星読みスピカ
クローゼットの中に入っているくすんだ青のスカーフ。毛糸の淡い黄色い花がついていて可愛らしいそのスカーフをくれた人とはしばらく会っていない。
彼女、望月沙穂さんと出会ったのは初めての入院のときだった。ODで死のうとして救急車で運ばれて一時的に大学病院に入院したあと、別の病院の閉鎖病棟に本格的に入院することになった私は閉鎖病棟ということばに怯えながら食事の席についた。病院のルールではみんなで食事を摂るらしい。同じテーブルの患者に看護師さんが挨拶をしてくれる。
「今日から入る佐倉さん、よろしくね」
静かに席に着くと目線を感じた。それは左隣のテーブルからだった。そちらを見ると化粧っ気のない浅黒い肌にメガネをかけた女性が食事をしていた。それが、沙穂さんだった。
それから入院して一週間はあまり周りと口を聞かなかった。誰とも話したくないと思っていた。部屋で静かに泣いた。私はこんなところに来たくなかった。なぜ死ねなかったのか。それを思うといくらでも泣けた。食事の時間は音楽で知らされる。タイタニックのテーマが流れた。私は沈みゆく船の中にいるんだ、と憂鬱になっていた。重い腰をベッドからあげて、多目的ルームに向かう。テーブルが並んでいて私は自分の席に座らなければいけない。見渡すと一人女性が座っている。メガネで誰だかわかった。私は席について何故だか彼女に話しかけてみたいと思った。
「あの、今日のメニュー見ましたか?メニュー表がどこにあるかわからなくて」
「クリームシチューだったかな。私は鶏肉が食べられないから代わりに海老とかが入ってるかも」
「そうですか、ありがとう。あの、お名前教えてくれませんか」
「望月沙穂」
「望月さん」
「うん、やっと話しかけてくれたー!ずっと誰とも話してなかったよね。調子悪いのかなと思った」
「慣れてなかったから…。私は佐倉です」
話した感じ親しくなれそうだと思う感触だった。彼女は大人しそうだったし、フィーリングもそんなに悪くない気がした。そのうち、沙穂ちゃんと呼ぶようになった。彼女を知るうち、すごく少女趣味が強くて乙女心を持っている人だとわかった。彼女の好きなものは幅広かった。料理や絵を描くこと、ポエム作りや占い、スピリチュアルまで。
「ねえ、プレアデス星人って私いると思うんだよね」
「プレアデス星人?」
「プレアデス星群ってところに私たちとは違う次元があって人が住んでると思うんだよね」
「そういうの何で知るのー?」
「スピリチュアルな本とかブログとか」
「へぇ」
プレアデス星人か。宇宙の遙彼方にそういった人が住んでいるという仮説は否定できないな、と思った。沙穂ちゃんのスピリチュアルな話はいささか怪しかったが、その思考や表現が興味深かったので話を聞きに多目的ルームでよく話していた。
「こういうスピリチュアルなことって夢あるよね!"星読みのスピカ"っていうブログがあるんだけど見る?プレアデス星群のことはそこで知ったんだー。URL教えられるよ」
「うん、教えてもらおうかな。LINE交換するのとかどう?」
看護師に聞こえないよう小声で返す。
「じゃあ、病棟から院内外出したときに交換しよ」
約束ができた。沙穂ちゃんのスピリチュアル話はともかく他の話もしていた。プライベートな話を私たちはかなり共有するまでの仲になっていた。
「沙穂ちゃんをイメージして塗り絵をしたの」
ある日私は持参していた塗り絵本のページを見せた。鮮やかなグリーン、渋いグリーン、淡いグリーン。複雑に入り組んだ曼荼羅紋様にそれらの色を塗っておいたのだ。
「私って緑なの?」
「そよ風とか、自然の緑だよ」
「ありがとう。嬉しい」
「切り離せないからあげられないや。退院したら連絡取って渡してもいい?」
「いいよ」
沙穂ちゃんはとびきり明るい声で言った。LINEの交換はすでに済ませた後だった。彼女はそのあと神妙な面持ちで話し始めた。
「ねえ、相談があるんだけど…」
それはこういった話だ。
沙穂ちゃんは瀬戸内海の島で生まれて実家はそこにあるのだそうだ。関西の専門学校に通うときに家を出たのだが、どうやらそのときに幻聴幻覚の症状を自覚したらしい。そして両親に助けを求めたが噂になったら困る、妄想に違いないと言われて今の病院の系列の病院に入院していたのだそうだ。そして私が来るより早く数年前から入退院を繰り返している。そんな沙穂ちゃんに初恋の人が出来た。沙穂ちゃんが退院時に通っていた精神科デイの心理相談員だという。
「少しあちらからも好意を感じたんだよね」
沙穂ちゃんは複雑そうに言った。私は心理相談員だから優しくしたんじゃないか、と言いかけてやめた。これは彼女が言って欲しい言葉ではない。
「何か言われたの?」
「澤村さん、あ、澤村さんって言ったんだけどその人に"澤村さんお付き合いして結婚したいとか思う人はいないんですか?"って話の流れで言ってしまったの」
「うん」
「そしたら、"結婚したいですねーそういう人がいたら"って言ったのね。勘違いかもしれないけどなんかこっちを見て言われた気がして…」
「なかなか思わせぶりだ」
思ってないことを言った。これで惚れたと思われたら相手も迷惑じゃないか。向こうは仕事として沙穂ちゃんに接してるだけだ。
「うーん、あなたには魅力がありますから…とかも言われて。元々いい感じの人だと思ってたけどそういうこと言われたら気になって」
「そっか、その人今はどこにいるの?」
「転職してからしばらくして結婚したって風の噂で聞いた。恋人なんていないって言ってたのに」
私は拍子抜けしてしまった。相手はかつての心理相談員で既婚者。どう考えても新しい恋を見つけた方がいいというのが私の判断だった。沙穂ちゃんはなんというかすっぴんでも堀が深く瞳が綺麗で切り揃えた黒髪はなんとなくクレオパトラみたいなのだ。純真で一途で美しい。年齢よりずっとずっと若く見えるし、新しく彼氏を作ることだって難しくないと思うが。
「結婚しちゃったのはさらにひどいね」
「ひどいよ…私は好きだったのに」
「沙穂ちゃん…」
私は意を決して言った。
「沙穂ちゃん、あのね…新しい人見つけたほうがいいよ。私、沙穂ちゃんのためにもその方がいいと思う」
沙穂ちゃんは落胆したように見えた。
「いいの…私はずっと好きなままでいればいいから…一生新しい恋人はつくらないの…」
一途だな、と思った。でも頑なにそんなことが言わせるその男も悪い気がしてきた。沙穂ちゃんが気の毒だ。
「実は連絡先の携帯番号知ってる」
「えっ…それでどうするの?」
「連絡したらだめなのかな」
私は黙り込んだ。黙り込んでからやめた方がいいよ、と言った。
一緒にいるうち沙穂ちゃんの病状は私よりずっとずっと重いことがわかった。時折、幻聴がひどくてパニックになるのだ。
「ねえねえ、大丈夫だよね?さっき私のせいで友達みんながいなくなるって言われて…佐倉ちゃんも…大丈夫だよね?」
「大丈夫。いなくならない」
こんなやりとりはしょっちゅうだった。洗面所に一人座り込んで幻聴に耐えてる姿を見て私はナースステーションに駆け込んだこともあった。
「あ、あの!沙穂ちゃん…いえ望月さんが!洗面所に座り込んでて」
「ああ、そのままにしといて」
男性看護師のぞんざいな物言いに頭に来て私は強い口調言った。
「そのままって苦しんでる患者放っておかないでしょ普通!」
奥から女性看護師も出てきて、私を宥める。
「大丈夫、大丈夫だから落ち着いて。幻聴が聞こえても本人は区別がついてるから」
「はい…」
なんだか納得できなかったが、その場を去った。あとで沙穂ちゃんにその話をすると
「佐倉ちゃん私のためにそこまでしたの?そんな友達初めてだよありがとう」
と言われた。己の正義感みたいなものからつい突っ走ってしまっただけなのに。
「ところで星読みのスピカ、読んでくれた?」
「読んだ。プレアデス星群についてだけだけど」
「どうだった?」
「私はプレアデス星群に高次元な次元があってプレアデス星人って人たちがいてもおかしくないと思うよ」
星読みのスピカはざっと読んだだけだったが、興味深い思想や表現がいくつもあった。スピリチュアルブログというから怪しい宗教だと思っていたのだが、そこまでではなかった。そして、毎日毎日沙穂ちゃんと話すうちに私は主治医に退院をすすめられた。沙穂ちゃんより先の退院だった。
「沙穂ちゃん、仲良くしてくれてありがとう。またね」
「うん、またね」
退院の日、病棟の施錠された出入り口のちょっと離れたところから沙穂ちゃんが手を振る。ありがとう、と心で呟く。
迎えにきた家族が退院を祝って家ですき焼きをしてくれた。父が張り切って買ってきた国産の牛肉をふんだんに使ったおいしいすき焼きだった。満腹になり、ふと沙穂ちゃんのことを思い出し、あのブログを開いた。沙穂ちゃんが大宇宙のどこかにプレアデス星人の存在を信じているように私も沙穂ちゃんと繋がりができたと信じている。