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進路を決める時 

体験随筆……2015年10月3日記 随筆+α集『脱皮』より

 「今度の模試の成績、すごく良かったなー。」
英語のT先生が、授業中にみんなの前で私を褒めて下さった。高校3年も2学期後半のこと。受験合否をうらなう重要なテストで、マークシートではなく全てが記述式の模試だった。

 私はT先生に、厳しくて近寄りがたいイメージを持っていたので、突然のことに戸惑いうつむいた。
「特に国語はすごいな。学年4位だ。国語が出来るってのは、全ての教科に…………」
と先生の話は続く。眼に涙がたまってきて、顔を上げられない。英語の教科書に涙が落ちた。静かな教室で、みんなが私の方を見ている気がする。私は大きく眼を見開いて、たまる涙を乾かそうとした。

 都城西高校の国立文系特別クラスで、全員が大学進学を目指す中、私だけが就職と決まっていた。そのことは担任の先生以外だれも知らない。
 学力も十分なのに進学希望が叶わない身の上に、情けなさ、やるせなさが襲ってきた。ふだんから英語の授業で積極性を見せない地味な私を、取りたてて褒めて下さっているのに、素直に喜べず悲しくなってしまい、先生に申しわけなく思った。

 高校3年生になった5月、奨学金説明会に出て書類を持ち帰った夜のこと、私は母に泣いて頼まれた。
「大学には行かないでくれ。諦めてくれ。」
父はギャンブル依存症の気があり、金銭的な問題を起こしては、親族一同に助けられてきた。仕事は真面目にやり、収入もそこそこあるのだが、何年か周期でボンと借金をこさえて居なくなる……を繰り返していたのだ。

 私は将来、漠然とだが、中学校の国語教師か出版関係の仕事に就けたらいいなと思っていた。が、家族のために諦める、と泣いて頼まれたその晩に決めた。大学の4年間、きっと父はもたないだろう。いや、2年もあやしい。何かが起こった時、弟や妹は大丈夫だろうか。同じ西高校1年生の弟は、科学者になる夢を持っている。進学させねばならない。もし浪人することにでもなれば、あの母親のこと、弟にも諦めろと言いかねない。私が稼いでいれば、弟を大学にやれる……。心を決めてしまえば楽になった。

 担任のM先生は、我が家に何度も訪れ、
「娘さんに、ぜひ進学をさせてあげて下さい。」
と説得を試みてくださった。その頃父はちょうど失業中で、進学断念のかっこうの理由となり、ギャンブル依存症の家族がかかえる、未来への不安と恐怖について、先生に語らずにすんだ。

 私は先生に自ら約束を申し出た。
「クラスのみんなが受験勉強を頑張っているから、その気持ちを削いでしまわないよう、私も課外授業を受けて、同じように過ごします。」と。
卓球部を続けながら、早朝と夕刻の課外授業を全部受け、入試直前の〝元旦登校〟も出席した。自宅ではのんびり過ごしていたが、廊下に貼り出される上位成績者リストから、落ちることはなかった。
 共通一次試験も平均点以上を取れたので一応満足している。二次試験は、宮崎銀行の新人研修と重なり受けられなかった。なまじ、大学に合格でもしていたら、よりつらいだろうから、それで良かったと思っている。

 私の未来予測は的中した。2年後の私の20歳の誕生日、父は蒸発していて、居所が分からない状態だった。銀行から帰宅すると、サラ金からひっきりなしにかかる電話に、毎日母が応対している。弟は高校3年生、大学受験の大事な夏、ストレスから体調を崩した。
 私は、張り詰めた緊張感からか、その時期、仕事でミスをすることがほとんどなかった。計算が合わずに遅くまで原因探し、という残業がないので早めに退社でき、弟と妹の分までおやつを沢山買い込んで帰宅していた。お菓子を食べてホッとするような、ささやかな時間が、私たちには必要だと思っていたのだ。

 この件も、父の親族一同が財産を分け清算という形で片付けてくれた。一番大変だったのは母だと思う。翌年弟は無事大学に進学し、その後、大阪の化学薬品会社の仕事に就く。弟の化学者の夢は叶えられた―と私は思っている。妹は、母の苦労は理解しているようだが、姉と兄のことをどう感じていたのだろう。

 1999年、父が65歳で他界した。遺書はなかったが、私は父からの内なる声を聞いたような気がした。
「真由美、人生はけして長くはないぞ。やりたい事があるなら、やったら良い。」と。
 その年の晩秋、市立図書館3階の文章教室に私は来ていた。以前から興味を持ち、誘われてはいたものの、自分のことは後回しにするいつもの癖で、踏み出せないでいたのだった。
 その4年後には、印刷会社の校正の仕事にも就いた。40歳近くになってから始めるような仕事は、本当に好きなことでないと続かないと思う。本が好きで活字中毒気味の私にはぴったりの仕事だった。

 私の国語の世界は、文章教室に始まり、小倉厳雄先生の導きで、都城文化誌『霧』の編集校正へと進んでいく。この経験を礎に、本作りをサポートする「本活工房」を2015年に創業するに至った。
 もうひとつ、「やりたい事があるなら、やったら良い」で続けているのが、子ども会育成会という教育分野のボランティア。この活動が、現在5年目となる「宮崎県社会教育委員」にも繋がっている。

 中学時代の私を振り返ってみると、教育を受ける身でありながら、教育問題に関心を持ち、関連する新聞記事をスクラップしていた時期があった。また、小説を書く同級生に感想を述べ、原稿をホチキスで綴じ、表紙にイラストを描いて本の形にしてあげたこともある。

 人生過去に戻ってどこからやり直したいか、と問われれば、高校3年生のあの時だ。「中学の国語教師か、出版関係の仕事」が夢だった頃。しかし、当時はやむなく諦めたが、あれから30年以上経って、私はようやく、夢見た仕事にいくぶんか近い事をやれていると思う。

2022年9月発行の拙著  随筆+α集『脱皮』に収載 


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