日本村社会の特徴
日本村社会の特徴
以下、日本社会、日本の村人の特徴がどのようなものか、説明を個別に行う。
(1)『対人関係の重視』
「対人関係を重視する。つながりを指向する。縁故主義である。」
日本の村人は、対人関係を本質的に重視する。
彼らは、無機的な物質よりも、人間の方に興味が行く。
彼らは、人間関係、縁故、コネ、人脈の構築に注力し、得意とする。
彼らは、人と人とのつながり、絆を重視する。
政党などで、明確な目標論争やビジョンの相違によってグループができるのではない。
彼らは、「私は、あの時、○○先生に○○でお世話になったから、○○先生の門下に入ろう」といったように、人物や対人関係本位で縁故関係を作る。
それが派閥、学閥等となって、社会を動かしている。
彼らは他人の気持ちに敏感で、人の心の動きを読むことや、心理学やカウンセリングに関心を持つ人が多い。
彼らは、無機的な機械、ロボットをも、ヒューマノイドとして人間化してしまう。
彼らの考え方は、小さいときから人形や周囲の人間に興味を惹かれて、気に入られるように行動する女の子の考え方と、考え方が一緒である(男の子のように、無機的な機械や物質に興味を惹かれる度合いが低い)。
(VS欧米人(牧畜民):彼らにとって、対人関係は、何か目標を実現するための手段に過ぎず、一時的なものである。彼らにとっては、つながることよりも、独立して自由に動けることが重要である。)
(2)『コミュニケーションの重視』
「コミュニケーション、話し合い、打ち解け合いを重視する。」
日本の村人は、対人関係構築、維持のために、会社とかで、コミュニケーション、通信をやたらと重視する。
彼らは、周囲の親しい他者と対話、会話をする、しゃべる、打ち解け合うのを好む。
彼らは、ペラペラおしゃべり可能な電話や、グループでの頻繁なメッセージのやりとりな可能なLINEを好む。
彼らは、親しい相手との手紙、メール、メッセージの、間を置かない頻繁なやり取りを望む。
彼らは、対人関係維持のために、要件が無くても、長話するのを好む。
彼らは、直接対面でのコミュニケーションを好む。
(VS欧米人(牧畜民):彼らにとって、コミュニケーションは、何か目標を実現するための手段に過ぎず、それ自体が目標になるものではない。)
(3)『対人関係の累積』
「対人関係が累積する。リセット出来ない。転身が難しい。」
日本の村人の場合、対人関係が、世代を重ねてどんどん累積していく。
彼らは、対人関係、コネの切断、リセット、初期化が出来ない。
彼らは、一度できた関係やコネをそのままずるずる続け、保持していく。
彼らは、ある分野、領域で一度できたコネを気軽に切って、別の分野、領域に転身することを嫌い、一度入った分野、領域にずっと居続けることを要求する。
彼らの場合、友人関係とか、学校、職場に入った最初の一瞬で、その後がずっと決まってしまう傾向がある。
彼らが、別の領域、組織集団に転身、「転村」しようとしても、既にその領域に既存の対人関係が累積して出来上がってしまっているため、後から入り込む、入れてもらうことが容易には出来ない。
あるいは入れてもらったとしても、彼らは、身分、立場の低い新入り扱いになってしまう。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、対人関係は簡単にリセット出来て、次の新天地への転身が可能である。)
(4)『対人関係の癒着』
「対人関係が長期持続する。対人関係が癒着、粘着しやすい。公私混同、談合体質である。」
日本の村人の場合、いったん出来た対人関係が長期にわたって延々と持続する。
彼らは、対人関係が粘着的であり、しつこい。
彼らの間では、一度始まった会話や説教が延々と長引き、なかなか終わらない。
日本村社会は人間関係が納豆みたいにネバネバ、ベタベタ、ネチネチしており、「納豆社会」と呼べる。
彼らにおいては、対人関係が癒着しやすく、公私混同とか談合とか起こしやすい。
(VS欧米人(牧畜民):彼らの場合、対人関係は短期的なもので、淡白で、あっさりしたものである。)
(5)『集団主義』
「一緒にいること、群れを重視する。仲良しグループ形成、護送船団方式を好む。巻き込み、連帯責任が生じやすい。」
日本の村人は、皆で一緒にいようとする。
彼らは、群れるのを好む。
彼らは、集団、団体での行動、共同作業を好む。
彼らは、集団主義である。
彼らは、一人では行動できない、行動するのを好まない。
彼らは、互いにべたべたくっつき合おう、一緒になろうとする。
彼らは、派閥を作り、互いに主流になろうとしていがみ合う。
彼らは、一人では気が弱くて何もできないくせに、徒党や集団を組むと途端に気が大きくなって、「数の力」を頼りに大声で騒ぎ、傍若無人なことを行う。あるいは、
彼らは、一人~少数を集団で寄って集っていじめるのを許容する(多勢に無勢)。
彼らは、集団内の一体感、愛情を何よりも重んじる。
彼らは、「全社一丸となって取り組もう」みたいに、集団の一体感の強さ、一心同体であることをやたらと強調する。
彼らは、皆で一斉に集中して何かするのを好む。
彼らの社会は、互いの安全、保身を確保するため、皆で一緒に群れて、つるんで、周囲と互いに守り合う形で行動するのを好む「護送船団方式」社会である。
彼らは、皆が分け隔てなく処遇されることを求める。日本人は、食事もトイレも皆、仲良しグループでつるんで行動したがる女性と根が一緒である。
彼らは、一人が何か行動を起こすと、当人で自己完結せず、周囲を否応なく巻き込んで大事、騒動になる可能性が高い。
彼らは、起こした行動の責任が、当人一人の責任にとどまらず、グループとかの連帯責任になりやすい。
彼らは、周囲と無関係でい続けることが難しい。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、グループよりも一人で独立、自立しているのを重視する。彼らは、互いに訴訟し合うのを好む。彼らの場合、責任は、個人で動く結果、自分一人で取る結果になる。)
(6)『所属の重視』
「所属を重視する。包含感覚、胎内感覚を重視する。心中を好む。」
日本の村人は、所属を重視する。
彼らは、必ずどこかの集団に所属しようとする。
彼らは、どこかに所属していないと不安である。
彼らは、所属する集団から排除されるのを何より恐れる。
彼らは、集団に属さずに、一人で独立、自律するのを根底で嫌う。
彼らは、どこの集団にも所属していない自由な人を、フリーターとか言って軽蔑し、信用しない。
彼らは、どこの集団に入ったか、所属しているかを重視する。
彼らは、入る(入った)、所属する(所属している、した)学校、会社の名前、ブランドを重んじる。
彼らは、正規の所属であること、その集団の身内の正社員であることを重んじる。一方、臨時の非正規社員は、同じ仕事をしていても身内に入れようとはせず、所属しているとは見なさず、待遇に格差を設ける。
彼らは、成員が、所属集団のために、我が身を犠牲にして、汗を流すことを賞賛する。
彼らは、成員が、所属集団に身も心も完全に包含、吸収され、所属集団と常に一体化して、自分があたかも所属集団を代表する一人であるかのような心意気で行動することを重視する。
彼らは、成員が所属集団の身体の一部として動くことを重視する。
彼らは、所属集団に、成員一人ひとりが完全に溶解、融解しきって、所属集団それ自体がひとまとまりの人格を持って動くような印象を外部に与えようとする。
彼らの所属する集団が、成員に対して、夫の浮気を疑う奥さんのように嫉妬深い。
所属する成員は、会社、学校とかの所属集団のために、休日、残業時間も含めて、全ての時間を浮気せずに100パーセント入れあげて、捧げることを強いられ、要求される。
あるいは、成員は、所属集団との、可能な限り長時間の生涯にわたる付き合い、長時間残業を要求される。所属集団への連続所属が求められる。
彼らは、所属集団に絶えず一体化し、同調し、気配りし、尽くす姿勢を見せないと、所属集団の上位者によって所属を外され、集団から追い出されてしまう。これが日本村社会の生きにくさの本質である。
成員は、自分のプライベートの全てを削って、所属集団に合わせること、自分の時間の全てを所属集団のために使い切ること(滅私奉公)を要求される。
成員が所属集団に、時間的にも、空間的にも、完全包含されることが望まれる。永続的に所属集団に所属する。
所属第一主義である。
会社のリストラみたいに、所属集団側で、その成員の所属を維持できなくなったら、所属集団側によって、一方的に関係が破棄され、成員は所属集団から自己都合で脱退することを強いられる。
一方、所属集団側では、いったん成員を集団の中に入れると、その成員を外に出すことがなかなか出来ない。
成員は、自分の所属集団の存続を第一に考え、その存続のために死力を尽くして、集団の全員が一丸となって最期まで戦おうとすることを要求される。
彼らは、最後まで戦ってそれでダメだった時は、所属集団丸ごと滅びようとする。
彼らは、集団自決を好む。
彼らは、集団への所属は、その集団限りで完結させよう、終わりにしようとする。成員が他集団に、捕虜とかで生きたまま拾われるのを好まない。
所属集団は、成員が一つの所属集団にのみ終生忠誠を誓うことを望み、成員が2つ以上の集団に、同時あるいは逐次に所属することを嫌う。また成員が所属集団の仕事以外の副業をすることを禁止、制限しようとする。
所属集団の存続が行われれば、自分はその犠牲になってどうなってもよいと考えることが求められる。
彼らは、集団の成員が、所属集団のために、特攻隊のように、進んで犠牲になることを尊ぶ。
所属集団は運命共同体であり、成員が所属集団と最後まで運命を共にすること、「死なばもろとも」、心中を求める。
日本社会では、学校(大学とか)を卒業すると同時にどこかに入社する内定を予め取って、所定の日にきちんと新卒で入社しないと、所属集団から外れた、放り出された既卒扱いされて、どこの会社にも入れてもらえなくなってしまう(既卒差別)。
日本社会では、学卒だけでなく転職の場合でも、今までの所属集団から時間的に切れ目なく次の所属集団に入らないと行けない。彼らは連続的所属を重視する。
日本社会では、所属において、どこの村にも所属しないフリーの期間があると、あるいは村への所属の履歴にブランク、空白の期間があると、村人としての信用度が低下して流民化したと見なされ、会社とかでなかなか採用してもらえない(履歴ブランク差別)。
日本の村人は、中の一員で有り続けること、外に出されないことを望む。
彼らは、転職を、所属(集団)からの排出と見なし、嫌う。
彼らは、転職を、スキルアップではなく、前にいた集団で、他の成員とうまくやっていけなかったため、外に出されたか、自分から外に出たとネガティブに捉える。
日本社会では、所属集団を出て行くことが、元の意図、意思に関わりなく、裏切り者、マイナスポイントとみなされ、非難される。所属集団を自分の意思で出ていく回数が増えるほど、社会的信用度が低下する。
日本社会では、成員は所属集団の用意した人生のレール、エスカレーターから決して外れない、降りないことを要求される。成員が所属集団専用の人生のレール、エスカレーターから外れない、降りない限り、成員の生活は所属集団である村が保証する。一方、成員が、いったん、村のレール、エスカレーターを自分から降りた、卒業した、村を出た場合はその後の生活は自己責任で、所属集団は一切関与しない、助けない。その後は村による援助は期待できず、自力で何とか食べて行くしかない。
彼らは、所属集団に自分が包含された感覚、所属集団が自分の母代わりとなって、あたかも自分が母の胎内にいるかのような感覚を好む。
彼らは、所属集団との一体感が極めて強い点、相手との一体感を重んじる女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、どこかに所属するよりも一人で独立、自立してベンチャーするのを重視する。彼らは、所属することによって生じる束縛を避け、フリーを好む。)
(7)『定住の重視』
「定住、定着、根付きを重視する。継続を重視する。専門家を重視する。固執する。」
日本の村人は、村落での居住する土地とか、勤め先の官庁、会社とか、一箇所に定住、定着して長期間根付くのを好む。
彼らは、土着を好む。
彼らは、転出して、出ていく人を裏切り者呼ばわりして嫌う。「転村」することを嫌う。
彼らは、定住しない浮き草、根無し草のような、永遠の旅人のような人たちを軽蔑する。
彼らは、あるいは、転職を繰り返したり、一つの職場に定職を持たない人を信用しない。
彼らは、住居でも職場でも、一箇所に腰を落ち着けて、その場で居心地の良い、長期間居着くことを目的とした巣作りをすぐ始めようとする。
彼らは、重心の低い、腰の重い、一箇所に腰を落ち着けてそこから動こうとしない女性的な性格である。
彼らは、学者とか、役者とか、早いうちから一つの分野を専攻して、そこに腰を落ち着けて、根付いて、浮気せずに、その専門の一本道をずっと継続して歩むことを重視する。
彼らは、専門家を重視する。
彼らは、継続は力なりという言葉を重んじる。
彼らは、数多くの専門外のことに多様な関心を持って首を突っ込む人、専門を持たない、決めない人のことを信用せず、軽んじる。
彼らは、自分の代々住んでいる土地のことや、あるいは、自分の専門分野に付いては何でも知っていて、答えられないことが無いのを当然とする。
彼らは、専門知識面での百点満点を指向する。
彼らは、知らない、質問に答えられない、他の人が答えられると恥ずかしいと考える。
彼らは、自分が回答可能な範囲を狭く決めておいて、その範囲内では何でも答えられるようにすることで、専門家としての自分の高いプライドを維持しようとする。
彼らは、知っていること、知識があることを第一と考え、知識を学習すること、暗記することにエネルギーを集中する。
彼らは、学殖のある知識人、学者を重んじる。
彼らは、国会の議論とか、外交とか、自分が根を下ろした今までの意見に、固執して、柔軟に譲ろう、意見を変えようとしない。
彼らは、自分が譲ったら、変えたら負けと考えがちである。
彼らは、譲歩の契機となる対話や審議を拒否し、会議を欠席しようとする。
彼らは、あるいは、話し合いがいつまでも平行線で、押し問答となり、強行採決を繰り返す。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、どこかにずっと定着するよりも一人でどんどん新天地へと移動していくのを重視する。彼らは、新分野への新規参入能力、新規アイデア、知見を生む能力を重視する。)
(8)『同調主義』
「同調性が強い。画一、横並び、流行、トレンドを重視する。相対評価を好む。嫉妬心が強い。」
日本の村人は、同調性が強い。
彼らは、流行、協調性を重んじる。
彼らは、周囲の流行に敏感であり、流行に振り回される。
彼らは、映画やアニメとか、メジャーな流行に皆で追随しようとする。
彼らは、付和雷同を好む。
彼らは、トレンドに合わせて動くのを好む。
彼らは、互いの間の気配り・足の引っ張り合いが得意である。
彼らは、みんな一緒に、横並びでいること、分け隔てなく同じであることを強要される。
彼らは、授業とか一斉に行うのを好む。
彼らは、周囲について行けない「落ちこぼれ」を嫌う。
彼らは、周囲との協調性や気配りをやたらと重視し、「出る杭は打たれる」みたいに、遅れてお荷物になる人間、周囲に歩調を合わせない独立独歩タイプの人間を、寄って集っていじめる。
彼らは、自由、フリーを本質的に嫌う。
彼らは、相互牽制、嫉妬心が強く、行くならみんな同時に同じところに同調して行くことを望み、誰かが一人だけ抜け駆けをしようとするのを許さない。
彼らは、人間や組織の成績評価を、偏差値を利用して、周囲との相対評価で決める。
彼らは、自分に対して気分を害する人が出ないように、誰に対してでも八方美人的に平等に配慮する。
彼らは、嫉妬深く、他の人が自分より上位に行くこと、良い思いをすることを全力で阻止しようとする。しかし、他人が上に十二分に行って手の届かない存在になると、途端にその他人のことを上位者扱いして崇拝し媚びを売り出す。
彼らは、常に他者、他社と自分との立ち位置を相対的に比較し、上位を行く他者、他社に必死で追いつこう、追い越そうとして、互いに自らを鍛錬し、向上させようとする。自分が周囲に対して相対的に上位者、優位者になり、下位者に対してマウンティングしたり、威張ろうとする。
彼らのこうした嫉妬心の強さが、日本社会、日本企業業績向上の原動力となっている。
彼らは、他人が自分と結果的に平等であること、同じであること、格差が無いことを指向し、その結果、社会が均質化する。それは、互いの処遇上の一体感を求める女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、周囲と同調するよりも、各自が強い個性、独自性を持ってバラバラに、自分の能力を発揮できることをしようとする。彼らは、新規のトレンドを生み出し、それに真っ先に乗って、追随者を多く生み出すことに心血を注ぐ。)
(9)『同期~先輩後輩制の重視』
「同期意識が強い。年功序列、先輩後輩制、エスカレーターを好む。追い抜き、競争を嫌う。天下りを好む。」
日本の村人は、入社とかのタイミングを年一回とかに一斉に合わせ、同期させるのを好む。
彼らは、一緒のタイミングで同じ集団に入った人を、同期と見なして、互いに格差の無い同一、均等の待遇を求めたがる。
彼らは、同じ入社年次、同期の人たちが、揃って同期して昇進し、昇進に格差が生じないのを好む。
彼らは、エスカレーターに乗るのと同じく、年を取るに従って、役職が上に順調に昇進していく、あるいは、組織内で年を取った先輩格の人が後輩格の人よりも常に上位者扱いされる、年功序列、先輩後輩制を好む。
彼らは、官庁や大企業で、同期の関係にある人同士が、役職で上下に格差が生じた状態で互いに顔を合わせるのを嫌い、役職の低い方の人が、外局に落下傘降下する形で、顔を合わせないように組織の外に出ていくのを好む(天下り)。
彼らは、あるいは、先に組織に入った先輩格の人が、後から組織に入ってきた後輩格の人に、昇進とかで追い抜かれる(後輩格の人が先輩格の人を追い抜く)のを嫌う。
彼らは、追い越しの伴う競争を根本的に嫌う。
彼らは、後輩格の若い人が、先輩格の年取った人の上司になるのを、互いに扱いにくいとして双方で嫌う。それは、中途採用で高齢者の就職口が限られる一因となっている。
彼らは、学校での昇級や会社での昇進で、飛び級を嫌い、用意された階段を一段ずつ順次登っていくのを好む。
彼らは、いったん登った役職から降格されるのを嫌う。
こうした性格は、互いの処遇上の時間的な揃い、一体性を求める女性的な性格である。
こうした性格は、あるいは、身の安全性を担保する前例や知識の習得を重視し、先に入社した人が、前例蓄積の度合いが大きく、無条件でいつまでも上位になると考える、女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、同期にこだわらない。彼らは、若い人が年取った人よりも役職が上なのが当たり前である。彼らの場合、追い抜き、競争が日常茶飯事である。)
(10)『物真似指向』
「物真似、コピー、合わせが好きである。」
日本の村人は、他人の物真似を好む、物まね、コピー、パクり文化の持ち主である。
彼らは、周囲の動向、流行に必死になって付いて行こう、同調、同期しようとする。
彼らは、周囲とは別の独自の途を一人で歩むのを好まず、周囲に合わせようとする。
彼らは、個人のオリジナリティ(独創性)を、一人だけ周囲と違ったことをするのは好ましくないとして根本的に嫌う。
彼らは、周囲の他者の真似をすることで、周囲との一体感の持続を確保する。
日本村社会は、周囲と離れて一人ぼっちになるのを恐れる、皆で一緒に群れて行動するのを好む「護送船団」社会である。それは、自分の保身に人一倍気を遣う女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、独自性を好む。彼らは、個人のアイデアに基づく独創性を好む。)
(11)『和合の重視』
「和合、一体感、共感を重視する。」
日本村社会は、集団内で、相互の一体感、共感、調和、和合を好む。「和」の社会、仲良しクラブ社会である。
彼らは、互いに同質で同じ考えを持つことを良しとして、集団の和を乱す個人個人のバラバラで異質な強い自己主張を許さない。
日本村社会は、集団の和を乱す突出した考え、行動の持ち主を、皆で寄って集って袋叩きにして潰そうとしていじめる社会である。
彼らは、集団の存続それ自体がいつの間にか自己目的化し、集団内が喧嘩別れをして割れることを嫌う。
彼らの社会は、互いに、集団の和が保たれる方向へと、自分の行動を合わせる「迎合」「媚」社会である。
彼らは、相互の体温、温もりの感じられる、互いの距離感の無い、親近性のある、親しい相手に対してプライバシーの欠如した対人関係を好む。
彼らは、相互の間で距離を取って、対象となる相手を客観的、冷静に見ようとする科学的な行き方を、相手との関係が冷たいとして、根本的に嫌う。それは、相互の一体感、融合感を重んじる女性的な性格である。
彼らは、揉め事とか、何事も丸く収めようとしがちである。
彼らは、訴訟、裁判を嫌い、なるべく和解しようとする。
彼らは、物事の形状で、円形、丸型、柔軟なクッションを好む。
彼らは、円満解決、大団円を好む。
彼らは、争いごとを好まない丸腰体質である。
女性は、生まれついての(生得的な)集団主義者=collectivist、同調主義者=conformistである。そうした性格は、いずれも、個人主義的な欧米では価値が低いが、日本社会ではメジャーである。
日本の国民性が集団主義となるのは、日本社会で女性が強い証拠である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、意見の対立や訴訟、戦争を厭わない。彼らは、人と意見が違っていて当たり前である。)
(12)『小グループ間の無関心』
「小グループ同士がバラバラ、無関係、無連携、無関心、縦割り、不仲である。」
日本の村人は、互いに一体感の持てる交遊の範囲を個別に狭く限定し、互いに独立した、外に向かって閉じた小さな集団、サークル、派閥(クラス女子高生の生成する仲良しグループとか)を沢山作りたがる。
日本村社会では、学校、会社とかで、メンバーの形成する社会集団が、小さく固まり、個別に小さく互いにバラバラになりやすい。
複数の小さな仲良し集団同士が、互いに閉鎖的、排他的、不仲である。
そのため、各々独立、孤立した個別小集団同士の意思疎通がそのままでは不足になる。
全体集団、全体組織がバラけたままで統合されにくい。全体集団、全体組織が、統制が取れない、互いに無関係で動く状態になってしまいがちである。
中央官庁とかで、より小さなグループのまとまりが、より大きなグループのまとまりより優先される(国益より省益、局あって省無し)。
あるいは、政党で、派閥がそれぞれ独自に勝手に動いて、政党全体のまとまりを欠きがちである。
集団の下位グループが、互いに連携しようとせずに、勝手にバラバラに重複して動いて、その集団や社会全体の利益を損なう、縦割りの弊害が発生しやすい。
日本村社会では、そうした閉鎖的個別小集団間の間を取り持って、相互の意思疎通を図り、何とか互いに一体感を持たせ、全体の統率を持たせることが課題になる。
彼らは、個人ではなく、自分たちのグループが独自と言われるのを好む。
彼らは、個人が周囲からかけ離れて突出するのは好まないが、グループごと突出するのは、存在を強く主張でき、グループのイメージを強くすることにつながり、自己の保身に有利となるので良いとする。
彼らは、他所のグループや国と違う、他に無い独自、独特の文化を持つと言われると喜ぶ。
(VS欧米人(牧畜民):彼らにとって、グループは一時的なもので、個人単位でバラバラ、無関係である。彼らは、自分の利益のために、互いに関心を持ちドライに連携しようとする。)
(13)『被保護への欲求』
「守られたい、頼りたい、養ってもらいたい、甘えたい、寄生したい心理が強い。」
日本の村人は、一人では不安を感じる度合いが強く、保護されたい、守ってもらいたいという気持ちが強い。
彼らは、依存心が強い。
彼らの間には、甘えの心が充満している。
彼らは、官庁や大企業といった、大組織への依頼心、帰属意識、甘えが大きい。
彼らは、一人で自立するのは不安であり、誰かに助けてもらいたがる。強い者になびく。
彼らは、あるいは、誰かに寄生して養ってもらいたがる。「寄らば大樹の陰」ということわざが、この辺の事情を明示している。
彼らが、就職のとき、大きな会社を選びたがるのもこの一例である。
彼らは、ひとりで外部に露出するのが不安であり、アメリカのような強い国に頼ろう、守ってもらおうとする。
彼らは、強いもの、お金のあるものからおこぼれを頂戴しようとする、集り根性が強い(例えば、政府から公共事業費を少しでも多く分配してもらおうとする等)。
日本人の性格は、自己保身に気を遣い、何事も優先して守られる、エスコートされるのを好む女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、自分の身は自分で守る。彼らは、自助を基本とする。)
(14)『権威主義』
「権威主義である。批判、反論を許さない。心が傷つきやすい豆腐メンタルである。」
日本の村人は、権威、ブランドに弱い。
彼らは、権威主義である。
彼らの文化は、媚の文化、迎合の文化である。
彼らは、自らの保身のため、少しでも権威ありそうな、主流派を形成している人、あるいは、大学、病院のような知的権威のある機関に属する教師や医師を、「先生」と呼んで、その後を追従し、ペコペコする。
彼らは、自分も権威ある者の後ろを歩めば、安全であり、威張っていられると考える。
彼らは、あるいは、権威ある人の言う事を聞いていれば、大丈夫、間違いないと考える。
彼らは、自分の身の安全や、自分の判断の正しさを保証してくれる、外部のより大きな存在を求めたがる。
彼らは、自分より強そうな者に対しては、ひたすら媚を売り、ペコペコするが、ちょっと弱そうだと、途端に強気に出て、イヤな仕事の押しつけや、恐喝まがいのことをする。
彼らは、自分を権威付け、高く見せるために、評価の定まったブランド品を進んで身に付けようとする。
彼らは、欧米列強の文物を、権威があるとしてやたらと崇拝する。
彼らは、これを信じておけば間違いない定説とされる学説を、宗教のように信仰し、それに対して批判したり、異を唱えることを認めない。
彼らは、自分を押し倒し、圧倒した強大な存在に対して、進んでその色に染まる。あるいは、盲目的に追従し、お伺いを立てる。
彼らは、先生や先輩とかに対する口答え、批判、反論を、相互の一体感が損なわれ、言われた方の威信に大きな傷が付くとして許さず、絶対服従を強要する。彼らは自分への批判に弱く傷つきやすい豆腐メンタルの持ち主である。それは、自らの保身のため、権威に寄りすがろうとする点、女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、権威に盾付き、批判、反論の自由を求め、行使するのを好む。)
(15)『リスクの回避』
「安全、保身第一である。不安感が強い。退嬰的である。リスク、チャレンジを回避する。独創性が欠如する。」
日本の村人は、安全第一、自己保身第一で、不安を感じる度合いが強く、臆病で退嬰的である。
彼らは、冒険しない。
彼らは、ベンチャーを嫌う。
彼らは、失敗を怖がる、許さない。
彼らは、前例がないと何もできない。
彼らは、独創性が欠如している。
彼らは、例えば、人文社会科学分野では、欧米学説の後追いばかりやっている。
彼らは、既存の学説を乗り越えて、新たな学説を作ろうとする気概に乏しい。
彼らは、既存学説との、同化・一体化の力が強過ぎる。
彼らは、未知の分野はどんな失敗をするか分からないので、怖い、として、手を出したがらない。
彼らは、先頭に立たず、欧米の先駆者の後を追う方が安全である、と考える。
彼らは、危ない、リスキーなこと、未知の新しいことはしない。
彼らは、モルモット(実験台)になるのはいやである。
彼らは、より危険で風当たりの強い一番手を嫌い、より安全で楽な二番手で行こうとする。
彼らは、皆を先んじて率いる必要がある、より大変なリーダーであるより、ただ付いて行くだけで良いフォロワーであろうとする。
彼らは、チャレンジを心の底で嫌う。
日本村社会は、一度失敗すると、敗者復活戦、再チャレンジが難しい。
日本社会は、新卒で大会社とかに入れないと、既卒扱いになって、二度と入ることが出来なくなる仕組みになっている。
日本の科学技術が欧米より常に遅れる、後進性のくびきは、不安の強さ、安全指向、退嬰性、前例指向といった、女性性と関係があり、日本社会で女性が強い証拠である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、安全、保身にこだわらず、リスクに積極的にチャレンジする。彼らは、独創性に富んでいる。)
(16)『前例踏襲指向』
「前例、しきたり、レール偏重である。前例の小改良、磨き上げが得意である。先輩後輩関係がきつい。」
日本の村人は、前例となる知識、ノウハウの急速な学習、消化、吸収に長けている。
日本社会は、明治維新の時とか、欧米の新知識を素早く吸収、学習し、程なく我が物にすることに成功した実績がある。
彼らは、学校や学習塾、予備校とかで、前例となる知識、ノウハウの学習にとかく熱心である。
彼らの社会では、自身への前例、しきたりの蓄積の度合いに応じて上下関係が決まる。
彼らの社会では、前例、しきたりを自身の中に豊富に持っているほど集団や組織の中で上位者になれる。
彼らの間では、年功序列、先輩後輩関係がきつい。
彼らの社会では、集団や組織で、局のような古株が威張っている。
彼らの社会では、新人いじめが当たり前に行われ、いずれの組織においても、新入りの地位が低い。それは、家庭における嫁姑関係(家風習得の度合いの面で、姑が先輩、嫁が後輩、新人)に通じる。
彼らの社会では、前例となる知識や技能を持っている者が、理屈抜きで偉いとされ、一方、若い新人の方が豊富にあると考えられる独創性は評価されない。
安全性を第一と考え、未知の危ない道を通ることを避けて済ませるには、取るべき行動の前例となる経験知識を豊富に積んでいることが求められる。そうした前例としての経験知識は、年功の上の人たちがより多く持っている。
彼らは、既に誰かが先行して成し遂げたオリジナルの前例を吸収、学習して、その小改良を着実に重ね、磨き上げを重ねて、競争力を付けることで、オリジナルを凌駕し、競り勝つこと、打倒することに長けている。
彼らは、人生で、決まったレールの上を進むのを好み、レールから外れることを恐れ、歓迎しない。
そうした性格は、未知の危険を避け、前例のある道のみを行こうとする点、女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、前例、しきたりにこだわらず、積極的に破壊、批判して、自分の力で新しい知見を生み出し、それを普遍的に普及させようとする。)
(17)『後進的、現状維持的』
(17-1)「思考が伝統的、封建的、後進的である。」
(17-2)「無競争、無風、停滞、(既得権益とかの)現状維持が好きである。不変を好む。事なかれ主義である。」
(17-3)「外部からの先進的考えの流入に抵抗するが、いったん突破されると諾々と受容するものの、流入が止むと元に戻る。」
日本の村人は、考え方が伝統的、後進的、遅滞的、封建的である。
彼らの社会では、姑、局のような古株が偉くて、新入りが古株を超えることができない。
彼らは、古い伝統に縛られ、前例やしきたり、現状維持をひたすら重視する。
彼らは、集団内部での内発的な進歩的な新たな試みを危険であるとみなして皆潰してしまう。これは「姑根性」という言葉で表現できる。
彼らは、新参者が古参者を後から追い越す可能性のある競争を嫌い、既存の安寧秩序を守ろうとする。
彼らは、波風が立つのを嫌い、無風、凪、停滞、事なかれを好む。
彼らは、既得権益とかの不変、維持を好む。
彼らは、外来の新しい文化の流入に抵抗しつつ、圧倒、突破されると無条件で受容、追随する。
彼らは、欧米とかの進歩的な文化、制度が外部からやってくることを黒船来襲と見なして、警戒し、攘夷で抵抗する。しかし、
彼らは、外部文化にいざ圧倒、突破されると、手のひらを返したように、その進歩的な考え方にほとんど盲目的に追随し、丸呑みしようとする。
彼らは、iPhoneのように、外部から入ってくる優勢で抵抗しがたい、自らの力では生み出せない、新たで進歩的な考え方、アイデア、製品に、無条件、無批判で我先に追随し、取り入れよう、真似しよう、小改良しようとする。
彼らは、率先して取り入れたこと、導入した結果を、周囲に対して箔付けして自慢する。
外部からの(先進的な)考えが入り込むことに抵抗しつつ、いったん突破されると諾々と受容、丸呑みすることは、男性的な(欧米的)精子に対する女性的な(日本的)卵子の受精関係に似ている(卵子的行動様式)。
しかし、
彼らが、そのように進歩的で新しい、競争的な態度を取るのは、外部から優勢な新しい考えが存在、流入していて、それに対処する必要が生じている間だけに止まる。
彼らは、外部からの新規文化の流入が止まると、元の無風の凪状態、現状維持的、既得権益維持的な気風に戻る。
彼らは、天皇制のように、ずっと不変なもの、永続するものを好む。
彼らは、変化を嫌う。(日本)社会の、(進歩的な欧米社会に比較した)遅滞、封建制の本質は、危険やチャレンジを避けて安全な前例をひたすら守ろうとする女性、母性にある。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、思考が、伝統に囚われず、先進的である。彼らは、競争、変化を好む。彼らは、外部から先進的な考えを当初から積極的に歓迎し、発展させようとする。)
(18)『恥、見栄の重視』
「恥、見栄を重んじる。人付き合いで表裏がある。内部問題を対外的に隠蔽する。綺麗事、美辞麗句を好む。公式、公開の発言の場で沈黙する。」
日本の村人は、自分に対して向けられる他者の視線や評価を非常に気にする「恥の文化」の持ち主である。
彼らは、自分が周囲にどう思われているか盛んに気にして、周囲によく思われよう、上位に思われようとして、いろいろ気を遣ったり、演技をしたりする。
彼らは、八方美人であり、周囲の国にいい印象を与えることに懸命である。
彼らは、周囲から自分がどう思われているか、自分が気に入られているかどうかが気になって仕方がない。
彼らは、自分が周囲に気に入られるように、盛んに媚びたり、いい子ぶったりする。
彼らは、自分の周囲に対する印象をよくするために、やたらと気配りをしたり、外面的な見かけを整えたりすることに忙しい。彼らは、外部に露出した表向きの面と、閉じた身内での裏の面が別々であり、対人関係で表裏がある。
彼らは、面目、体面をとても気にする。
彼らは、常に人の目が気になって仕方がない。
彼らは、他の人に見られているという感じが強い。
彼らは、他人の視線を前提とした見栄張りの行動を行う。それは、「見栄の文化」である。
彼らは、自分が他人にどう見えるかについて自意識過剰である。他人の視線を前提とした化粧や服装チェックは、女性の方がより行う。
彼らは、自分や自分たちのグループが内部に問題を抱えていることを、外部に対して必死になって隠そうとする。
彼らは、問題が無い振りをしようとする。
彼らは、良い格好をしようとする。
彼らは、対外的に良い子でいようとする。
彼らは、「ぶりっ子」をする。
彼らは、自分についての良くない噂が広まる、騒ぎが起きるのを何よりも恐れる。対外的に自分が良く見られたい、受け入れられたいとして、問題を隠すなど自分の印象操作することは、女性の方がより行う。
彼らは、感覚的に美しい快い美辞麗句、スローガンを使うのを好む。
彼らは、大勢がいる中で発言することで、皆の注目を集めてしまう、失笑を買うのが恥ずかしくて、他人の目が気になって発言できない。
彼らは、シャイである。
彼らは、プライベートな小グループの中だと発言できる。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、人目を気にせず、自分の良かれと思うことを恥も外聞も無く堂々と行う。彼らは、セキュリティのために内部プライバシーを重んじる反面、情報のオープンな提示に積極的である。彼らは、公開の場で歯に衣を着せない発言をして物議を醸す。)
R.Benedictが、「菊と刀」の中で唱えた、罪の文化・恥の文化との関連では、
男性は、「罪の性(ジェンダー)」である。彼らは、誰かに見られていなくても、悪いことをしたとして罪悪感を感じ、償いの行動を起こす。男性は周囲の動向とは独立して、独りだけで罪悪感を感じる点、ドライであり、罪の文化(男らしい文化)の基盤をなす。
女性は、「恥の性(ジェンダー)」である。女性は、「赤信号、皆で渡ればこわくない」といったように、罪悪感を感じるかどうかが、周囲の視線の有無や動向に左右される点、ウェットであり、恥の文化(女々しい文化)の基盤をなす。女性は、他者に「見られている」感が強く、他者の視線を前提にした自己アピールである化粧・服装・ファッションを好む。
日本が「恥の文化」に基づく社会となったのは、「恥のジェンダー=女性」が、社会の根幹を支配しているからである。
(19)『気配りの重視』
「配慮、気配りを重視する。遠慮、引きこもりがち、孤立しがちである。」
日本の村人は、周囲の他者に対して、心情的に細やかな配慮、気配りをすることを重視する。
彼らは、周囲に対して温かい思いやりの気持ちを持って接することを重視する。
彼らは、温もりに満ちた社会の実現を目指そうとする。
彼らは、互いに、周囲の他者に迷惑をかけないようにと遠慮して考えるあまり、個人、家族単位で、周囲との交渉を避けて、各々引きこもりがち、孤立しがちになりやすい。
彼らの社会は、社会の統合が弱い。
彼らは、無縁社会を招きやすい。周囲への細やかな気配りは、女性のほうが得意である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、直接的な物言いを好み、配慮、気配りに欠ける。彼らは、遠慮をせず、どんどん物を言う。彼らは、積極的に交渉する。)
(20)『みそぎの重視』
「清潔さを好む。みそぎをする、洗い流す、総取り替えするのを好む。」
日本の村人は、自分の心身を、洗い流して清めるのが好きである。
彼らは、汚れ、穢れを嫌う。
彼らは、清潔、きれい好きである。
彼らは、河川とかで清流を好む。
彼らは、自分の吐く息等が他の人に臭ったりしないかどうかのエチケットにやたらとうるさい。
彼らは、自分の(他人の)汚れ、穢れが他人に(自分に)回らないか、転移、伝染しないか、影響を及ぼさないか、とても気にする。
彼らは、他人に対して、汚れていない、綺麗な、清らかな、良い印象の自分を見せようとして、やたらと自分の髪や身体を洗うのを好む。
彼らは、綺麗な水流に入って心身の汚れ、穢れを洗い落としたつもりになる「みそぎ(禊)」をするのを好む。
彼らは、風呂に入るのを好む。
彼らは、失敗や過去を「水に流して」済まそうとする。
彼らは、汚れのない白装束を、正月の巫女衣装みたいに神事等で着るのを好む。
彼らの考え方は、自分の身体の汚れに対して自意識過剰になって毎朝シャワーやシャンプーを繰り返すのに余念が無い女子中学生と考えが一緒である。
彼らは、互いに(女性的に)自己の保身を図るために、護送船団方式で互いに密集して一体感を持って共同生活することを指向する。
彼らは、そのため、互いに近場の他人の(自分の)身体とかの汚れが自分に(他人に)付かないか、伝染しないか敏感になっている。
彼らは、新しい導入物に感化されやすい。
彼らは、新たに外から圧倒的な力を持って入ってきた、あるいは国内から新機軸を打ち出して成功した新興勢力の文化に社会全体が一瞬のうちに簡単に感化されてしまう。そして、
彼らは、今まで自分たちが大切にしてきたはずの古来の文物を、新しいものと総取り替えで簡単に二束三文で投げ捨ててしまう。
明治時代初期の西欧文物崇拝と廃仏毀釈や、Apple社のiPhone導入がその好例である。
彼らは、新しい権威やカリスマが生み出した、新たな力ある文物に、各自が自分だけ乗り遅れないように必死で追随しようとする。その結果、
彼らの社会では、社会全体が一斉に新たな文物に乗り換えて、古い殻を脱ぎ捨てる現象が起きる。
彼らは、各自が周囲の動向に敏感で、少しでも遅れて仲間はずれになるまいと必死で同調する。
彼らは、また力あるものに我先に順応して我が身の保身を図ろうとする。それらは、いずれも女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、汚れに寛容であり、シャワーの回数が少ない。彼らは、新文物が導入されても、古いよりオリジナルな思想に基づくものは捨てない。彼らは、各自、互いに一人我が道を行くのを許容する。)
(21)『責任の回避』
「責任を回避する。決定、判断を停止、回避、先送りする。無責任である。匿名行動を好む。」
日本の村人は、責任回避、責任転嫁の傾向が強い。
彼らは、自分の取った行動の結果生じる責任を一人で負うのをいやがり、皆で連帯責任にして、一人当たりが負うリスクを軽くしようとする。
「赤信号皆で渡れば怖くない」という格言が流行したり、太平洋戦争の敗戦責任を「一億総懺悔」して取ったつもりになっていることがその現れである。
彼らは、そうすることで失敗の責任を取らされて危ない目に会う(社会的生命を失う)ことを避けることができる。
彼らは、あるいは、物事の決定にできるだけあいまいな玉虫色の態度を取ることで、責任の所在を不明確にして、責任逃れができるように逃げ道を作るのが上手である。あるいは、
彼らは、そもそも責任が生じる意思決定、判断すること自体を回避、停止、保留する。
彼らは、自分からは決断せず、誰かに決めてもらおうとする。
彼らは、他の責任を取れる人に判断を一任して、その判断が下るまで自分からは決定せず、待ちの姿勢を取り、判断対象を体良く無視し続ける。
彼らは、判断を他人に決めさせることで、決めた他人に決定責任を押し付ける。
彼らは、自分から進んで動くと、行動責任を問われるので、自分からは進んで動かず、誰か他の人がモルモットになるのを待つ。
彼らは、自分では責任を取りたくないので、誰か自分の行動に責任を取ってくれる指導者の存在を望む。
彼らは、決定、決断を先送りする。
彼らは、無責任である。
彼らは、自分が取った行動について、後々まで自分がやったという証拠が残って責任追及されるのを避ける。
彼らは、そのため、自分が誰かを、他者に特定されるのを恐れ、匿名でいようとしたがる。
彼らは、証拠が残るのを好まない。
彼らは、SNSとかで、個人情報や実名、顔を出すのを好まない。
彼らは、失敗時、潔く責任を取ろうとせず、責任逃れの言い訳をするのを好む。それは、社会的に、責任を取るのを免除されやすい女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、個人行動基本のため、責任は回避できない。彼らは、決定、判断を急ぐ。彼らは、責任感がある。彼らは、実名行動、顔出しを好む。)
(22)『なつきの重視』
「可愛がり、なつき、情けを重視する。」
日本の村人は、成員が、その中枢に深く入り込んだ所属集団内で、上位者に可愛がられること、上位者になつくことを重視する。
彼らは、旧日本軍将校に見られるように、失敗しても、責任を問われず、仲間内で内輪でなあなあで、もみ消し、穏便に済ませようとする。
彼らは、失敗した当人を冷たく切り捨てることができず、情けをかけようとしたがる。
彼らは、情状酌量で処分が甘くなる。
彼らは、冷徹さを嫌い、情緒的な対応を好む点、女性的である。
彼らは、可愛い部下や生徒に対して、えこひいきをする。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、冷徹な能力主義を貫徹し、失敗に容赦しない。)
(23)『事前合意の重視』
「事前合意を重視する。いったん合意した流れ、方針の変更が困難である。慣性で進もうとする。」
日本の村人は、予め、利害関係者同士で、内密に議論して、落とし所=事前の合意点を決めておくのを好む。
彼らは、関係者への事前の根回し、談合を好む。
彼らに、前もって、事前合意を取らずに、突然新たな話を進めよう、決めようとすると、反発、拒否される。
彼らは、国会とかで、その場その場の即興の公開討議を嫌い、事前の密室での利害関係者を集めた交渉と合意形成を好む。
それは、予め互いの合意、賛成を取り付けておくことで、互いに和合することを好む女性的な性格である。
彼らにとっては、既に、皆で合意、決定した内容、方針や流れを、後から変更する、覆すことが根本的に難しい。
彼らは、太平洋戦争で、戦局が不利になるという分析結果が政府内で後から出ても、既に戦争をやることで首脳部で合意ができていたので、方針を変えることが出来なかった。
彼らは、いったん決めた方針にとって有利な数字合わせを後付けで行う。
彼らは、いったん進むと決めた流れの方向に、不都合が起きても、そのまま慣性の力でずっと進もうとする。
それは、いったん形成した合意による皆の一体感、仲良し状態を後から人為的に壊してしまうのを怖がる女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、リアルタイムの討議による合意形成を好む。彼らは、方針変更をあっけなく大胆に行う。)
(24)『失敗恐怖症』
「プライド(良い格好を重んじる度合い)が高い。失敗恐怖症である。」
日本の村人は、プライドが高い(皆の前で良い格好をしようとする)。
彼らは、失敗して、皆の前で自分のプライドが傷つくのを何よりも恐れる。そうした性格は、英語とかの語学の授業で顕著である。
彼らは、他人が失敗するのを見ると馬鹿にして総攻撃を加えて袋叩きにしたり、陰口を叩いたり、触れ回ったりする。しかし、
彼らは、本当は自分が公衆の面前で失敗するのが怖くて仕方がない。
彼らは、失敗を、誰でもする可能性のある日常的なことと許容することができない。一度失敗すると再び立ち直る機会が社会的に与えられない。
彼らは、失敗者を日頃の鬱憤晴らしの対象として、ひたすら責め立てる。
彼らは、試行錯誤による失敗の繰り返しを避けて、誰か成功した事例はないかとひたすら探し回り、見つかったと見るや、一斉にその真似をする。
彼らは、その成功事例を究極の正解、侵すべからざる信仰対象として、それにひたすら改良の磨きをかける。
彼らは、そこから少しでも外れた者を、エラー、間違いを犯したとして直ちに叱り飛ばす。それは、自らを大切で貴い存在と見なし、自らに少しでも傷が付くのを嫌がる女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、失敗を恐れない。彼らは、自分は有能だというプライドが高い。)
(25)『閉鎖的、排他的』
「閉鎖性、排他性が強い。内外感覚が強い。入試がある。白紙採用を好む。思考が内向きである。閉塞感が強い。対内融通、配慮が効く。自前で済ませようとする。」
日本の村人は、形成する社会集団が閉鎖的、排他的である。
彼らは、集団内と外とを厳格に区別し、ヨソ者に対して門戸を閉ざす。例えば、中央官庁や大企業では、成員の採用の機会は、新規学卒一括採用がほとんどである。こうした組織では、白紙状態でまだどの社会集団の色(しきたり、組織風土など)にも染まっていない若者に対してのみ門戸を開き、本格的な中途採用の道は閉ざされている。
彼らは、純血性を保った自集団(「ウチ」)内で他集団に対抗する形で強固に結束し、内部に縁故(コネ)の糸をはりめぐらす。
彼らの社会は、ヨソ者を入れずに内部だけで強固に結束する鎖国社会である。
彼らは、親しい、付き合い上の安全が保障された身内、内輪だけで固まろうとする。
彼らは、ヨソ者に対してとても冷淡である。
彼らは、オープンさが欠如している。
彼らは、内輪の会話、なれ合いに夢中で、外界について関心が薄い。
彼らは、思考が内向きである。それは、女子中学生、女子高生の仲良し集団が原型である。
彼らは、内輪での仲の良さを外部に向けてアピールする。それと共に、
彼らは、内輪で浮いているメンバーを外部からは分からないように、陰湿にいじめ、差別する。
彼らの社会は、内輪から外れる、村八分にされると、他に行くところが無い社会の仕組みになっている。そこで、彼らは、皆、外されないように必死になって、他の集団メンバーに配慮する。
彼らの社会では、いったん集団に入ると、定年やリストラなどで用済みになるまでその中にずっとい続ける(浮気をしない)ことが要求される。
彼らの社会では、転村の自由が存在しない。村を出ると村への裏切り者され、新たに別の村に入れてもらおうとしても、前の村で対人関係が上手く行かなかったと思われて信用されずに入れてもらえないことがしばしばである。転村回数が増えるほど村人としての評価が低下する。また、村を出てから、しばらくどの村にも属さない空白期間があると、村人としての空気が薄くなって、ただの浮浪人と化したとする見方が強まり、村人としての評価が低下して、転村先が見つかりにくくなる。
彼らは、ヨソ者は自分たちと行動様式が異なり、何を考えているか分からないので安全でないと考える。あるいは、彼らは、ヨソ者は、一緒になると自分の属する集団のしきたりや風紀を乱すことを平気でされるのではないかと不安で、安心できないと考える。
彼らは、中途採用者に対して、いじめを行ったり、新人と同じような屈辱的な扱いを強制する。あるいは、
彼らは、そもそも外部から入ってくる者を、派遣社員のように、一時的、部分的にしか、自分たちの組織にタッチさせず、締め出そうとする。この場合、ヨソ者の許容が自身の保全に悪影響を与えるという女性的な心配が、閉鎖的な風土を生み出す要因となっている。
なお、この閉鎖性は、自分たちの所属する身内集団内部の一体感を保つため、ヨソ者が入るのを防いでいるという点、女性の好きな、他者との一体融合感維持指向に通じるものがある。
彼らの社会では、人々が、あらゆる物事に内と外があると考える、「内外感覚」を持っている。
彼らは、そして、外から内に移行する「入る」という意識(エントランス)を重視する。
彼らは、とにかく何でも入ろう、入れてもらおうとする。「入る」という意識は、相手、対象が閉鎖的な場合にのみ生じるものである。
日本人や女性が、何かと「入る」ことにこだわるのは、社会や集団が閉鎖的であることの現れである(欧米のようにオープンな社会のもとでは、人々の「内外感覚」「入る意識」は弱いと考えられる)。
彼らは、あらゆる物事に、入ることが大変な入試を求める。
彼らにとっては、卵子に例えられる、外部に比べてよりリッチな栄養のある内実を持つ閉鎖空間(公務員、大企業、名門学校等)に何でも良いから入ることが、人生の目的になる。
彼らの社会は、中に入れてもらう(一員になる、溶け込む、一体化する)と、優遇され、リッチな気分を味わえる仕組みになっている。
彼らは、そのように入れたことを周囲に向かって何かと自慢しがちである。
彼らの社会は、白色無垢の者のみ加入を許す。
彼らは、(どこか別の集団に長いこと加入していた)色付きの者の採用を嫌う。
彼らの社会は、嫁入りで白無垢の装束を着たり、会社や官庁で、特定の組織の色の付いていない新卒学生の白色、白紙採用を好む。
彼らの社会では、色の付かない無垢の状態のまま、あるいは今まで付いた色を全てご破算にして(社会的に一旦死んで)、一から所属先の新たな色に染まります、という態度を見せないと、集団(会社、官庁、嫁入り先の家族・・・)の中に新たに入れてもらえない。
彼らは、新入りが、集団の既存の色を乱さないこと、集団の既存の色との調和、融合を重んじる。
彼らは、付いた色の濃いのが先輩で、薄いのが後輩であるとする。
彼らは、集団に居続けるに従って、自らに染み付く色が徐々に濃くなっていく、それに伴って他集団への転出が難しくなっていくと考える。
彼らは、学校の入学試験や、企業、官庁の入社試験のように、部外者が集団に入るために、やたらと厳しい入試を設けたがる。
彼らの社会では、集団の中に入れてもらうのが大変である。ところが、彼らの社会では、厳しい入社試験とかを突破していったん集団の中、ウチに入れてもらうことができると、途端に母の胎内にいるかのような、融通が効く、クッション感のある、柔軟な動きが取れる、温かい、利便性に満ちた、優遇された扱いを受けることが可能になる。
彼らは、役所とかで、親しい身内、内部者に対しては柔軟で融通が利く、配慮に満ちた態度を取り、部外者に対しては、杓子定規で利便性を考慮しない硬直した配慮に欠ける態度を取る。
彼らは、自分の本当の気持ち、意見(本音)は、親しい身内に対してのみ開示する。
彼らは、部外者に対しては、見かけの表面上取り繕った、上辺の気持ち、意見(建前)のみを示す。
彼らの間では、国外や、社外といった、外部に対して関心の薄い、所属グループ内のことに専ら関心が行く、内向き思考が蔓延している。
彼らの社会では、閉塞感が強い。
彼らの社会では、グループの中に閉じこめられている、外に出にくいという感じが強い。
彼らは、人材の調達とか、外部に頼らず、自前で(自分たちのグループ内で)全て揃えよう、済ませようとする。
彼らは、互いに、他グループに任せず、自分たちのグループでやろうとする。その結果、
彼らの社会では、似たような内容の組織やアウトプットが、国とかで、重複して発生、生成しがちである(文部科学省の幼稚園と厚生労働省の保育所とかの二重行政がその例である)。
彼らは、自分たちのグループ以外の他グループをライバルと見なして、頼ろうとせず(互いに閉じているため、頼ることが出来ず)、自分たちのグループ内で自活、自給自足、自己完結しようとする。
彼らは、家電製品や携帯電話とかで、機能とか全部入りのオールインワンの機種を好む。
彼らは、(演習飛行をする米軍機が自分たちの領空を飛ばないと分かった場合とか、)自分たちの領域に侵入してくるもの以外の、外部の動向に対しては、どうなろうと知ったことではないと考え、無関心である。
彼らは、自分の領域、領空を直接侵犯してくる以外の他者、他グループの存在に対して、徹底的に無関心であり冷たい。あるいは、彼らは、税金を、自分たちの会社や家庭から、国とかに支払うと、自分たちの管轄外に拠出されてしまったと考え、その使い道に無関心になる。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、開放的である。彼らは、開かれた空間内にいるため、内と外との区別があまり無い。彼らにとって、転出、転入が日常茶飯事である。彼らは、アウトソーシング、買収と売却が得意である。)
(26)『受動的』
「受動性が強い。行動主体が非明確である。主体性が欠如している。他者のリードを求める。静止、不動状態が好きである。」
日本の村人は、取る行動が受動的である。受け身である。
彼らは、自分からは積極的に行動を起こさず、意思決定を先送りし、周囲からの働きかけや外国からの外圧があって初めて「仕方なく」行動を起こす。
彼らは、そうして、周りに引きずられる形で意思決定をする。
彼らは、自主性に欠ける。
彼らは、退嬰的である。
彼らは、「お不動さん」の信仰に見られるように、静止、不動状態を好む。
彼らは、行動を起こした原因が自分ではないとして、責任逃れをする。男女の恋愛において、結婚のプロポーズやセックスへのアプローチといったリードを、ほとんど男性側が行うのと根が同じである。
彼らは、主体性が無い。
彼らの文化は、待ちの文化である。
彼らは、自分からは動かず、誰かにやらせよう、やってもらおうとする。
彼らは、誰が行為責任を負うかが明確になってしまうのを避けるため、行為主体をはっきりさせない。
彼らは、主語を省略して表現する。
彼らは、主体をはっきりさせないことで、周囲との一体同調の強さ、心理的な凪、和合、静止状態の心地よさをアピールする。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、能動的である。彼らは、行動主体が明確で、主体性がある。彼らは、他者を進んでリードする。彼らは動きまわるのが好きである。)
(27)『相互監視の重視』
「相互監視、告口を好む。他人の噂話を広めるのを好む。プライバシーが欠如している。」
日本の村人は、相互監視が行き届いている。
彼らは、互いに、周囲の他者が何をしているか、チェックするのに忙しい。
彼らは、プライバシーが無い。
彼らは、他人について、噂を広めたり、陰口を叩くのが好きである。あるいは、
彼らは、権威者や当局に対して、密告をするのを好む(学校の教室で「先生、○○さんが隠れて○○しています!」と告げ口するとか)。かつ、
彼らは、自分は、そうした噂や陰口の対象にならないように、絶えず保身に気をつかい、安全地帯にいようとする。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、互いに他者が何をやっているかに無関心である。彼らは、自分のことに忙しい。彼らは、プライバシーを重んじる。)
(28)『間接的対応』
「対応が間接的、ソフト、遠まわしである。」
日本の村人は、対応が間接的であり、陰湿である。
彼らは、相互の一体感、和合をできるだけ維持するため、他人に対して批判をする際にも、直接的な、明らさまな表現を嫌う。
彼らは、意見を口に出さず、相手に直接直言せず、以心伝心で伝えようとする。
彼らは、表現をソフトにしようとして、間接的な遠回しの表現を好む。
彼らは、そうした遠回しの表現の真意に気づかない他者を、鈍いとして陰口を叩いて批判し、無視したり、陰で他人に分かりにくい形でいろいろ寄ってたかっていじめたり、意地悪する。
彼らは、ソフトだが、真綿で首を閉めるような陰険なやり方をする。
彼らは、相手に直接言わず、間接的に陰湿なやり方で相手の足を引っ張る。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、対応や物言いが直接的であり、ハードである。彼らは、直接進言する。)
(29)『局所的(ローカル)』
「対応が近視眼的、場当たり的、個別、局所的である。」
日本の村人は、対応が、近視眼的、場当たり的である。
彼らは、自分にとって身近な目先の場所や、時間的に目の前の事柄に注意が専ら行き届く。
彼らは、ずっと先の未来や、世界全体規模をコントロールしようとする長期的、遠大な計画性や視点に欠けている。
彼らは、自分のいる周囲の動向のみに注意を払う。
彼らは、自分のところの狭い個別の事例、利害に囚われて、物の見方が局所的になりやすい。
彼らは、「~の説は、自分のところとは違うので、正しくない」という言説がまかり通る(「~の説は、全体の○パーセントが当てはまらない、あるいは論理的に~なので、正しくない」というふうになりにくい)。
彼らは、自己中心で周囲が見えない。
彼らは、全体を鳥瞰して判断するのが苦手である。
彼らは、道路の用地買収とか、全体の利益を考えず、個別の利害をゴリ押しする。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、対応が長期的、計画的、普遍的である。)
(30)『感情的』
「対応がヒステリック、情緒的、非科学的である。感情的に反応する。」
日本の村人は、取る対応が、ヒステリックで感情的、情緒的である。
彼らは、相手からの刺激に対して、冷静に分析する事ができない。そして
彼らは、思わずキーッとなって集団全体で感情的に激昂し、前後の見境がなくなって、予想外の飛んでもない行動に出る(太平洋戦争時の真珠湾攻撃とか)。
彼らは、相手との一体感の有無、好き嫌いを目安にして行動する。
彼らは、相手に対して、客観的に突き放す形で向き合う事ができず、感情的な好き嫌いをむき出しにして対応する(太平洋戦争時のアメリカ、イギリスへの鬼畜米英呼ばわりとか)。
彼らは、対象との一体感を重んじ、対象と距離を置いて物事を見ることができず、物の見方が非客観的である。
彼らは、冷静、客観的に物事や状況を捉える科学を嫌い、何事も気合を入れて努力して行えば不可能なことは無いとする、精神論、根性論、努力万能論を振り回すのを好む。
彼らは、教師とかの熱血指導を好む。
彼らは、学説のような、本来冷静に突き放して評価すべき対象に対する主観的、情緒的な思い入れ、こだわりを強く持ち続け、他人に批判されると感情的に反応する。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、対応が冷静、客観的、科学的である。)
(31)『小スケール』
「スケールが小さい。高精細である。」
日本の村人は、やることのスケールが小さい。
彼らは、小さな精密部品の設計、組み立てのような、微調整や、神経の細やかさが必要な、高精細、高い正確性を要求される事項に、世界で並ぶ者のない強みを発揮する。
彼らの社会は、重箱の隅をつつくような、細かい視点が、大学の入学試験とかで要求され、それに適応した若者を次々と生み出している。
彼らは、小さくか弱い柔らかい「かわいい」、それでいて色気のある「萌える」存在を、アニメやコミック等で次々生み出すのが得意である。
彼らは、天地を駆け巡る壮大なスペクタクル叙事詩を著述するのが苦手であり、俳句のように、小さく凝縮した箱庭のような小さい世界を著述するのを好む。小さい可愛いものは、女性がより好み、生み出すのを得意とする。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、スケールが大局的で、細かいところには神経が行き届かず、大雑把になってしまう。)
(32)『高密度指向』
「高密度、詰め込み、集中を好む。」
日本の村人は、高密度、詰め込み、集中を好む。
彼らは、個人のスペースの空きをできるだけ詰めようとする。
彼らは、ゆとりを嫌う。
彼らは、満員電車を当たり前のものと考える。
彼らは、重箱に寿司や料理を詰め込むのを好む。
彼らは、教育で、子供への知識の詰め込みを重視する。
彼らは、東京を中心とする首都圏への一極集中、密集を好む。女性の方が男性に比べて、過密状態をより好むとされている。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、低密度で、空間的に余裕、自由がある、空きがあるのを好む。彼らは、分散、拡散を好む。)
(33)『厳格さの重視』
「厳格、正確である。」
日本の村人は、厳密、厳格、厳正さを好む。
日本の社会、政府や企業は、医薬品の許認可とか、国際基準に比べてやたらと厳しい(厳密、厳格な)検問や検査数値設定を行いがちである。
彼らは、より安全、安心になるためには、より厳しい審査をしなければならないと考える。ちょっとでもリスクがありそうだとやたらと不安になる。あるいは、検査数値設定が甘かったということで、いざリスクが発生した時の責任を取りたくないと思う。それは、誤り、落ち度、突っ込みどころ、隙、減点箇所が無いことを過剰に求める、女性的な責任回避の心理がなせるものであると言える。それは、嫁のすることにうるさく、厳しくチェックを入れて嫁を叱る姑と根が同じである。それは、姑根性と呼べる。
彼らは、正確さを好む。
彼らは、時間に対して、やたらと正確である。特に会社、学校の始業時刻に間に合うことを厳守しようとし、1分でも遅刻すると強く非難する。
彼らは、定時性、定刻性を重視する。
彼らの社会では、鉄道が、ラッシュ時でも定時発車が当たり前のことのように行われている。あるいは、首都圏の路線バスが、1秒も狂わない電波時計の導入で、発車が、発車時刻の00秒ジャストに行われるのが普通になっている。もしくは、テレビ放送のニュース番組とか、秒刻みのスケジュールで番組が構成されている。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、コンピュータCPU設計のような論理的な、理屈面での正確さ、厳密さにこだわる。それは、父性的な正確さ、厳密さの指向である。)
(34)『減点主義』
「正解、正論、完璧、無難、無傷指向、減点主義である。」
日本の村人は、物事には正解がある、完璧、完全な状態があることを最初から自明視する。
彼らは、正解と見なされることのみ行おうとする。
彼らは、正しい、批判されにくい正論を主張する。
彼らは、間違うことを恐れる。
彼らは、完全であること、テストの点数とかで百点満点であることを目指そうとする。
彼らは、自分に傷、瑕疵が付くことを恐れ、嫌がる。
彼らは、人や物事の評価を、百点満点の完璧、無傷な状態から、どの位下方に離れているか、差分があるかで判断しようとする。
彼らは、人や物事の評価を、百点満点からの引き算で行う減点主義で動く。
彼らは、無難であること、欠点が無いことを重んじる。
彼らは、評価対象に目立った長所があっても、同時に見逃せない欠点、粗があると、直ぐに否定的な評価を下す。
彼らは、完璧な状態に少しでも近づくことを目指し、ひたすら修行する。
彼らは、物事に失敗したり、正解が直ぐに見いだせない状況になると、道に迷ったとして、途端に怖くなって混乱する。そして、それより先には進もうとせず、元来た道をすぐ後戻りしようとする。
彼らは、正解とされる定説を習得すべき前例と見なして、その奥義習得にひたすら励む。それは、ひたすら正しい、安全が保証された道のみを、奥義を求めて極めようとする、自己保身第一の女性的な心理が元になっている。
彼らは、自分の心や、自分の持ち物に少しでも傷が付くのを恐れる。
彼らは、自分の買ったスマートフォンの液晶とか、傷が付かないように、保護ケース、保護シートとかで、万全、完璧に対策しようとする。
彼らは、マイカーとか、無傷でピカピカに洗い上げ、磨き上げるのを好む。
彼らは、自分に心の傷が付かないように、自分の心に傷を付ける可能性のある他者との交流、対人関係を避け、引きこもりがちになる。それは、自分自身や自分の大切なものを傷つけるという、自らの保身に取ってマイナスとなる行為を嫌う女性的な心理である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、他人の長所を短所よりも積極的に見出し評価し、活用を図ろうとする加点主義である。彼らは、難点が見つかっても、長所がそれを上回れば採用する。)
(35)『管理統制主義』
「一体行動、一斉行動を好む。管理主義、統制主義である。牽制、長時間拘束を好む。休むことを罪悪視する。自由行動を許さない。」
日本村社会では、集団とかの所属者が、一体となって動くことを要求される。
彼らの社会では、集団内での個人の自由で勝手な行動が許されない。
彼らは、教育とかで、成員の管理、統制、締め付け、縛りを行うのが好きである。
彼らは、個人が自由に行動しようとするのを、自分勝手であると決めつけ、束縛、制限しようとする。
彼らは、集団から外れた行動をしたことを個人責任として、行動した本人が助けを求めても、勝手な行動をしたとして冷たく突き放し、助けない。
彼らは、集団に属さない個人行動、独自行動による成果を、格下扱いして認めない。個人がどこかの集団に所属して、その所属集団を通して出した成果でないと認めない。あるいは、一定の権威ある集団による編集を通した内容でないと認めない。
彼らは、学校とか、団体行動での統率、一斉に揃った行動をするのを好み、みんなでお揃いの制服、バッジを着用するのを好む。
彼らは、役所とかで、相手の行動を自由に許可、禁止できる許認可権限を得たり、行使するのを好む。
彼らは、周囲の他者が思い通り自由に振る舞うのを妬み、他者の振る舞いを規制、牽制、長時間拘束して不自由にしようとしたがる。休むことを悪いことだと考え、長時間労働、長時間残業を美化する。一人だけ仕事を早退することを、皆が頑張っているのに一人だけ帰るのはけしからんとして非難する。
彼らは、自由が与えられることを、どう行動すればよいか分からず途方に暮れるとして怖がる。
彼らは、不自由であること、他人に指示されること、他人に行動を合わせることを心の奥底で望んでいる。これは、奴隷根性である。
これは、統制されることで集団メンバー間に生まれる一体感を大切にする点、周囲との一体感を重んじる女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、バラバラの個人行動を好む。彼らは、他人による管理統制を制限する。彼らは、自由行動を許す。)
(36)『従順さの重視』
「上意下達を好む。従順である。」
日本の村人は、上意下達を好む。
彼らは、上位者、下位者間の一体感を重んじる。
彼らは、上位者、下位者間の一体感を損なう、下位者による上位者への言挙げを嫌う。
彼らは、上位者、上官の言うことを、異を唱えずに素直に聞く人間、上官の命令をそのまま誠心誠意、忠実、誠実に守る人間、上官の指示を守って動く人間、上官の意を自主的に汲んで動く人間を好む。
彼らは、上位者に素直に従おう、従順であろうとする。上位者を受け入れよう、上位者に反逆しないように行動しようとする。上位者に忖度しようとする。強者になびく。
彼らは、国とかの上位者の決めた規則を忠実に守ろうとする。それは、上位者、下位者間に生まれる一体感を大切にする点、相互の一体感を重んじる女性的な性格である。
彼らは、上位者に反抗する人たち、あるいは過去に反抗したことのある人たち(日本のキリスト教徒、日本共産党党員、労働組合組員、等)のことを警戒して、差別したり、自分たちの仲間に入れようとしない。
彼らの社会的態度は、理想は「上懐下愛」(上位者に懐き、下位者を可愛がる)だが、実際は「上媚下虐」(上位者に媚を売り、下位者を虐げる)になりやすい。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、反逆、反抗、異を唱えること、自分流を好む。)
(37)『総花的』
「総花式、オールインワン、万能、八方美人を好む。」
日本の村人は、総花式を好む。
彼らは、偏りや、特定面でのみ優れているのを好まない。
彼らは、何でも出来る万能さを好む。
彼らは、製品とか、あらゆる面で平均以上に優れているのを好む。
彼らは、製品の機能がオールインワンで、機能が万遍なく入っているのを好む。
彼らは、八方美人で、誰からも好かれるのを好む。
彼らは、医薬品とかの製造、販売で、どんな症状にも効くことを指向して、例えば、相反する働きを持つ制酸剤と消化剤を一緒に混ぜた胃腸薬を製造、販売する。それは、女性が、絵を描く時の色遣いで、特定の色に偏らず、万遍なく使おうとするのと根が一緒である。
彼らは、全てを満たそうとする。
彼らは、何でもこなせるジェネラリストを、役所とかで重んじる。
彼らは、つぶしの効かないスペシャリストを嫌う。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、製品とかが特定機能に優れていて、ライバルがいないのを好む。彼らは、鋭い判断が出来るスペシャリストを好む。)
(38)『突出の回避』
「突出を回避する。目立たないようにする。標準、普通を指向する。」
日本の村人は、ネットとかで、目立ったことをした他者について、すぐその身元を特定し、プライバシーを暴露することに情熱を注ぐ。
彼らは、逆に、突出した目立った行動を取るのを極力控えようとする。
彼らは、そうすることで、自身が外部に目立って危険な目に合いやすくなったり、自身のプライバシーが暴露されたりすることにつながること、あるいは周囲との協調、和合を乱すことを避ける。
彼らは、普通、標準でいようとする。
彼らは、オタクのように、特殊扱いされるのを嫌い、一般人(一般ピープル)でいようとする。
彼らは、一人だけ目立つのを嫌う。
彼らは、目立ちたい時は、宴会の隠し芸とかで周囲の他人と一緒、同時に目立とうとする。
彼らは、何か一人で行動を起こすと何かと突出して目立ち、叩かれるので、自分からは何も行動を起こさず、無為でいようとする。
彼らは、誰か他の人が勇気を出して行動すると、それに便乗する。
それは、突出することで集団から浮くことを恐れる女性的な性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、突出しようとする。彼らは、強烈な個性で目立とうとする。彼らは、特異性を求める。)
(39)『中心指向』
「中心、周辺を区別、差別したがる。皆で中央、中心、都心を指向する。」
日本村社会は、(ウェットな液体分子群のように、)中心、中央の概念、中心形成の度合いが強い。
彼らの社会では、中心、中央と周辺、地方との差が大きい。(ドライな気体分子群のような欧米では、バラバラ、散り散りで中心、中央の形成が弱い。中心があまり無い。中心と周辺の差があまり無い。)日本の村人は、皆が一カ所に集まろうとする。
彼らは、中心部に集中して存在しようとする。
彼らの社会では、都心が過密状態になりやすい。
彼らの社会では、通勤とかで、皆が都心に集中するオフィスを一斉に目指そうとする。それは、皆で集まった方が、護送船団と同じで保身に有利である、中心に近いほど外部環境露出が少なくて保身に有利であるとする女性的な考え方である。
彼らは、自分が皆の中心に位置して、皆の注目を集めたいと考える。
彼らは、中心、周辺視が強い。つまり、
彼らは、中心、中央と周辺とを区別、差別する考えが強い。日本では、首都東京と、地方との格差が大きい。都心に住んでいる人とか、中華思想を持ちやすい。中華思想は、自分たちが世界の中心である、自分たちが世界の中心にいて偉い、中心部が偉くて周辺部は劣っているとするものである。
彼らは、日本軍による沖縄戦対応のように、中心、本土を守るために、周辺の人々を捨石扱いする。
彼らは、自分や自国が、より大きなグループ、世界の中心、中枢、中央になろうとする。
彼らは、中枢で周囲から温かく守られると共に、周辺に向けて命令できるのを好む。
彼らは、中心に集中する。
彼らは、中央、中心を目指そうとする。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、あまねくグローバルに普遍的に拡散して分布しようとする。彼ら、父性、ドライな人、個体は、自分や自国の文化や指令の、中心の不定な、普遍、グローバルな感染、拡張、拡大、広がりを目指す。彼らは、気体の空気やガスのように、あまねく世界中に広がる、普及する、拡散することを指向する。
彼らは、空気に乗って伝播、伝染するインフルエンザのウィルスと同じ行動を取る。)
(40)『マイナス思考』
「他人の陰口、悪口を好む。他人の欠点探しや粗探し、足を引っ張るのを好む。思考、やり口がネガティブ、マイナス、陰湿、陰険である。」
日本の村人は、他人のマイナス面に関心が行き、他人の欠点や失敗、粗探しをひたすら行おうとする。それは、他人に対して駄目出しをすることを好む「駄目出し社会」である。
彼らは、他人が自分の上を行くことに我慢が出来ず、足を引っ張るためのネガティブ要素を探すのに夢中になる。
彼らは、学校や会社で、自分が気に入らない、かつ、その場にいない他人の陰口を叩く、悪い噂話を広めるのを好む。
彼らは、そうすることで、当人のマイナス評価を周囲に広め、足を引っ張り、当人に大きなダメージを与えようとする。
彼らは、思考、やり口がネガティブ、マイナス、減点主義である。
彼らは、宴席とかで、その場にいない人の悪口を言い合って盛り上がり、その場に居合わせた一同が、悪口を叩かれた不在者をダシにして一致団結しようとする。
彼らは、一方、当人がその場に居合わせる時は、面と向かっては当たり障りの無いことを言ってごまかしたり、見かけ上褒め合ったり、迎合したりして、裏表が激しい。
彼らは、気に入らない相手を直接攻撃せず、周囲から、からめ手で間接的に足を引っ張る。
彼らは、やり口が陰湿、陰険である。それは、相手の欠点、粗ばかりを探そうとする、減点、マイナス思考の姑根性のような性格である。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、他人の長所を見出し積極的に褒めて、勇気づける。彼らは、ライバルと正々堂々と勝負する。)
(41)『努力、苦労、労働の神聖視』
「努力し、苦労することを良しとする。楽をすること、休むことを罪悪視する。」
日本の村人は、(周囲の他人が)地道に努力し、苦労すること、たくさん働くことを尊ぶ。労働することを重視する。
彼らは、自分の周囲で仕事を省力化して楽をする人、さっさと効率的に働いて直ぐに仕事を終らせて帰ろうとする人に嫉妬して、非難したり、強引に別の仕事を割り振ったり、残業させようとする。
彼らは、休むこと、手を抜くことを罪悪視する。体調が悪くても仕事を休まないことを賞賛する。とにかくひたすら働くことを重視し、周囲に強要する。長時間労働、長時間残業を肯定する。
彼らは、仕事を効率化して成果を上げることより、仕事で努力、苦労をいとわない姿勢、心がけそのものを重視する。
彼らは、楽をしていると、仕事をしていないとみなされ、嫉妬されて足を引っ張られるので、必死で苦労している振りをする。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、労働を生きていくための必要悪とみなし、少しでも仕事を効率化して楽をしよう、休もうとする。バカンスを楽しもうとする。)
(42)『真実、内実の隠蔽』
「真実を隠蔽する。相手から急所、真実を突かれると無反応状態になるか、相手を無視する。」
日本の村人は、本当のこと、真実、内実を、知られると騒ぎになると考えて、隠蔽して語ろうとしない。
彼らは、真実からかけ離れた、当り障りのない、表面的に都合の良い、綺麗事のみを強調した建前の議論でお茶を濁そうとする。
彼らは、リアルな真実を語ることが、社会として出来ない。太平洋戦争時の大本営発表や、福島第一原発事故の際の情報隠蔽、精神障害者の子供を持った親による子供の病気の対外隠蔽が好例である。陰湿な女社会の内実を隠蔽してきた女性たちと根が一緒である。
彼らは、公式、公開の場で発言せずに沈黙する。あるいは、
彼らは、建前上の、無難な、その場の大勢に迎合した良い子、ぶりっ子の発言のみ行う。
彼らが積極的に自由に発言するのは、ある程度非公式、非公開の場に限られる。
彼らは、衆目の監視の中で発言すると、発言内容に公の責任が生じるため、保身のため、何も発言しないで、黙って含み笑いしているのみである。あるいは、
彼らは、親しくない人が大勢いる中で自由な発言をするのに抵抗がある。
彼らは、親しい内輪の中でないと自由に発言できない。
彼らは、相手が急所、真実を突いてきたとき、そこが急所、真実であることを気づかれないために無反応だったり、わざと取り繕ってお茶を濁したり、茶化したり、ことさら無視したり、話題を関係ないものに変えようとする。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、自分個人の独立に忠実であるために社会の真実を積極的に語ろうとする。彼らは、自分の急所を突かれると直ちに猛反撃を開始する。)
(43)『多数派指向』
「多数派に属そうとする。与党に投票する。大きな組織に属そうとする。数の力に頼ろうとする。少数派を叩く。」
日本の村人は、多数派に就こう、属そうとする。メジャーな存在が大好きである。常に自分の所属する集団の大きさに注意が向いて、少数派だと力が弱く差別されると考える。
彼らは、選挙で多数派の与党に投票しようとする。彼らは、自分が与党の一員となることで、より多数の人と同じ仲間に属することによる安心感を心の中で求める。マイナーな少数派に属することを不安がる。彼らは野党を少数派と見なして見下す。
彼らは、就職とかで大きな組織、会社に属そうとする。「寄らば大樹の陰」ということわざに沿って行動する。
彼らは、何事も団体行動なので、団体の大きさ、数の力をとかく重視する。彼らは、数の力に任せて少数派を叩く、弾圧する。
(VS欧米人(牧畜民):彼らは、個々人が独立しているため、自分が少数派になる可能性を常に計算し、少数派の意見をある程度尊重しようとする。)