"先生"と呼ばれた日々
死のうと思ったことがある。何度かある。私は人生の中で死のうとしたタイミングが訪れたことがあった。
いわゆる希死念慮というものを抱いては、死にたいとか消えたいとか考え、行動に起こしたことがある。大学卒業から今はもう10年経っているのだが、自殺衝動の原因がいつからなのかは分かっていない。新卒での就職もできず、昼夜逆転して家にくすぶっていたとき、私は何者になりたいんだろうとふと考えた。
"このまま何になればいいんだろう"
わからない。わからないからもがき苦しんだ。そのうち実家にただいるのは良くないと思い、近所のイタリアンレストランでアルバイトを始めた。大学時代に塾講師のバイトを短時間しかしたことない私は初めて接客業についたのだった。個人経営の店でオーナーシェフはすぐに私を採用した。
「ふーん、ただのフリーターじゃないってわけだ」
一丁前に履歴書の資格欄には教員免許の文字。とりあえず教員採用試験を目指そうと一旦は決めたものの、不確定であった。民間企業への就活や教育公務員以外の公務員の試験をする選択肢もあったはずだが、就活についてはもう正社員では雇ってもらえないだろうと思い込んでいた。その場で採用となり、レストランのホールスタッフをメインに働いた。出来が悪いのでたまに叱られたが、緩い。代わりにシフトを削られたので、何か教育に直結するバイトを探そうと求人雑誌を読み始めたところ、発達障害児を預かる学童保育施設のアルバイト求人を見つけた。そちらもすぐ面接を受けて採用され、イタリアンレストランのシフトよりも多く臨時指導員の仕事をしていた。こうしてフリーター生活が当たり前になっていったが、もちろん不安はあった。教員採用試験の勉強は自力ではなかなか捗らず、アルバイトでも仕事の壁にぶつかることも多く、自分はどうしたらいいんだろうという気持ちになった。このとき関わっていたひとに失礼だが、どうにもそのときは人生を無駄にしているような潰しているような感覚で、正社員になれなかった自分は親不孝とさえ思っていた。でも、就活をきちんとしなかった自分が悪いので面倒だが、何か就職の糸口がないかと大学の就職課を訪ねたりもした。この辺りだろうか。私が自分自身を非力な人間と嘆きはじめたのは。
そのうち23歳で中学の臨時任用教員になるという転機が訪れる。振り返るといいことではなかった。人生の歯車はちょっとずつ狂い始めていたのだ。
人間を信じてないようで信じていた。信じることが悪いことなのかというと、悪いことではないが。性善説をまともに信じすぎたのか。
「もうちょっとずるくならないと」
そう言ったのは私の先輩教員Eだった。中3の学年主任かつ私の指導を担当していた。出来の悪い私が彼の足を引っ張っていたのは明白で生徒にもそれがバレていたのは私としても悔しいことだった。この人の才能が欲しい、と思っていた。でも、この教員が早期退職に追い込まれるなんて思ってもいなかった。はっきり言って勤務校は荒れていた。特に3年は。一番荒れているクラスの担任は先輩教員のEだったのだ。
「もっとずるく…なれないよ」
職員室で隠れて泣いていた私。だけど先輩教員Eも周りの教員もそれを助ける時間はない。精一杯なのだ、みんな。授業の休み時間すら仕事をしない人間はいなかった。教育現場とはもうやそういう環境だった。私も睡眠時間を削らないと仕事が全く追いつかず、倒れそうだった。
ある日だ、決定的に人生の中で私が衝撃を受けた日。ホワイトボードにEが欠席となっていたのだ。しかも副校長から「しばらくお休みされます」と発表があった。私はなぜだか泣きそうになった。側にいながら教員Eの辛さに気付けなかったこと。それどころかミスで足を引っ張ってしまったこと。顔面麻痺になったらしいよ、と誰かが言った。PTA総会も他の教員たちも教員Eに責任を押し付けて"私たちは最善を尽くしていた"という顔でいたのが一番許せなかった。"教員Eの姿に憧れて、あの人のようになってみたい"と思っていたのに。どんな噂をされようと少なくとも私にとっては一緒に仕事をするなかで憧れる一人だったのだ。絶望感が凄かった。教員Eのようなベテランでも追い込まれて立場をなくし、精神的に異常をきたす環境に今自分はいるのだと。さらに学年末に流れた教員Eの早期退職の噂は"先生"と呼ばれるのが心苦しいくらい、無力感のすごい毎日で死にたいとすら思っていた私を限界にした。
"私のせいだ、ただでさえ苦しいのに私が足を引っ張りさらに苦しくしてしまった"
と思った。
それから日が経ち、私も学校を辞めた。一度副校長に臨時任用教員の継続を打診され特に問題もなかったようなので続ける返事をしたが、取り消した。というか泣きついた。何度か苦しくなったとき相談をしていたので副校長は私の状況を察していた。「もう…だめか…」と穏やかに言うだけで責めはしなかった。思えば抑うつがあった気はする。しかし、辞めたところで私の抑うつは解決しない。人生の歯車というやつは確実に狂っていった。
辞めた後、しばらくして自分が副担任をしていたクラスの生徒から手紙が一通届いた。封を開けて読むと涙が止まらなかった。自分が担当していた教科の係担当の生徒からだったのだ。
"先生は私たちのせいで来なくなってしまった""教員じゃない仕事をしたとしても頑張って欲しい"ときれいな字が書かれていて尚辛かった。これからどうしようか、人生の長い冬がやってくるだろうと覚悟をさせられた。手紙はそっと見えないところにしまってしまった。ありかは知っているが繰り返し読むことはしない。なんとなくぐしゃりと心を潰された気分になるからだ。
見ないふりして前に進みたかった。しかしそんな都合のいい状況は訪れない。それを知る由もなく、私はコンビニで購入した履歴書に日付を書いていた。