魚籠
野ざらしで薄黒くなっているコンクリートの上に簡易の椅子を開いて、すっくりと座り込んだ。ふぅと息を吐きながら、近くにおいていた釣り竿やらなにやらを手繰り寄せた。ちまりちまりと、針先にゴカイを半分にプッチりと切ったものをつけてシュッと海に投げた。潮風と波の音ばかりでない人の語らいが聞こえる。家族連れやら友人連れやら、賑やかにやっている。
ぷはぁと、空に息を投げては、浅くやってくる微睡みに付き合いながら、釣り竿の先を見ていた。程なくして、くりくりといたずらをするように糸が引っ張られる。ここぞという所まで待って、一入深く惹かれた瞬間にカッと合わせてリールを回す。なかなか良い大きさの鯵が連れた。慣れた手付きで針を外してクーラーボックスに投げ込んだ。
また、一連の流れを繰り返す。少し遠くで水を叩いて入る音が聞こえる。また椅子に深く座り込んでぷかぷかと息を投げた。
「どうも、お隣よろしいです?」
少し嗄れた声の男性が声をかけてきた。
「ええ、どうぞ。」
「いやぁ、どうも、さっきまでいたとこが、どうも食いつきが悪くなっちゃいまして。」
日焼けした初老の人の良さそうなおじさんが手慣れた手付きで釣具を用意していた。
「何かと人が多いですから、場所重なっちゃって、魚逃げちゃったんでしょう。」
「そうかもしれませんねぇ、ここらへんは穏やかそうで。」
「ええ、静かなもんですよ。ついさっき私も来たばかりですが、いい塩梅です。」
「そうですか。それはそれは、私も乗っからせていただきますよ。」
おじさんは、硬い合成繊維で編まれた、そこそこ魚の入った魚籠を海に投げ込んだ。それを見ていると。「ああいや、家が近くでして、昔から使ってるボロい魚籠をそのまま使ってるんですよ。ぱっと釣って、家に帰る分にはこっちのほうが楽でね。」
そう言いながら、おじさんの竿がひゅっと音を立てる。
「いやぁ、ここらの子なら、魚なんて見てもなんでもないんですが、遠くから来る子供なんて、さっきの魚籠の中の魚を見るとぎょっとするんですよ。」
「そんなもんですか。」
「ええ、お兄さんは初めから魚はダメでした?」
「ああ、僕は最初から、、、いや、違うな。初めては都会っ子見たく、ビクビクしましたね、そういえば。」
「あっはっは、そうなんですか、それじゃあ随分手慣れましたね。」
「ええ、親父が釣りが好きでして、つられて横で座ってたんですが、最初こそ気持ち悪いと思ったさかなの目とか鱗とか、ぬめりとか、全部親父が魚のかかった釣り竿を持たせてくれた時に吹っ飛びみました。頭真っ白で吊り上げて、なぁんだ、こんな楽しいことがあるなんて、なんて思いまして。そしたら、気持ち悪いと思った魚も、面白いことの結果だ、なんて思うと不思議と気持ち悪いなんて考えが消えちゃいましてね。」
幼時のあの感覚を思い出していると、自然と笑みが湧き出た。
「そうですか、そうですか。いやぁ、私もそんなもんですよ。自分の息子にもおんなじ体験させたげようなんて思って、連れてきたことがあるんですが、息子には合わなかったみたいで。」
「そりゃ寂しいですね。なかなかどうして、一度楽しいとハマっちゃうと、抜け出せないくらいの沼なんですけどねぇ。」
「そうですねぇ。まぁ、よくよく私が釣って、食卓に上がるからか、魚は好きみたいなので、それは良かったですね。といっても、たまに寂しくなって、お兄さんみたいに優しそうな人を見つけると、ついつい話しかけちゃうんですけどね。」
照れたように、おじさんが顔の端を掻いた。
「人と喋りながら、だらだらとやる釣りも面白いですよね。いいですよ、ゆったりお互いやりましょう。魚籠が一杯になるには、まだまだ釣らなきゃですから。」
くつくつと笑っておじさんにそう返すと、嬉しそうにおじさんも笑顔を作った。
「いいですね、ここらの魚を、私らで釣りきっちゃいましょう。おっ、かかった。」
お互いケラケラ笑っていると、おじさんの竿にあたりが来た。危なげなく吊り上げた魚を、引き上げた魚籠に投げ込んで、また竿を振る。
やりました、なんて顔をしておじさんがしたり顔をして、それを見て僕だって、なんて張り合ったりして、なんてことのない独り釣りが楽しい釣りになったもんだと、ふとした瞬間に空に息を投げた。天空の海にイワシの群れが泳いでいた。ありゃ魚籠には入らねぇな、なんてらしくない言葉が頭を泳いだ。