声
24歳から25歳にかけて私はフリーターで販売のアルバイトをしていた。仕事は様々だった。朝から仕事をする早番と、午後からの出勤で遅番があった。休みは1年の中で元旦しかない。薄給かつ準社員という微妙な立場。毎日毎日先輩やら上司やらに監視されて、気が抜けない。仕事はそういうものだ。仕事とはそういうものだ。言い聞かせては出勤して、商品の荷受けや陳列をして、レジ番のときはレジ打ちをした。お客様にお叱りを受けることは勿論あった。私は変わった苗字ゆえ、いつか名指しでクレームを受けるのではと震えていた。
店長に呼ばれた。レジ裏のスペースにけして大きくはない店長のデスクがあった。彼は眉間にシワを寄せていた。
「もっと責任もって仕事しろ。学生の方がよっぽど仕事ができる」
店長の通りの良い声が大きく響いた。申し訳ございません、と小さな声で謝罪するしかなかった。生きててごめんなさいくらいの気持ちで謝罪するしかなかった。私はゴミなのか。人間扱いすらされないのだろうか。その後は先輩に些細なことで怒鳴られて、仕事の不備がないか入念に確認させられてクタクタの雑巾になった気分で退勤した。あんなところ、腰掛けのつもりだから。無責任ではあるけど20代半ばでもフリーターなんてばかみたいだと思ってやっていたし、仕事を確実にナメていた。どうにか正社員への転職がしたくて経歴のために大手のメーカー販売職で準社員になったにすぎなかったが、生半可な気持ちで入社したのはバカだった。
「こんなはずじゃなかったのになあ」
退勤後に寄った三軒茶屋駅の側にあるラーメン屋でため息をつく。ラーメンは熱々の湯気をたて、鶏白湯のスープはキラキラ輝いて見える。レンゲでスープをすくって飲むと温かい気持ちになった。相変わらずおいしい。毎日毎日嫌なことばかりだけれど幸せな瞬間がないわけではない。おいしいなあ、と心で呟きながら私は麺を啜った。
誰にも認められないと不満を垂れる日々は続く。こんな生活いつまで続くのだろう。お客様の前ではニコニコ笑顔。スマイルは0円だし、当たり前。店長の高らかな"いらっしゃいませ"が聞こえると身体が震えた。背筋を伸ばし、お客様への挨拶をした。
仕事のスケジュールは社員が決めていた。社員含めバイトやパートもスケジュールを見て動くだけのシステムになっている。
路面にある店なので入り口に立ってお客様への挨拶をする仕事があった。苦手だったけれど店長や先輩の目から少し離れて仕事できるから気は楽だ。ぞろぞろと入店してくるお客様に圧倒されつついらっしゃいませの挨拶をする。店頭には緑に生い茂った観葉植物が陳列されていた。グリーンは割と人気だった。あまり頻繁に水をあげなくて良いことやサイズ感が小さくインテリアに最適だからだ。時々店員も水をやる仕事があった。店頭でのスケジュールは終わり、1階から地下に降りた。次はレジ担当だったのでレジをこなさなければならなかった。平日の夕方。いつもより混んでいた。アンラッキーだなあ、と思ったが後輩に代わってレジ打ちを始める。メンツは最悪だ。嫌いなやつばかり。ていうか好きなやつなんていましたっけ。特に嫌いな男性の先輩がいた。仕事ができるかどうかは別として威圧的で、人によってコロコロ態度を変えるし、明らかに私は嫌な態度を取られた。隣でレジ打ちをするその人を気にせず冷静にレジ打ちをする。気もそぞろでいたら梱包の仕事をしてくれる後輩たちに申し訳ない。
「ありがとうございました」
私と後輩のアルバイトとが揃って言った。最近入ってきた大学生の女の子のアルバイトだった。比較的和やかに会話を交わせる子だが、たまにしか来なかったので掛け持ちでもしているのかなと推測した。業務量や責任の重さに比べて時給はイマイチだよなあ、確かにと頭に愚痴を浮かべていたら商品カゴを持った女性がレジ前に来たのでまたいらっしゃいませとお客様に笑顔を向けた。
ある日だった。レジをいつものようにこなしていたら複数人いる客の中でこんなことを言う人がいた。
「あなた、いい声ね」
驚きながらありがとうございます、と言おうとしたが彼女はそれだけ言って去っていった。不思議な人だ、と思ったが嬉しかった。声を褒められるなんて。高校で元放送部だった私は特に。アナウンサーだとか声優だとかは目指してなかったけれども社会に出て褒められることがあるなんてなかなかなかったから。そして、この不思議なことは再び起こるのだ。ちょうど半年くらい経った頃だ。また見覚えのある女性客がこう言ったのだ。
「あなた、いい声ね」
あの人だ。私はありがとうございますと呟いた。また言いそびれてしまったからだ。黒髪のポニーテール、個性的でお洒落な風貌だった。彼女はなぜ、そんなことを言ったのか。今も分からないがふと思い出すことがある。辛かったフリーター時代の中で唯一光り輝いた言葉な気がして。ありがとうございました。とにかく、それしか言えませんがありがとうございました。救われたのだ。彼女の言葉に。