無題-overture[encore!]- (Act:0)
overture
小学校を卒業する。その事柄は、人生においてはあくまでも通過点に過ぎない。
長い人生の中のたった六年間。一つの校舎に毎日向かって、友人達と無我夢中で遊んだ。それがとっても楽しくて。それが人生における、一つの糧となる。
しかし、中学生になったら、そうはいかない。
自立……とまではいわないけれど、色々な感情の変化を、着慣れない真新しい制服を着ることで感じた。いや、感じざるを得なかったのかもしれない。
卒業式でも、似たような服を着たが、その時とは全く違う感覚だ。四月というのは始まりの感覚が強いからだろうか。「何かを始める」といういかにもな気持ちに、心が少し浮足立っているのかもしれない。具体的に何かを始めるってわけでもないけれど、すこしだけ意思はハッキリとしていた。
俺、宮澤 蛍(みやざわ けい)の中学生生活の幕が開く。その初日のことだ。
これから三年間通う道のりを歩く。外は、三月の名残も全く感じさせないほどにすっかりと春めいていた。日差しは柔らかく、気候も暖かい。入学式にはうってつけの天気だ。その陽気に誘われて、俺の歩みもなんとなく弾んだ。心地よい時間を、一人でゆっくりと堪能した。
中学でも、校長は話が長いらしい。黙って聞いてるタチではないから、周りを観察することで時間を潰すことにした。
新しい環境にはやはり少し緊張している面々。息をするのも慎重になって、校長の声は、静かな洞窟向かってこもりっぱなしの誰かに、説得するような口調に感じた。まあ、初日なんてこんなものだ。一通り見て、履いている新品の上履きをじっと見つめて、校長の自己満足な話を聞き流した。
教室では、既に小さなグループがちらほらできていた。おそらく同じ出身校のやつらで集まっているのだろう。俺は、席を立つのが面倒なので、閉口して席に居座っていた。
それにしても制服を着ると、いつも半袖半ズボンを着ていたやつ、派手な格好をしてたやつなどがいなくなって、誰が誰だかわかりづらい。……なるほど、俺は服装の特徴で誰が誰なのかを見極めていたのかもしれない。
これからはちゃんと顔と名前を一致させていかないとな、なんて非常に当たり前のことを考えながら一人小さく頷いた。
「ただいま」
午前中で入学式は終了し、盛り上がってそのままどこかに行くやつらを無視して、俺は家に帰った。昼ご飯まで時間があったが、玄関では既に、良い匂いが立ちこめていた。
「あ! おかえり、お兄ちゃん」
声が一つ。居間につながるドアが開いて、妹の舞(まい)が出迎えてくれた。髪を一つにまとめて、すっきりとした印象だった。しかし、いつもの私服には、少し違ったものが巻かれていた。
「お前、どうしてエプロンなんか。というか、なんだこの匂いは」
「私ももう高学年だから、料理作るの!」
嗅覚を刺激していた匂いの正体は、妹が作った料理らしい。恐らく、カレーあたりだろう。スパイシーな香りは、玄関にも広がっていた。
そんなことよりも、だ。
「母さん、帰ってないのか?」
「え? お母さん、いないじゃん」
妹の言っている意味がわからず、一瞬、思考停止した。脱いだ靴を整頓しながら、発言の理由を思い出した。
そうだ、母さんはいないんだ。
もともと共働きで家にあまりいなかった。しかし、舞が「いない」と断言する理由は、母は今年度から海外転勤が決まり、日本にはいないからである。父は単身赴任で妹が小学校に入学してからは年に数回会える程度だ。
だからこの家には今、俺と妹しかいないのだ。
「でも、一人で作るのは危ないだろ」
「家庭科でやってるから平気だもん」
「授業のときは先生も友達もいるけどな、家じゃ一人だろ」
「友達は、一人で作るって言ってたもん!」
小学四年生の妹は、頬を膨らませた。拳をグッと固めてプルプルと身体を震わせている。
「一人で作るのは、もう少し大きくなってからにしろ。それに、ずっとここにいるけどちゃんと火消したか?」
「あっ!」
ハッとして、慌てて妹はキッチンに急いだ。どうやら消していなかったみたいだ。
これから中学一年生と小学四年生だけの生活が始まるのかと思うと、いささかの不安……いや、とても不安だ。
これからは俺が家にいる時限定で腕を振るってもらおう。
通常授業が始まって、部活紹介や委員紹介の時期に入った。やがて仮入部の時期に入ると、周りはどの部活に行くかを思案し、騒がしくなった。俺は何人かに同じ部活に入ろうと誘われたが、やんわりと断った。
部活がしたくなかったわけでも、めんどくさかったわけでもない。ただ、俺よりも先に帰って一人で家にいる妹のことを考えると、どうしても部活に入るのは憚られたからだ。
二人で過ごすようになってから家事全般は、俺がやることになっている。が、妹が不満を漏らしたため、洗濯物や風呂掃除など、小学四年生できそうなことを色々やらせてやることにした。
昼食は学校にいつも来る近所のパン屋で買い、晩は俺が作る(妹も手伝ってくれるというか、手伝わせないと邪魔をしてくる)。お金に関しては、働いている両親から十分なほどの仕送りがくるので、まったく問題はない。余りあるほどなのだが、俺も妹も、散財するような癖は持っていなかったので、無駄遣いはまったくしなかった。奮発するにしても、いつもより高い食材を買ったりすることくらいだった。
こんな生活が続くと舞が母を恋しがるだろうと思っていた。昔から母さんにくっついていて離れない妹だから、すぐにでも海外に行きたい、母と暮らしたいと喚くのも想像に難くない。しかし、日々過ぎれどそんな素振りはなかった。聞いてみると、
「お兄ちゃんがいるから平気だよ」
照れることもなく、一切曇りのない笑顔。俺も、舞がいることが心の支えになっている。なんてことは、流石に照れくさくていうことはできなかった。
五月の大型連休が終了した翌日。
昼夜問わずあったテレビの特別番組のせいで寝不足気味なりつつも、その日はいつもより早く目が覚めてしまった。外がなんだかやかましい。複数の大型車のでかいエンジンの音、それらの走行音、なにやら物を出し入れしている音や、人の声がとにかく忙しなく聞こえてきた。ここいらの住宅街は、基本的に静かなために、すこしの物音も敏感になってしまう。それもそのはず、防音工事を済ませた家がとても多い。だが、例外として俺の家はまだしていなかった。
「一体なんなんだ」
眠りを邪魔されて不機嫌になった俺は、パジャマのまま、外に出て様子を見に行った。文句を言うつもりではない。近くで繰り広げられる騒音の理由が気になっただけだ。
(トラックが二台も……引っ越しか?)
家を出てすぐ横に目をやると、二台のトラックが並んで、道路を占領していた。家に物を運んでいる人も何人かいる。早朝にするのは構わないが、もう少し静かにできないだろうか。
どうやら隣に誰かが越してきたみたいだ。と、いうことはご近所さんになるわけで、付き合いが生じることは間違いない。どのような人が越してきたのか確かめておかないと。……なんて、謎の責任感を抱きながら、トラックのせいで狭くなった路地を通る。トラック二台の横を慎重に通り抜けると、見たことのない家が現れた。中学とは逆方向だったので、あまり気にして見ていなかったが、どうやらリフォームしたみたいだった。
俺の脳内に存在していた昔の姿は、跡形もない。
(新居みたいにキレイな家だ)
他の家々にはない、真新しさがその家にはあった。家を上から下までじっくりと見て、その家の存在を改めて認識した。次は、ここの入居者を探そうと周りを見渡すと、あっさりと発見できた。家からすぐ近くに、小柄な少女の姿を認めた。両手を後ろに回して、先ほどの俺のように家を眺めていた。横顔はとても端正で幼さの残る顔立ちに楕円型レンズのメガネ、服装は学校の制服である。
彼女は俺の視線に気づいたようで、照れくさそうに後ろを向いてしまった。こちらも気まずいので、その場を後にすることにした。
二台のトラックを必死になって通り抜けて、玄関に入ると、眠そうに目を擦った妹が、立っていた。
「どうしたのお兄ちゃん」
「起こしちゃったか」
「うん、ドアの音がしたから起きちゃった……むにゃ」
「悪い悪い。まだ眠いだろ。ほら、さっさと中に入ろう」
俺達が家に戻っても、音は相変わらず鳴り響いた。作業は、どうやらまだまだ終わりそうにない。
一度起きて、どうやら覚醒してしまったようで、再びベッドに横になってもまったく眠くない。仕方なく身体を起こして、昼用の弁当を作ることにした……のだが、弁当箱を探すのに手間取ってしまい(妹が片付けてどこかに置いてしまったようだ)、作る時間が充分に取れず、慌てて並行して作ることになった。むちゃくちゃな出来になってしまったが、この際関係ない。それを持って、登校することにした。
休み明け初日、久々に教室に到着するとクラスメイトがなんだか騒がしい。なんでも、「転校生がやってくる」という話で持ち切りのようだ。誰かが教師から聞いて、一瞬で広まってしまったそうだ。休み明けの、このタイミングというのは珍しい。
転校生は「男」なのか「女」なのか、どのクラスに入るのか、そもそも転校生なんていないのではないか……などと、色んな疑問が飛び交う中、朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り響き、噂話をしていた生徒らは慌てて自分の席に座った。
チャイムが鳴り終わって、少し遅れて担任がやってきた。担任の姿を認めると、まだ少しやかましかったクラスが一気に静寂に包まれる。担任は教壇につくと、軽く鼻息漏らして、話し始めた。
「おはようございます。朝から皆さんがずっと話をしていた転校生の話ですが、このクラスに転入することになりました」
担任の言葉に、教室内は一斉にザワついた。しかし、「静かに」という担任の低く鋭い声で、またもや静かになった。まだまだ教師の一言で静まるところは、新入生らしさを感じる。
「それでは、入ってきてください」
担任の言葉に反応して、誰かが外側から教室のドアを開けた。入ってきたのは、小さな女の子だった。教室は静かなままで、ガラガラという教室の引き戸の音のみが響いた。
「あっ」
一番最初に声をあげたのは、誰でもない、俺だった。
なぜなら、入ってきたその少女は、俺が今朝見た少女だったからだ。近くに越してきた少女だったからだ。
転校生が来るという話を聞いても、今朝存在を知った彼女のことが全く浮かばなかった。しかし、その少女の姿を見た瞬間に、すべての合点がいった。
「どうしましたか? 宮澤さん」
声を発した俺を、担任が怪訝な顔で見た。
「あ、いえ……」
予想以上に大きな声が出たわけではないが、静まり返った空間の中では、とても響いたのだ。
軽く首を捻りつつ、担任は何事もなく、転校生に自己紹介するように促した。
制服の着こなしは優等生で(悪く言うと地味)で、言葉少なな、少々声のボリューム不足の自己紹介だった。その言葉の一つ一つは教室の小さなどよめきにかき消され、ほとんど俺の耳に入ってこなかった。話している最中に、教師が『篠瀬 唯(しのせ ゆい)』と転校生の名前らしきものを書き上げた。自己紹介が終えた彼女は、緊張しつつも担任が指定した席に座ると、すぐに教科書を用意をしだした。ホームルームが終了すると、授業が始まるまで本を読んで待っていた。そんな姿を見て、誰も彼女に声をかけようとはしなかった。というか、できなかったのだった。
オマケにメガネを掛けているってだけで「地味で真面目なメガネちゃん」というイメージが、転校早々についたのだった。
転校生に沸いていたクラスは、すっかりそのブームの終焉を見てしまったのだった。
「なんか、ハズレだな」
一人の男子が、うなだれてそう言った。
「やっぱり漫画みたいに、可愛い娘なんてのは来ないんだな」
そう言ってもう一人の男子もため息をついた。そういう話はもっと静かにすればいいのにと思いつつ、俺は『注目の的』になっている女子を見やる。横顔は、やはり今朝見たときと同じように、とても綺麗で整った顔をしていた。睫毛は長く、唇はキュッと閉じており、顔が常に冷静で、全体が締まっているように見える。周辺にいる大きな声で下品に笑う女子とは大違いの、大人らしさを伴っていた。
どうやらこのクラスでは顔よりも、服装や行動から見られる『雰囲気』というものが重要視されているのかもしれない。
「地味なやつがなにをしようがとことん地味」という、中学に入って急に色気づいた連中共は定義付けがされているらしく、彼女から「地味」というイメージが離れることはなかった。
放課後になると、少女はすぐに教室を後にした。なんとも中途半端な時期の転校だったために、彼女が仮入部期間を過ごすことがなかったので、強制的に帰宅部になった。もちろん自分から申し出れば、仮入部はできずとも正式に部活に入ることは可能だろうが、そのようなことを自分から言いそうもない生徒に見えた。俺もゆっくりとバッグを持って、下校することにした。
「ただいま」
帰ったが、いつもの妹の出迎えがない。少し残念に思いつつ、居間に行くと、妹はこちらに背を向けて、うんうんと呻いていた。
「舞、ただいま」
「あ、お兄ちゃん。おかえり~」
今気づいたようで、ニコッと俺に笑いかけた。そして、またうんうんと呻いている。妹の前に、小さな箱があった。
「どうしたんだそれ」
「さっきもらったの。これからよろしくって」
ああ、なるほど。恐らく越してきた報告にやってきたのだろう。だから彼女は早く帰ったのかもしれない。
「メガネかけた人だったか?」
「ううん。おばさんも、その娘の人……かな? 二人ともかけてなかったよ。あ、でも娘の人はお兄ちゃんの学校の制服着てたよ。女の人だったよ」
当てが外れた。メガネをかけてなかったのか。帰宅途中に壊れでもしたのだろうか。
「一人で中を見ていいのかどうか、ずっと迷ってたの。お兄ちゃんが帰ってきてくれてよかった」
そう言ってハニカむと、箱を俺に手渡した。ワクワクしながら、開けるようにあおってくる。大したものではないと思うが、とりあえず開けてみる。
中には小さなハンカチが入っていた。
「あ、これ友達がよく言ってるのだ!」
ハンカチを見て、妹がビックリしたような顔をした。肌触りを確かめると、確かに質は良さそうだった。
「流行りものかな。可愛いな。舞にやるよ」
「やったー!」
ぴょんぴょんと元気に飛び跳ねて喜んで、俺に抱きついた。妹の愛らしい仕草に癒された。
あとで調べたのだが、そのハンカチは数万するらしく、俺の背筋がゾッとしたことは言うまでもない。妹にも大事にするように伝えた。
それにしても、何故こんな高価なものを……金持ちなのだろうか。
例の転校生のイメージは、俺の中では「真面目でメガネでお金持ち」になっていた。ハンカチの件で「地味」が「お金持ち」に変化した。
しかし、それから何度もイメージは変わっていった。彼女は運動ができるし、勉強も完璧だった。ただの真面目ってだけではなさそうだ。だが、言葉数が少ないので、教師やクラスメイトに誉められても軽く会釈するくらいで、それ以上の会話は誰も成り立たなかった。
教室ではひたすら本を読んでいる。だから話しかけづらく、誰も寄せつけないオーラを出していた。昼食はというと、一人でさっさと食べて、また本を読む。何度か誘っていた女子もいたが、いてもいなくても全く喋らず、反応もないので、誘う者は次第にいなくなった。客観的に見れば、間違いなくクラスから孤立していた。そして俺の彼女に対する興味も、だんだん薄れていった。
数週間が経ち梅雨の時期に入って、ここ最近はジメジメと雨が多い日が続いていた。だが、久しぶりに天気予報キャスターが「傘を持たなくても平気」とのたまった日の放課後のことだ。
俺は帰り支度をしていると、相変わらず、すばやく準備を済ませ、転校生は即、教室を出ていった。帰宅部は、俺のクラスでは俺を含めて四人ほどしかいないので、直帰する姿は目立つのである。誰も座っていない彼女の机を見定めた後、教室に居座っている理由は特にないので、俺も帰路についた。
その日はそのまま家に帰ることを少しためらった。なんとなく、下校路を見るのも嫌なくらいだった。毎日同じ時間に、同じ道を通って、何事もなく帰宅することを、躊躇した。その気持ちをグッと校門を出て、いつもとは反対の方向に歩いていった。
こういう気持ちになることは時々あった。小学校の頃も、違う道で帰ろうという気持ちに駆られて、そして何度も迷ったおぼえがある。その経験もあって、周辺の道は、大体見覚えがある。自分の知らない場所を、ゲームの地図を埋めていくようにしていくのが好きなのかもしれない。
歩くのは嫌いじゃない。小学生の頃、家に帰ってから、よく目的のない散歩に出かけてることがあった。いつもと異なる風景を見ることが、自分の心に安らぎを与える行為であったようで、頻繁に知らない場所を歩いた。
だが、中学に入ってからは、妹のことも手伝ってあまりこの気持ちになることはなかった。ただ今日は、その溜まっていたフラストレーションがついに頂天に達してしまったのだった。
ああ、ここは何度か迷った場所だ。でも大丈夫。もうここは、知っている道だから。どこから通っても、元の道に戻ってしまうような、迷路のような場所でもあり、正しい道を行けば大したことのない場所でもある。それでも右往左往して迷っていたのも懐かしい。
また、冒険心が芽生えてしまい、これまでに通ったことのない道を見つけ、そこを進むことにした。勇ましく歩いていくと、見たことのないある場所に出た。
「ん?」
小さな空き地のような空間がある。入り口前に名称が記されているプレートらしきものがあるようだが、汚れていて文字を認識することはできなかった。よく見ると寂れた遊具があるので、空き地ではなく公園なのかもしれない。この道は何度か通ったことがあるが、こんなところに公園があるのは知らなかった。
公園の手前に小奇麗なベンチがあったので、特に理由もなく座ることにした。腰を下ろすと、自然な流れで空を仰いだ。雲は非常に穏やかに動いている。それに乗じて、時間もゆったりと流れていくような心地がする。最近、舞はとても大人しいから、無理に早く帰らなければならない心配もない。なにも考えずに、ゆっくりと時間に身を任せられた。周りには、当たり前のように、子どもの姿はない。今、この公園には自分しかいないのだ。小さな公園を、まるで自分が支配したのように思えて、一人でニヤついてしまった。大きく深呼吸をして、目を閉じる。遠くから車の音や鳥の鳴き声、部活動に励む生徒の声が聞こえる。それを聞いているうちに、俺は知らぬ間に浅い眠りについていた。
ふと目が覚めて、上体を起こす。公園の古びた時計を見ると――古くて動いているかわからないが――まだ、あまり時間は経っていないようだった。ホッとして、そのまま視線を前に戻した。まさか、ベンチで眠ってしまうとは
「ずいぶんと眠っていたね」
「ああ」
左から聞こえた声に、無意識に反応する。声の方向を見やると、そこには見たことのある横顔。
「……えっ」
思わず身じろいだ。いきなり声をかけてきたということよりも、隣にいた意外な人物に、驚いたからだ。
「そんなに驚くことかな」
持っている本に視線を送りながら、クスリと含みを持って笑う。開いていたページに栞を挟んで、こちらに顔を向けた。
その人物は、転校生だった。
「初めてだよね、こうやって話をするのは」
「なんでこんなところにいるんだ?」
「ふと通ってから、お気に入りの場所なんだ。静かだから、本がゆっくり読めるし」
持っている本を軽く振ってみせ、再び笑ってみせる。
「いつもさっさと帰っちまうのは、そのせいなのか?」
「そういうわけじゃないけれど……確かに、そうでもあるかも。家に一度帰って、ここに来るんだ」
そういわれて見れば、彼女は制服ではない。しかし、どこかに出かけるような服とは思えない、地味な服だった。
「ビックリしたよ。この公園に人がいるなんて。しかもクラスメイト!」
転校生は目をキラキラと輝かせて、両手を合わせた。
「だからボクは、ついつい君に声をかけてしまったんだ」
ボク? 今、ボクって言ったか?
「ん? ボクの顔になにかついているかな?」
また言った。どうやら、彼女の一人称は「ボク」であるようだ。ボクっ娘っていうんだっけ。本物を初めてみた。
「それに君は、ボクが引っ越してきたときに、家の前で会った人だよね?」
頷くと、彼女は更に笑みを増したような顔で、
「あの時は、急に目が合ったから、ビックリしちゃったんだ。ごめんね」
ぺこりと頭を下げた。別にそんなことを、謝らなくてもいいと思うのだが。
今になってようやく、彼女がメガネをかけていないことに気づいた。
「メガネはつけなくても平気なのか?」
「ああ、メガネかい。あれは伊達だから」
伊達メガネ。視力矯正のないメガネ。
「人に直接目を見られるのが、得意じゃないんだ。両目1.5だしね」
俺より良いじゃねえか。
彼女はゆったりと脚をぶらつかせたり、伸ばしたりする。
「初めて男の子と話した気がするよ。ふふっ」
「そうなのか?」
「学校の時のボクを考えてくれれば、想像するのは容易いと思うのだけれど」
確かに、いつもの学校の『アレ』ならそうかもしれないけれど。今の彼女からは、学校での雰囲気とはまるでかけ離れていた。
「どっちが本物なんだ? 今のお前と、学校のお前と」
「なんだか面白い質問だね。今のボクと学校のボクか……ふふっ、どちらも、ボクはボクだよ」
晴天のように晴れ晴れとした笑顔で、しっかりと返してきた。
「人にどう見られてるかとかは、あまり気にしないから」
同い年とは思えないほど、何か達観しているように見える。それにしても、聞き慣れない口調だ。俺が生まれてきてからこんな口調の女には出逢ったことがない。まるで未知数の存在だ。
「ふふ、おかしいだろ。ボクって」
乾いた笑い声を上げて、彼女は空を見上げた。
「小学生の頃、前の中学でも、友達なんていなかったんだ」
爽やかな微笑みだ。均整な顔立ちは、曇った天気には映えなかった。一度目をギュッと閉じて、彼女は立ち上がった。
「急に話しかけたりして、申し訳なかった。これから一年間、クラスメイトとしてよろしくね」
彼女は改めてニコッとして、俺に深くお辞儀をし、そのまま公園を後にしようと出口に向かっていく。
「待てよ」
歩き出した彼女に、俺は、感情に任せて声をあげた。声を聞いて、彼女はこちらの方を向く。とても不思議そうな顔だ。
「なってやるよ、友達に」俺は少し照れくさくなって、下を見て「お前の友達に、さ」と、消え入りそうな声で、呟いた。
彼女は驚いたような顔をして、俺の顔を窺った。彼女の綺麗な瞳が、俺に注力されていることを思うと、どうしても彼女を見ることができなかった。
「……ボクはどうしようもない、変なやつだけれど、いいのかい?」
怯えたような低い声で、彼女は言った。本を胸に抱えて、上目遣いをしている。
「そんなこと気にしねえよ。そ、それに、隣だしさ」
最後に言葉を付け加えたのは、自分の言ってる事が、あまりにもクサく感じて、恥ずかしく思ったのと、誰かさんのお節介に通ずるように感じたからだ。すると、彼女は目を丸くして、
「……君、お隣さんなのかい?」
と、言った。
「あはは、あの可愛い女の子は、君の妹なんだ」
「悪かったな、似てなくて」
俺と転校生は横に並んで、一緒に歩いていた。空は夕焼けに染まり、暖かな色に染まっていた。カラスの声が小さくこだまして、少しずつ夜に向かっていることを予期した。
「なんだか不思議だよ。友達と一緒に歩くなんて」
彼女は落ち着かない様子で周りを何度も見渡して、体をモジモジさせた。そんなにソワソワする必要もないだろうに。
「そうだ、これからは一緒に学校に行こうよ。家は隣なんだし。……あ、もしかして他の人と一緒に行ってるのかな?」
「大丈夫だ。今年は一人で登校してたし」
「今年は?」
「……いや、なんでもない」
俺の言葉に疑問を抱いたようだが、そんなことはどうでもいいことだ。
今、彼女に言う必要はない。
家に近づくと、彼女は軽く伸びをして、緩く息を吐いた。
「ふふっ、今でも信じられないなぁ。ボクに友達ができたなんて」
彼女は、友達ができたことに喜びを感じているような表情をしている。それにしても生き生きとしすぎている。
「俺は友達がいなかったことが信じられないぞ」
というのも、会話をしてみると彼女は驚くほど聞き上手で、しかも信じられないほど話し上手だった。人の話を目を見てちゃんと聞いて、タイミング良く相槌を打ってくる。反応も良く、話が途切れない。声も聞き取りやすく、ゆったりとした口調だ。
「ふふ、どうしてだろうね」
常に笑顔で、喋ってるこっちも嫌な気がしない。俺の方がよっぽど聞き下手で話し下手なのに。
「ちょっと、変わったところがあるからかもね」
小さくそう呟くのを、俺は聞き逃さなかった。
俺の家の前に着く。彼女は自分の家の門まで駆け寄り、こちらに顔を向けた。
「ここまで、あっという間だったよ。ありがとう」
本を脇に抱えて、手を振ってきた。俺も軽く振り返した。すると、気づいたような顔をして、
「明日は、ボクが君の家に行くよ。登校準備をして待っててくれ」
時間については言わなかったが俺は大きく頷いて見せた。それに呼応して、彼女は微笑んだまま、家へと入っていった。
「……」
少し彼女のいた場所を眺めて、一息吐いた。なぜかおかしくなって、少し含み笑いをしてしまった。
「どうしたのお兄ちゃん」
「うおっ」
知らぬ間に、妹が横に立っていた。しかも、ちょっと怒っている風の声色だ。
「お兄ちゃん遅いなーと思って待ってたら外から声がするし、暇だから覗いたの……お兄ちゃんあの女の人と友達だったの?」
友達だったというか、なんというか。
今日なったというか、なんというか。
「話はあとでするから、中に入ろう」
「う、うん……」
納得のいかないような顔をして、妹は家の中に入っていった。俺も後ろについて、家へと入った。
次の日の朝は、家のインターホンから始まった。
「……ん?」
寝ぼけた目で時計を見ると、俺が起きる数十分前の時間。何かの聞き違いだろうと、もう一度枕に顔を埋めた。しかし、
「お兄ちゃーん! 昨日の女の人!」
妹の幼い声は耳にキンと響き、一気に眠気がさめた。急いで部屋を出て、階段を降りて、妹がインターホンの受話器を持って、俺に手招きしていた。俺はすぐに受話器を受け取り、朝の寝ぼけた声を出さないように、一度深呼吸をして、通話に応じた。
「はい?」
声が出ない、だけなら良かったが、裏返ってしまった。その声に、相手は吹き出したような音を出した。
「あはは、まだ眠っていたのかな?」
その相手は、昨日一緒に帰った転校生である。まさか、もうお迎えにきたのだろうか。
「ボクは待っているから、ゆっくり準備してくれ」
「俺が起きる時間より早いぞ」
「ふふっ、つい楽しみになってしまってね」
声のトーンではあまり変わっているようには思えなかったが、嘘をついているようには聞こえなかった。
「待ってろ、すぐに行くから」
「うん、待ってる」
言葉を聞くだけで、先日の彼女の笑顔が浮かび上がってくるようだった。
急いで支度をして、食パンをくわえたまま外に出た。
彼女はこちらに背を向けていたが、ドアの音に気がついてこちらを振り向いた。口にくわえられた食パンを見て、クスリと笑った。
「あはは、そんなに急がなくても良かったのに」
「来るのが早いんだよ」
「さっき言ったとおり、ワクワクしちゃってね。ほら、遠足の前日って眠れなくなるくらいに楽しみになってしまうだろう?」
ハニカんで、彼女は後ろに手を回した。俺は気恥ずかしく思って、頭を掻いた。
「次はもっと遅く来いよ。流石に早すぎる」
「うん、反省反省。……それじゃあ行こうか」
「ああ」
彼女にとって初めての友達ができた。そして、それは俺にとって中学初めての友達ができたことを意味した。
俺と彼女は、横一列になって歩く。昨日と同じように。早朝の爽やかさと肌寒さを伴いながら……。
だけど、なんでだ。
「ハッ……今、君はボクを見て少なからずの欲情をしたように見えたよ」
ヤツは目を細めた。その後、ヘたりと体型を崩して短いスカートをちょいと持ち上げて、
「しかたがないなぁ……いいよ」
と、半ば呆れたような口調でそう言った。
なにが「いいよ」だ。他人ん家でやるポーズじゃないだろそれ。
現在、俺達は高校一年。俺とヤツは同じ学校に通っている。先ほどのヤツの言動でもわかる通り、中学の時と今では、大違いだ。
いつ変わったのかは、よく覚えていない。
「アホか」
俺はため息を吐いて、ヤツから目をそらす。
「でも、いつもとは少し違っていたように見えたよ」
「考え事をしてたんだ」
「ボクの顔を見ながら?」
ああ、そうだよ。
コイツの顔を見てたら、ふと昔のことを思い出しちまった。
「ふふ、どんなことを考えてたのかな? いやらしいことかい?」
「違う」
四足で近づいてくるヤツに、軽くチョップを食らわせる。
「あうっ、もっと強く!!」
「変態か!」
「ああ、そうだ! ボクは君が思っている以上の変態だよ! もっと言うと『ド』が付くほどに!」
目を輝かせて、とんでもない事を言い放ちやがる。どうしようもないやつだ。
だけど。
あの頃と、まったく変わってない瞳、笑顔(身体の凹凸も含めて)。コイツの根本は変わっていない。
コイツがあの頃言っていた変なところ、というのはきっとこの言動に対してのものだったのかもしれないが、それがどうした。中学三年間、俺とコイツはずっと一緒だった。おまけにクラスもだ。そして、今も同じだ。これまで変わらず友達だった。
どんな変態であれ、なんであれ。俺とコイツは、友達なのだ。
「六月になると、ボクは思い出すんだ」
低い天井を見上げて、ポツリと呟いた。
「君と出会った、あの日のことをね」
照れくさそうに、ヤツはこちらに笑顔を向けた。
友達になって、四年目の6月を迎える日のことだった。
「ああ、あの日って、女の子の日じゃないからね」
「わかってるっつーの! 最後に台無しにするな!」
完