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4月8日

4月8日は父方の祖父の命日。
7歳年下の弟の高校の入学式の日だった。
自宅前で弟が真新しい制服を着て写真を撮っていたのを憶えている。

1週間前、祖父が危篤だと知らせを受けて家族5人埼玉から佐世保まで向かった。この時佐世保は桜が満開で病院近くの公園は眩しかった。不謹慎だとは思ったが、珍しく家族5人が揃い、満開の桜を目にして幸せだと感じてしまった。
しかし、病室のカーテンを開けた時そんな気持ちも一瞬にして引き潮のように遠のいた。
記憶にあったいつでも身なりが整っていた祖父はそこにはいなかった。

祖父は私を溺愛していた。私には溺愛されていた自覚があった。会うと必ず隣においでと私を手招きし、目尻を下げていた。私を呼ぶ声がいつも弾んでいた。それは20代を迎えても変わらなかった。

カーテンを開けて1分ももたずに後ずさりして病室を後にした。「おじいちゃん」と呼びたいと思ったが声が出てこなかった。祖父が私を呼ぶこともなかった。
病室から「痰を引きますね。」と看護師の声が聞こえ、同時に苦しむ祖父の咳の音が響いてきた。聞きたい声は聞こえてこず、聞きたくない音が空気を震わせていた。自分の耳を信じたくなかった。

佐世保の街は賑わっていた。デパートの前にテレビが置かれ大勢の人が足を止めていた。
わああっという歓声が上がった。春の甲子園の決勝だった。長崎の清峰高校が優勝した。
私は祖父のもとを離れて人々の興奮の渦の中に1人でいた。耳の奥に残る聞きたくない音が掻き消され、賑やかな声が私には心地よく感じた。しかし次第に人は散り散り、騒がしさが遠のいた。行き交う人に混ざり、ここに立ち止まっているわけにはいかないよなあと心の中で他人ごとのように呟いた。行くべき場所、戻る場所は私には一つしかない。わかっているからこそ足が遠のいた。遠のいたつもりだったが、気づけば病院の前にいる自分に笑った。変わらず桜は満開で美しかった。

祖父がいる病室のカーテン越しから機械のモーター音がする。カーテンを開けるのが怖い。同時に苦しい声が聞こえてくるのではないか。カーテンを開けられずただ耳をすませた。祖父の声はしない。咳込む様子もない。その代わりに聞こえてきたのは「よかったね、お父さん」と言う祖母の声。モーターが回る音、ジャリジャリという音は止まらず続いていた。

父が自分の父の髭を剃っていた。父の見たことのない優しい表情を初めて目にした。いや、初めてではない。幼い頃、私を、弟を見つめていた表情と同じだった。髭剃りで髭を剃る音が不思議と心地よかった。
「私は女だから、髭剃りの感覚が分からなくて怖くてね。あなたが来てくれてよかったわ。一番して欲しかったのよ、髭剃り。」
と祖母は父に言った。身なりをいつも整えていた祖父。痩せて表情もなかったが、髭を剃ってもらい祖父らしい姿になっていた。
今なら声を掛けられる気がする。

「おじいちゃん、私だよ、埼玉から来たよ。」

布団の中の祖父の手を探り握った。目も合わないが、祖父は私の手を握り返した。祖父の手を最後に握ったのはいつだったか。幼い頃に手を繋いで散歩をした以来だろうか。もしかしたら、いつか握手をして別れたかもしれない。朧げな私の記憶が悲しかった。
相変わらず祖父の声は聞けない。出したい声が出せない、その現実を受け入れるしかなかった。
祖父が私の手を握ってくれている間、私はなんと声を掛けたのか憶えていない。この大事な瞬間をなぜ憶えていられなかったのか。どのくらいの時間祖父の手を握っていただろう。時間の感覚も憶えていない。ただただ祖父の手を握っていた、その記憶だけが残っている。
そして「そろそろ行こうか」と父が言った。
「おじいちゃん、私たち帰るね」私はきっとそのように話しかけたのだろう。その時、祖父の手に力が入った。ギュウっと力強く私の手を握った。帰って欲しくないということなのだろうか、それとも…。未だに、そしてこれから先もその意味を知ることはない。祖父の手に力が込められたのは事実だ。私の手を離そうとしない。手を強く握られ私は泣いた。祖父の、最後の、私への挨拶だと信じたくなくて泣いた。最後かもしれないと言うことを振り払いたくて泣いた。離したくない手も離さなければならない。一本一本祖父の指をそっと私の手から剥がした。祖父の表情は変わらなかった。
「おじいちゃん、ありがとう。また来るから。」
そう声を掛けて涙を拭いながら病室を出た。

4月8日、午後。仕事中の私の携帯に着信があった。
「また」は来なかった。
本来であれば通夜に告別式に出るためにまた佐世保へ行き、祖父の亡骸と対面する「また」になっただろう。
しかし、それは叶わなかった。
叶わなかった事情はここでは話さない。
「また」が叶わなかった悔しさと悲しさと寂しさ、申し訳なさ。そして祖父への感謝を手紙にしたためた。何を書いたか、何枚になったか、どんな便箋だったのか、それもまた覚えていない。手紙を父と母に託し、棺に入れてもらうようお願いした。
父と母は再び祖父、そして祖母の元へ向かった。

告別式が終わった後、母から電話がかかってきた。自分の父を亡くした父は通夜も告別式も気丈に振る舞っていたと教えてくれた。

そして告別式で私が書いた手紙を、式場の方が参列者の前で代読してくれたとも教えてくれた。
一度も涙を見せなかった父が初めてそこで涙を流したと母が言った。
私はそれを聞いて、父が祖父の髭を剃っていた姿を思い出した。祖父を見る優しい眼差しが真っ先に浮かんだ。丁寧にシェーバーで髭を剃る父の手も。そしてあの時の音も。今も思う、あのモーター音とジャリジャリと鳴る音は、美しい響きだった。

数年後、私は看護師になった。
祖父が生きていたとき、最後に会ったとき、私は看護師になるなんて夢にも思わなかった。病院で祖父と面会したとき、聞きたくない、見たくない、なんて恐ろしいことをするんだと思っていた痰の吸引をすることになるとは思わなかった。
そして、父が祖父にしていたように男性患者さんの髭剃りも行うようになった。
患者さんの吸引をするとき、ふと祖父を思い出す。そして髭を剃るとき、祖父と父を思い出す。

祖父の13回忌を迎えた。
新型コロナの影響で、私はまた祖父のもとへ会いに行くことが叶わなかった。
祖父は私が看護師になったことをどう思うだろうか。訊きたいが祖父の声は聞こえない。
ただ答えはわかっている。
父が私が看護師になったことを密かに喜んでいること、自慢に思っていることを知っているからだ。
祖父もきっと同じように思ってくれているだろう。親子だから。


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