「ノルウェイの森」を探して
いつも通りチャイムが鳴る。退屈な授業が終わりを告げる。私たちは解放された!!と叫び出したかのように周りの生徒が騒ぎ始める。私は窓際の席でグラウンドを眺めている。空は青く澄み渡っていて、私の憂鬱は加速した。
高3の夏休みはあっという間に過ぎ、部活をしている生徒は大会の最後で引退していた。私は帰宅部で何も所属していないのでそれには無関係だったが、迫り来る受験にただただ焦りは感じた。私は私立文系の受験コースのクラスにいた。数学が特別苦手で点数がいつも赤点だったのでそうせざるを得なかった。しかし、クラスには馴染みやすかった。なぜかわからないが優しい輪の中にいるようだった。これは私にとって新鮮な感覚であった。"学校=馴染めない場所"の図式は初めて崩れてこのクラスになってからは毎日が楽しかった。
特に女子生徒は何名か仲のいい生徒がいた。その中に特に私を気にかけてくれる存在がいた。みんなは彼女を村田さんと読んだ。彼女はクラスでも飛び抜けて頭が良く、なぜ私文に来たかも不思議がられるほどの秀才だった。村田さんは私をよくりったんというあだ名で呼んだ。私の名前の、頭文字をとって。
10月下旬のある日、高校から一番近い私立図書館にいると村田さんに遭遇した。彼女の声はなんとなくクセがあった。ハスキーというか、かすれているというか。けれども彼女は女の子らしい見た目で髪は少し茶色に染めたロングにしていた。スカートは短めでチャコールグレーのカーディガンにグレーのネクタイ。そのネクタイは私と違いきれいに結ばれている。不器用な私はネクタイを結ぶのが下手でよくクラスの女子が直してくれていた。村田さんもよく気がついて優しい女の子の一人だった。周りに優しくてクラスに自然と馴染み、私にも友達として接してくれる彼女に憧れていた。
「りったんじゃん。今から図書館?」
「本を借りようと思って」
「ふーん、あたしおすすめあるよ」
そう言って、小さな文庫本をスクール鞄から出した。私の知らない本だった。
「村上春樹だよ」
そう言われて思い出した。古典購読の授業のときに河北先生が勧めていたような気がする。
「この前ノルウェイの森読んだ」
「ごめんなさい、村上春樹は読んだことないんだ」
「そうなんだ、最近返したから文庫本あるかな。借りたら?結構面白いよ」
そう言って彼女は手を振りながら立ち去った。
ノルウェイの森。携帯電話で咄嗟に調べると村上春樹の一番有名な作品だった。そういえば河北先生はミーハーな生徒に合わせ最近のトレンドの現代日本文学を紹介してくるタイプの先生だった。彼は人気の国語科教師だし、いつも授業が面白いと評判で陶酔している生徒も多かった。村田さんも河北先生の授業に熱心に耳を傾けていた。そもそも彼女は河北先生以外の授業にも熱心に見えたが。
私は図書館で村上春樹を探すことにした。図書館にいて、好きな人とたまたま同じ本を手に取るというロマンスに憧れていた私は本を選ぶ時それを想像することが多かったが、今日は浮かばない。村上春樹を必死に探し見つけ出すことに集中した。それは村田さんともっと仲良くなりたいと思う気持ちからだった。こんな内気な自分でも彼女と話して笑い合えたら。そういう願いかあった。
村上春樹のあるあたりをとうとう見つけ「ノルウェイの森」を探すと、運良く文庫本があった。私はそれを借りることにした。自宅で温かい飲み物を飲みながらソファでゆっくり読もうと思っていた。
自宅に帰ると、誰も家族は帰っていない。うちは共働きの家庭だった。その状態のうちはよかったが、今最悪の状態と言えた。父が勤めていた銀行を辞めて脱サラ、企業失敗、両親の仲はかなりの亀裂が走っていた。経済的困難にも直面した。高校の学費の支払いや私の進路に影響が出た。三者面談でも担任に大学に行くか聞かれたばかりだ。うちの高校は自称進と一般的に呼ばれているが、県内では優秀な生徒が集まる進学校という扱いで大学進学しない人は珍しいのだ。つまり、進学しない者は落ちこぼれか経済的困難者かというところだった。家庭の事情は私の心に暗い影を落とした。母方の祖父が亡くなってからというもの、父はやりたい放題だったし、母は死に物狂いで働いていたので家にいなかった。妹は何とか母親の親戚の助けで学費や新しい制服や部活動費をまかない、同じ高校に通っていた。今日は帰宅して荒れた部屋で一人、暗い気持ちになるのが嫌で図書館にいたのだ。帰りたくなかった。リビングに移動してソファにスクールかばんを置いた。泣き出しそうにならないように家族写真や祖父の生前の写真から目を背ける。
ああ。村田さんに「ノルウェイの森」を教えてもらったんだったな、と思い、本を開いたけれども集中して読めなかった。
「だめだ…」
私はソファに深く腰掛けたまま泣いた。村田さんにはもちろん他の友達にも相談できない苦しみを一人抱えて。
数日後、また村田さんと話す機会があった。席替えで彼女の後ろに座ることになったからだ。彼女は頻繁に話しかけてくるようになっていた。予習のノートを見せてくれたり、勉強を教えてもらったりもした。あるとき、教室のベランダで村田さんがこう言った。
「あたしさ、国立しか大学行けないんだ。親に言われた。反対押し切って私文来たけど許されなかった」
「そっか」
「もはや、センター試験受けるのすらやる気ない」
「私もセンターは…」
「大学行かないかも。法学部狙ってたけど。高校出て働こうかな」
彼女は伸びをする。私は黙ったままだ。
「ノルウェイの森、どうだった?」
「よく分からなかった。海外文学の前知識がないと理解しかねるというか」
「ああいうのはフィーリングで楽しむんだよ。面白いね、りったんは」
村田さんは笑った。村田さんが好きなものをもっと知りたいと思う。それから村田さんが抱えていた不安も知りたい。だけど深掘りしてはならない気がして尋ねることはしなかった。村田さんと話した記憶で一番強く残ってるのはこの会話だと思う。
程なくして私たちは高校を卒業した。卒業式の日に村田さんがいた。彼女はそっと私にだけ教えてくれた。検察の事務になってから検察官を目指す、と。
その後彼女から連絡はない。ただ願う。私のことまだ覚えていますか?あなたはあなたの願いを叶えましたか?