見出し画像

自閉症と告げられた私の記憶〜人生の意味、とは〜

「記憶というのは悪いものほど残るんですよ」

静かにそう告げられた。

「忘れろ、とか思い出すな、とか言われても思い出すのが脳の機能ですからね」

先生はそうとも言った。静かに穏やかにやってきた絶望感。
昔、韓国かどこかの映画で記憶障害のひとの映画がなかったか。
私は瞬時にそう思い出した。

「思い出して、つらくて、繰り返し泣いてしまいます」

そう言った私に先生はもうそれは軽いPTSDのようなものでしょう、とぼそっと言った。


私の人生ってなに?何のためにあるの?その問いかけ何回もしてきた。死のうとする前、辛いことがあったとき。私自身が濡れたボロ雑巾として汚れた水を含み悪臭を放ってるかのような仕打ちしか受けてないような錯覚に陥ったこともあった。不貞腐れて自暴自棄になり、何度も自分に刃を向けた私自身の記憶をここに記しておこう。

私は、32歳。女。(理穂という仮名をここでは使います)
ただの人生病んでるヤツと捉えられるだけならどんなによかったか。普通とかよくわからないけど歪な人生を歩んできた。"壮絶な"とかゴシップ記事みたいに簡単にまとめられるような壮絶な人生ってなくてひとの人生って基本歪なものと私は捉えているのだが、やはり世の中には"普通"を押し付ける人がいて、「あなたは普通じゃない」を何回か言われたタイミングはあった。普通かどうかは別として悔しかった。

上司に言われたら、"結局のところあんたは私を認めないのかよ"となり、いじめられて"理穂ちゃんってなんか変"と言われたら"ああ始まったそれだよそれ"と、そういう受け取り方をしていた。周りには悲しくて泣いてると勘違いされていたが、私は悔しかったのだ。
私は歪んだ人間だ。

"どうしてお前らなんかに私の気持ちがわかる、無能でバカのくせに、私より劣ってるくせに"

私は、プライドが高い。そして悔し泣きしてばかりの人間だ。
先生には全てを話してはいない。そして先生にどう見えてるかわからないが、私はそうした人生の記録を自ら作り、先生の初診のときにそれを参照しながら自分のことを話した。
心療内科は何件か変えていた。最初の心療内科で診断名が統合失調症とつけられたものの、親が不審がっていた。自殺企図により私はそのうち入退院を繰り返した。心療内科を変えた方がいいという周りの意見もあり、今の先生に出会ったのだが、一つ決定的に大きな出来事があった。それは、入院したある病院で行ったWAISという心理テストの結果だった。それで否定されたのはまず統合失調症だった。じゃあ前職の出勤時に見えた幻覚は?聞こえた幻聴は?となるが、どうもストレス性障害という位置付け。私は精神疾患ではない、と言われた。

"自閉症スペクトクラム…"

診断結果を告げられて絶句した。そして入院当時の担当医に説明されて腑に落ちるものがいろいろとあった。最初の心療内科は家族が幻聴や幻覚があるようだと強く訴えたので、医者は統合失調症と判断したのだろうが違うとその担当医ははっきり言った。

「理穂さんは自閉症スペクトクラムです。幻聴や幻覚はストレス性のものと思われます。自殺企図、希死念慮は二次障害の抑うつ症状と思われます。今後の治療方針としては……」

点と点が繋がるとはこういう感覚なのだと思った。幼稚園児の頃から受けていたいじめ。いつも自分に自信がなく、暗い学生生活は社会人になっても変にまとわりついた。就活での挫折は大きかった。どうして、人生の舵取りはこうも大変なのかと汗水垂らして仕事のことしか考えられず、休みの日はただただ死んだように眠る。
WAISは一種の答えをくれたが、私の人生がよくなるようにするのは私自身という事実は重くのしかかった。実際のところ社会生活をする面では弊害が大きいのだ。私の場合感情の起伏が激しく勤怠も安定しない可能性があってなかなか社会復帰へのハードルが高いと感じる。感情の起伏を生むのはいつだって悪い記憶だ、冒頭に書いたように悪い記憶ほど頭には残る。ただ歩いてるだけで男子生徒に腕をつねられたとか、のろまとバカにされたとか。書いたらキリがないので書かないが、悪い記憶に縛られて毎回毎回苦しむのだ。繰り返し自殺企図をしたのもそうだ。たまに私の両親が健在で妹と仲が良くて彼氏がいて、という事実を目の当たりにした人が"なんで死にたいの?"と素朴な疑問を投げかける。例えば警察官、の方とか。死にたいのは、己の人生がぜんぶ嫌になって消えたくなるときだ。最近はそんなことないのだが、ただ私になんであなたか死にたいかわからないと言われてしまうと混乱する。死にたい気持ち、抱いたことないんですか?それならいいですね、と捻くれたことを言ってしまいそう。

「先生、悪い記憶を思い出して感情の起伏が激しいときどうしたらいいんでしょうか」

「それは薬に頼りゆっくりするのが一番だね」

先生は答えた。少なくともこの先生に出会ったおかげでいい兆しが見えてきたのは間違いない。私は先生を信頼している。親が住んでいた地域中の心療内科を調べてかなりの評判だった先生で発達障害専門、というのもあるし、薬の知識やアメリカ仕込みの精神医学知識もかなり凄い人なのだ。先生なら私に寄り添ってくれると思ってからうつの症状はなくなってきた。
少しずつ夢ができた。精神科デイの就労支援プログラムを受けながら育んだものだが仕事がしたい気持ちが生まれたのだ。それは私自身が発達障害当事者となった今、できることを追求した結果なのだが勤務経験のある放課後デイの仕事を少しずつ行うことであった。もちろん生半可な気持ちで就くつもりはないし考えて考え抜いた道のり。夢中になれるものさえあれば、生きるエネルギーが湧いてくるんじゃないかと、信じてその仕事を目標に精神的なリハビリを今は続けるしかない。

いいなと思ったら応援しよう!