とヤツ以外にも、大勢の生徒がボランティアでやってきてるんだからな。

 先ほどの作業を終えると、時間はちょうど新入生が来る頃だった。プリント配布を終わらせ、教師の元に指示を仰ぎに行った。次の作業はヤツとは別の仕事を任されることになった。ヤツは通学路で道案内の看板を持って突っ立っているだけの仕事だった(『勃つものがないけれどいいのかな』などと言っていたが無視した)。一方、俺の仕事は校内で新入生を案内することだった。もちろん俺以外にも大勢生徒はいる。
 とにもかくにも、ヤツとはここで離れることになった。

「1-Dですか? それならこちらです」
 初々しい生徒達が続々と学校に集結していた。俺も張り切って案内をする。やってみると案外充実した気持ちにさせてくれる。自分自身の校内把握も、なかなかだった。次第に案内することが慣れていき、初めよりも気持ちは大分楽になった。
 しかしまあ、本当にこの学校は広い。新入生が案内中に「ここまで来るのに時間がかかりました」と漏らしていた言葉には俺もひどく同意した。
 新入生の集合時間が近づいていく中、俺は突然尿意に襲われ、他の案内係に事情を説明して、後を任せて手洗いに行くことにした。

 用を足して、手を拭いているとさっきまでうるさかった校内は静かになっていた。どうやら、予備登校の日程が時間通りに始まったようだった。
(やべ、ハンカチ忘れた)
 ポケットにはハンカチが入っていなかった。妹が毎回行く前に手渡してくれるので普段ならいつもあるのだが。急に制服を着ることになったからなぁ。しかたなく、ハタハタと手を振りながらトイレを後にした。 
 そして、出ですぐに一人の少女がキョロキョロと周りを見渡しているところに遭遇した。
「あっ」
 俺に気づいたらしく、急いでこちらに駆け寄ってきた。真新しいバッグからファイルを取り出して、その中からポストカードほどの紙を出した。おそらく新入生案内の紙であろう。
「あの、1-Bのクラスはどこでしょうか? さっき案内を聞いたのですが、いまいちよくわからなくて……」
 と、彼女は小さな声で俺に言う。どうやら迷ってしまったようだ。案内役はどこに行ったんだろう。
「1-Bですね、もう予定通り始まってるので静かについてきてください」
 俺はまだ少し水気のある手のままに、急いで彼女を案内した。

「お突かれのようだね」
「変換で遊ぶな」
 俺の前に颯爽と現れたのは小さな体躯に似合わぬ看板を手に持ったヤツだった。もう片方の手は腰にあてている。どうやら仕事が終わって帰ってきたらしい。別に俺はコイツのことを待っていたわけではない。いいか、それは断じてない。
 ヤツは予備登校が行われている教室を扉の小窓から軽く背伸びをしながら覗いた。
「懐かしいね、予備登校」
「あんまり覚えてないけどな」
「ふふ、それは残念」
 背伸びをやめて、普通の立ち方に戻る。元が小さいので、背伸びしていようが俺からの印象はさして変わらない。
「そういえば、君は今年も?」
「ん、なんだ」
「学園祭実行委員。今回も新学期早々に決めるだろうから」
 始業式の日に委員などはまとめて決めるので、春休みが終われば有無を言わさずやってくる。確かに、去年務めてみて、忙しかったが、案外楽しかったし、今年もやってみるのも良いかもしれない。
「お前は何になるつもりだ」
「ボクは去年同様、美化委員だよ。高校生活をきらびやかで最高の一時にするための最高にして至高、至極の委員会だよ……」
「美化委員を美化するな」
 小さくため息をついて、俺は教師にもう一度指示を仰いだ。どうやら午前の仕事はこれで終了のようだ。支給される昼ご飯を食べて、午後には後片付けをするらしい。
「二年生、か」
 奴が小さく呟いた。
「また、同じクラスになれるかな」
「……さあな」
 この会話を交わしたあと、ヤツは帰り道、いつもより口数が減ったような気がする。二年生のクラスは、四月にならないとわからない。そして、俺とヤツが一緒になるかなんてのは、その日になるまでわかるはずもないことだった。


 そんな心配は始業式が始まると同時に空の彼方に吹き飛んでいったのだった。
「やあ、また一緒だね」
 クラスを告げる掲示を見て、ヤツは俺にそう言った。ガヤガヤとしている生徒たちが集まる掲示板で、俺は自分の名前とヤツの名前が、同じ列にあることを確認した。どうやら、同じクラスのようだ。
「ああ。これで中学から五年連続か」
「五年か……凄いね」
 中学一年生の頃、コイツが引っ越して来てから、高校二年生になった今も同じクラスだ。妹からは『運命』と言われるくらいだ(不本意)。奇妙な縁って言うものは続くもんだ。

 始業式終了後、新たな教室に移動する。雰囲気は前の教室となんら変わることはないが、感覚的な何かが違うものだ。去年とは違うクラスだった生徒もいるわけだから、やはり雰囲気は異なっていた。更に担任も代わり、新鮮な始業式となった。
 新たな担任の自己紹介が終わり、早速委員会を決めることになった。俺は学園祭実行委員をすることを既に決めていたということもあり、別段悩むことも無かった。俺以外に立候補する者は無く、直ぐに俺は文化祭実行委員に決まったのだった。

「今年も実行委員?」
 一つにまとめた髪を揺らしながら、舞が夕食のハンバーグを焼いている。美味しそうに焼ける音とほのかに香る匂いが、家中に立ち込める。ただこのハンバーグ、数がおかしい。もうこれで二桁だ。しかも、俺一人分の量である。
「去年の経験もあるし、楽しかったからさ」
「ふうん」
 舞は充分に焼けたハンバーグを乗せた。その皿には、さっき乗せたハンバーグを一部とする山と化していた。人によっては夢のような、非日常な光景だろうが、俺には既に日常だ。
「いいんじゃない? 去年もよく頑張ってたしお兄ちゃん」
 満面の笑みで妹は食卓に山積みハンバーグを持ってきた。
「でも、新入生の相手、ちゃんとしなきゃダメだよ?」
「どういうことだよ」
 舞はわざとらしく肩を竦めて、ため息を吐いた。これだからお兄ちゃんは、と言いたげだ。
「お兄ちゃん年下苦手でしょ? 知ってるんだから」
「え、そ、そうなのかー!?」
 俺も妹を真似てわざとらしく驚いてみた。ジトッとした目で睨まれたので、すぐにやめた。でも、妹が言いたいことはわからないでもない。俺は確かに、年下が苦手なのだ。理由はわからない。ただ、『なんとなく年下は苦手』なのだ。
「頼りになる先輩にならなきゃダメだよ?」
 妹は人差し指をピンと立てて、髪を大きく揺らした。
「ああ、わかったよ」
 可愛い妹の注意をしっかりと重んじるのは、兄の務めだ。俺は大きく頷きながら、ハンバーグの山を少しずつ減らしていったのだった。
「あ、でもでも」
「なんだ?」
「お兄ちゃん、私は苦手じゃないよね?」
 ……仰る通りだ。

 新入生がチラホラと見受けられるようになり、少しずつ忙(せわ)しさや騒がしさが落ち着いてきたと思ったら、あっという間に学園祭準備シーズンを迎えてしまった。一年の時も驚いたが、御十時高校の学園祭は夏休み前に行われる。一年生としては、クラス全体で動く初めての行事になる。このおかげで、クラスメイトと仲良くなれたので、俺はこの時期の学園祭をやることに文句はない。受験の三年生にとっても、息抜きになると聞いている。
 早速学園祭実行委員の集まりが始まる。去年変わらず招集された会議室よりも一回り大きい場所を借りられていた。初々しい一年生達がソワソワしながら外で待っていた。まだ俺以外の二・三年生がまだ来ていないようで、中に入っていいのかわからない様子だった。この光景を見て、俺は妹から言われた言葉を思い出した。会議室の鍵が開いていることを確認したあと、一年生達にぎこちなく言った。
「中、入っても平気だよ」
 俺の言葉が聞こえたようで、ぞろぞろとみんな会議室の中に入っていった。ホッと心の中で一息ついて、俺も入った。

 俺が部屋に入ったと直後にやってきた上級生が入ってきて。学年ごとに座るようにと指示した。よく見てみると、机に学年とクラスが書かれたテープが貼られていた。指示通り、自分の学年とクラスが書かれた席に座る。隣にはもう一人、クラスの女子が座った。今年から実行委員はクラスから二人選出されることになったのだ。
 委員会の全メンバーが座るのを確認すると、一人の上級生が教壇へと向かった。
「それでは、第一回、学園祭実行委員会会議を初めます。まず最初に、今回は去年の反省を踏まえて、グループを作ります」
 今回も生徒会が主導でやるらしく、『副会長』という腕章を付けた三年生が、開口一番そう唱えた。
「昨年は、一人ひとりに様々な仕事をさせてしまい、新入生には随分と大変な思いをさせてしまったと思う。本当に申し訳ない。そこで、今回はグループに分かれて、各位係の仕事を行ってもらいたい」
 そう言うと、黒板にまるで活字のように綺麗な字で、今回の分かれる係を書き出した。
「あと、実行委員の経験のある二・三年生はできるだけバラけて欲しい」
 と、副会長は付け足した。ならばと俺は去年も務めた買い出しに立候補した。
「宮澤くん、早速立候補ありがとう。それじゃあ……そこの二人に頼むよ」
 後ろを振り向くと、小さく手を挙げていた一年生二人組を見つけた。二人とも女子のようだ。
「どんどん係を決めていきたいので、一年生も素直な気持ちで、やりたい係に手を挙げてくれると嬉しい」
 副会長が優しげな微笑みを浮かべた。その後、副会長の言葉通りに事は進み、どんどんと係は決まっていった。

「買い出し係の二人、こっちに来てくれー」
 全係決めが終了し、グループ毎に分かれて話し合う場が持たれることになった。俺の方にやってきたのは、先程も言っていた通り、一年生の二人だ。二人を集めて近くの席に座らせた。
「えーっと、まず、自己紹介から始めた方がいいのかな」
 俺は頭を軽く掻きながら、同じ係になった一年生二人にそう話を切り出した。
「俺は2-Cの宮澤 蛍。前回も買い出しはやってるから、わからないことがあったら言ってくれ。でもまあ、基本的には言われたものを買いに行くだけだから、大した仕事じゃないんだけどな」
 学園祭実行委員の仕事においてはいわゆる『事前準備』にあたる。当日における達成感の無さでいえば右に出るものはないかもしれない。
「それはホッとしたです」
 一年生の一人が、ボソリと呟いた。冷たい視線に、無表情な顔。短く二つに結ばれた髪に、顔立ちは少し幼い印象がある。おまけに背丈も小さい。中二の妹と同じくらいだ。
「1-Bの駒井 智(こまい とも)です。よろしくです」
細い腕を天高く挙げて、すみやかに自己紹介した。そして、隣にいるもう一人を肘で脇腹を小突いた。すると、下を向いていたもう一人の新入生が、恥ずかしそうに上目遣いをして、口を開いた。
「同じ1-Bの入間 悠(いりま ゆう)です……よ、よろしくお願いします……」
 頭を小さく下げると、彼女はすぐに俯いてしまった。どうやら話すのは苦手なようだ。
「二人は同じクラスだから連絡は取りやすいかな?」
「基本は先輩さんに任せる感じでいいです?」
 聞き慣れない呼ばれ方をしたが、駒井の言う『先輩さん』というのはきっと俺のことで間違いないだろう。
「まあ、な。一応携帯の番号教えてくれるか? 買い出しとかの連絡するためにさ」
 俺が小さなメモ帳を取り出して、名前と電話番号を書いた。それを渡して、登録するように促した。二人は慣れた手つきで登録を済ませて、次に俺のメモ帳に自分たちの名前と電話番号を書いた。
「あ、あとこれ。文化祭実行委員の腕章。基本的に文化祭の時にしか使わないから、俺が持っておこうと思うんだけど、いいか?」
 さっき副会長から、係の代表に配布された腕章を見せた。駒井はうんうんと頷いて、
「そっちの方がありがたいです。忘れると困るです」
「じゃあ、そうするよ」
 俺は腕章をバッグに入れて、メモ帳に書いてある一年生二人の電話番号を携帯に登録したのだった。

 委員会が終了し、部屋を出ると、そこには見慣れたヤツの姿があった。
「来ちゃった☆」
 ヤケにテンションが高いように見える。しかし何か要因があるわけではなく、コイツはその時その時で自分の機嫌に関係なく、こういった言葉を発するのだ。
「教室で待ってても良かったんだぞ」
「教室に一人でいると、ついつい机の角で催したくなるからね」
 指を舐めるようなフリをして、ハァハァと息を荒げさせている。こういう変態な言動はいつもの調子なので今回はツッコまずにいく。
「お話は終わったのかい?」
「ああ」
「ふふ、話は帰り道で聞かせてくれ。それじゃあ行こう」
 ヤツに促されて、俺とヤツは廊下を歩き出す。ふいに後ろを見ると、さっきの一年生二人が教室から出ているシーンに遭遇した。その一人、入間と目が合ったので手を振ろうかと思ったが、今回はやめることにした。もう少し打ち解けてからにしよう。

 買い出し係というものは、買い出しを行うまでにすることはほとんどない。話し合うこともない。そのため、会議で集まっても話すことはないのだ。基本的には雑談でもして時間を潰そうと考えていたのだが、一年生二人とも口数が少なく、とにかく自分から話を切り出すようなことはなかった。上級生にあたる俺が声をかけざるを得ない状況になっているわけだ。
 しかし、この状況はおそらく最悪最低だった。消極的な相手に会話をする時ってのは、話が広がらないものである。とにかく色んな質問をしてみるが、どうも話は続かず、結局他の係が真剣に話し合っているのを遠目で眺めている時間が圧倒的に多かったのだった。俺にもっとコミュニケーション能力があれば、と悔やむばかりだ。
「それでは、これで第二回の委員会は終了とします」
 副会長の高らかな宣言により、会議は終了した。
「宮澤くん、ちょっといいかな」
「はい?」
 いきなり副会長からの名指しに少々戸惑いつつ、俺は応対した。
「早速なのだけれど、買い出し係に買ってきてほしいものが各係であらかた決まったみたいなんだ。そこで、週末に買ってきてもらいたいのだけれど」
「ああ、はい。わかりました」
「それと、前回もお願いしたのだけれど」
 若干顔を赤くさせて、副会長は両手を合わせて、非常に申し訳なさそうな顔をした。
「バナナですね。了解です」
「すまない、宮澤くん」
 副会長はどんよりと肩を落として、軽く嘆息した。
 去年も、バナナは買わされた。しかし、これは文化祭に必要だからではない。会長が所望しているからだそうだ。ちなみに、俺はだいぶ前まで副会長が会長だと思っていたのだが、違うらしい。しっかりしているのになあ。
それにしても、文化祭の費用として会長の個人的な物を買うのは、甚だ疑問だ。

「残念です。ヒジョーーーーに残念です」
 短い二つ結びの髪を揺らして、
「土日どちらも空いてないです」
 手を前に出して、駒井はきっぱりと買い出しを断ってきた。
「何か用事でもあるのか?」
「女の子にそんなこと聞くもんじゃないです」
 ジトリとした目で睨まれ、「これ以上追及するな」と威嚇された。仕方なく、入間に視線をやる。ビクっと体を震わせて、一呼吸おいたあと、
「私は……平気です」
「じゃあ俺と二人で行こう」
「……」
 ふと、言ったあとに気づく。これはつまり、買い出しとは言っても男女二人で出かけることになる。すんなりと言った後に、俺は物凄い後悔と申し訳無さが入り混じった感情に襲われた。
「えーっと……いいか?」
「は、…………はい」
 入間は一生懸命に笑おうとしていたが、それは驚くほど引き攣ったような顔だった。無理しなくてもいいのだが。
「じゃあよろしくするです。買い忘れないようにお願いするです」
 まるで立場が逆転したかのような口ぶりで言うと、駒井はこちらに小さくピースをしながら颯爽と教室を出ていった。少し遅れて、俺に一礼した後、入間も出ていった。
「……個性的だな、二人とも」
 俺は小さく肩を竦めて、呟いた。
 結局、あのあとも一年とはまったく会話が生まれなかった。話しかけてはいるけれど、上手く意思疎通できてない感じがしていた。委員会を重ねていけばどんどん会話が増えていくものなのだけれど、なかなか難しい。
 せめて、買い出しの時くらいは、入間ともう少しだけ話せるようになりたい。

 高校の近くに大型ショッピングモールがある。そこの目印であるワシの像が上に立つ時計塔がある。そこで待ち合わせ、買い出しをすることになった。土曜日は生憎の雨だったため、日曜日に行くことになった。
「おーい。こっちこっち」
「あっ、こ、こんにちは。お待たせしました」
 入間は小さく息をあげながらこちらにやってきた。当たり前だが、私服だ。短めの黒髪をなびかせて、水色のワンピース、可愛らしい肩掛けバッグ。とてもよく似合っていた。あまり気にしていなかったが、彼女はどうやら平均以上の胸をしているようだ。服から大胆に盛り上がっている二つの山がそれを物語っていた。
「あの?」
 不思議そうに入間は俺を窺う。俺はドキリとして、焦りつつ買い出しの紙を取り出した。
「ああ、すまん。それじゃあ行くか。えーっとまずはホームセンターで……」
 ドギマギしてしまう自分が恥ずかしい。

「入間はこのあたりに住んでるのか?」
「はい。今日はこういう服だったので、歩いてきました」
 涼しげなワンピースは、膝下まであった。これでは歩きづらいだろうし、なにより自転車は似合わない。とても女の子らしい理由であり、服装だ。
「奇遇だな。俺も歩いてきた」
「じゃあ、先輩もこの近くなんですか?」
「まあ、そうなるかな」
 小さく頷き、「なるほど」と呟くと、入間はハッとして、何故か口を噤んでしまった。何か会話をしないと間が持たない。
「一緒の係になったのも、何かの縁だ。買い出し頑張ろうな」
 今できる精一杯のぎこちない笑顔をしてみる。彼女は小さく「はい」と答えた。

「これなんかどうでしょうか」
「うん、要望通りだな」
 ホームセンターで、リストに書かれているものを買う。俺は一人で考えあぐねることを予想していたが、思った以上に入間は積極的に意見を出したり、商品を持って来たりした。
「でも費用を考えると、これだとちょっと高いんだよ」
「それじゃあもう一つ、小さい方が良いですね」
 あたふたとしつつ、真剣な表情をしている入間の顔はいつもの不安そうな雰囲気は一切感じない。珍しいせいか、ついじっと見つめてしまう。
「な、なんですか?」
「いや、結構積極的に動いてくれるから、嬉しいっつうかさ」
「わ、私のせいで、委員会の話し合いが静かになってましたから……買い出しくらいちゃんとやらなきゃと思って」
 シュンとした顔になる入間。俺は慌てて弁解する。
「そんなことねえって。俺が会話するの下手だからダメなんだよ。あんまり話し手側ってわけじゃないからさ……」
 いつもヤツが喋っているから、俺は話をしているつもりになっていた。下級生にこんな思いをさせるとは、情けない。
「そうだったんですか? てっきり私が静かだから、話しづらいんだと思いました……」
「まあ、話しづらかったってのもあるけど、多分凄く賑やかでもあんまり話しかけられなかったと思う」
 心の底では、気まずいと思いつつも、ホッとしている自分がいたのは、否定できない。
「ごめんな、あんまり良い先輩じゃなくて」
 なんだか、自分で言ってて悲しくなってしまうような言葉をこぼしてしまう。つい、口から滑った感じで。
「いえ、とっても素敵な先輩だと思います」
「え?」
 どういうことだろう。気さくに話しかけて、上手くフォローをしたりするような、よくできた先輩じゃないのに。
「教室を案内してくれた時から、とっても優しい人なんだなって」
「…………?」
 思考停止する。今、彼女は何と言った? 脳内の記憶をとにかくフル回転で巡らせる。急速に動かした脳内HDDから一つの答えが導き出された。
 そして、
「あっ!!」
 大きな声をあげた。
「も、もしかして、忘れてました? 私のこと……」
 覚えている。覚えてはいるけれど、あの日、予備登校の日に案内した娘が、今目の前にいる彼女だったなんて、今言われて初めてわかった。
「そうですよね、先輩私のこと、あまりちゃんと見ていませんでしたし」
 俺のだんまりを無言の返答と受け取ったらしい。
「悪かった! あの時は予備登校の始まりの時間が過ぎてて、慌てて案内したから……その、マジですまん!!」
「大丈夫です。案内したってことを覚えててくださっただけでも、嬉しいですから」
 入間の優しさに余計気持ちが沈む。俺って、ひどいやつだなあ。
「そ、それじゃあ、買い出しの続きをしましょう!」
 彼女は苦笑交じりに、「次は何が必要なんですか?」と問いかけた。下級生に気を遣わせてしまうとは……。

「紙に書いてあるものは全部買いましたね」
 色んな店を転々として買い出しを終えた後、入間は小さく息を吐いた。数時間ずっと歩いて、立ちっぱなしだったということもあり、相当疲れているみたいだ。俺も同様で、今じゃモール内にあるベンチで休憩中だ。だが、残念なことにまだ全ての買い物は終了していない。
「いや、まだ残ってるんだ」
「え?」
 紙を見直す。しかし、全ての項目にチェックはついているし、費用も残り数百円しかない。首を傾げて、入間は俺の方を見やった。
「バナナを買わないといけないんだ」
「ば、バナナ?!」
 予想以上に驚く後輩に、俺はちょっと不思議に思った。去年ヤツに言ったときは、少し訝しげにしていただけだったのだが……。
「あ、いえ、ごめんなさい。あの、忘れてください、さっきの反応……」
 顔を一瞬にして、朱に染めて、手で顔を覆った。一体、なんだってんだ。
 しかし、この反応は正直に言って、可愛かった。

バナナを購入して、俺は入間を家まで送ることにした。陽が傾き始め、あたりは薄暗くなり始めていた。
「ありがとうございます、先輩」
 夕闇の中で、彼女はポツリと言った。
「何もしてないぞ、俺」
 今日振り返ってみても、先輩らしいことは何一つしていない。
「初めて会ったときは案内をしてくれましたし、そのあとも話しかけるのが苦手なのに、委員会の時も、それに今日だって、頑張って私に話しかけてくれましたよね? それだけでも、私としてはありがとうって感じなんです」
 俺の方を向かずに、独り言のように続ける。
「私、本当はもっとおしゃべりで、元気なんです。今は、過去形になりますけど。私、小学校、中学校と同じだった友達が、高校にいないんです。離れてから、なんだか自分を出すのがすっごく怖くて……『嫌われたらどうしよう』とか、『いじめられたらどうしよう』とか、どんどんネガティブなことばっかり考えちゃって……でも、今更どうしようもなくなっちゃって」
 俺の方から見える横顔は、とても辛そうだった。小さく体を震わせ、見えない何かと、水面下で戦っているように思えた。
「今仲良くしている智ちゃんだって、先輩だって、私のことを嫌うかもしれない……そう思うと、辛くて……」
 体の震えがさらに増す。見ているこちらも辛い。
「だったら、受け入れてやるさ」
 俺は知らぬ間に、彼女の肩を掴んで、
「誰も受け入れなくたって、俺は、絶対に受け入れるから。お前は、お前らしく振る舞え! 自分を殺して生きるな!」
 こんなクサいことを、真顔で言い放っていた。我に返り、掴んだ肩を放してこほんと咳払いをした。
「わ、悪い、スゲー変なこと言っちまったな……すまん。でも、偽りの自分で居続けるなんて、お前にとっても、周りの人にとっても、嫌だと思うぞ。特に俺は、ありのままのお前でいて欲しいって思う」
 俺みたいなダメな先輩を受け入れてくれたんだから。
「……先輩」
 下を向いていた入間がこちらを見上げる。その顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「本気に、しちゃいますよ?」
 涙が伝う顔に似合わない、満面の笑みを浮かべた。何かに解放されたように、彼女は大きく伸びをする。
「絶対に引かないでくださいね? 私のこと」
「あ……ああ、もちろん」
 少し引っかかる言い方をしたが、彼女はまた、ゆっくりと帰路を歩み始めた。さっきとはもう違う。その足取りはとても明朗だった。
「ねえ、先輩」
「ん、なんだ」
 クルリと可愛らしくこちらを振り向いて、彼女は笑顔でこう言った。
「バナナはなんのプレイに使うんですか?」

ハッキリ言っておく。後輩の変化は、俺の予想を大いに、遥かに、著しく裏切っていた。
「そういえば先輩、今日は朝にしちゃいましたか? してないんだったらあとで抜き抜きしてあげますけど」
「遠慮しておく」
「遠慮しないでください! 先輩のためならこの体、どんなことに使ってもいいんですよ!」
 自分の体を抱きしめながら、くるくるとその場で回り始める入間。やけに安定した回り方だ。
「先輩さん、何をしたです?」
 駒井が俺の裾を引っ張る。顔は真っ青で、まるでこの世のものとは思えない何かを見つけてしまったような感じだ。
 もちろん、『これ』というのは入間のことだろう。
「えっと、いろいろあってだな」
「えっ、エロエロですか!?」
「言ってねえよ!」
 綺麗な回転を止めて、話に混ざってくる。聞き間違いにもほどがあるぞ。
「委員会中なんだから静かにしろ!」
 俺は怒鳴って、周りを見渡す。他の係からちらちらと視線を感じる。そりゃそうだ、この前まで一番静かだった係が、いきなり大騒ぎしてるんだから。おまけに一人は卑猥なことばかり言っているこの状況に、目を向けないわけがない。
「先輩、言ってくれたじゃないですか……昨日のこと、忘れちゃったんですか?」
 両手の人差し指を合わせて、イジイジしている。やめろ、そういうことを言うと誤解されるだろ!
「先輩さん、何をしたです?」
 友がジトリとこちらを見つめる。いや、これは睨みつけている。激しく訝しんだ目で、心臓を一突き、刺すように。
「いや、『自分らしくしろ』って言っただけだ」
「そう! 自分らしく! 裸を見せろって!」
「言ってねえよ!!!」
 小さな少女の絶対零度の視線をこれでもかと浴びせられ、俺は既に瀕死状態だ。
「うわぁ……です」
「やめろ駒井、そんな目で俺を見るな! 誤解だ!」
「違うです。ここは三階です」
「五階!? 階数じゃねえよ!」
 入間の変化は、正直驚きを隠せないところもある。
 だけど、会話がとっても弾み、雰囲気がとっても良くなったのは確かだ。それに、笑顔の彼女は、以前よりも、とても魅力的だった。

 学園祭が楽しみだ。

「きゃっ、先輩そんな狼のような目で私を見つめないでください!」
「男はみんなそんなもんです」
「オチを台無しにすんじゃねー!!」



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