「花街の剣の舞姫」第六話

 後宮の妃たちの宮を訪れるのは王としての立派な責務である。春桜宮にばかり行っているように思えるが、しっかりとほかの三宮も巡っているのでなんら問題ない。
 天真爛漫な桜妃。
 落ち着いた物静かな葵妃。
 不思議めいたミステリアスな蘭妃。
 自分にも他人にも厳しい椿妃。
 四者四様で、飽きることのない妃たち。まれに六夫人の元へ通ったりもするが、次期皇后は四妃の中から現れるだろう。
 最も可能性があるのは三日に一度の夜渡りがある葵妃と、それに次ぐ桜妃だ。六夫人であれば、こうしてのんきにお茶を飲んだりはできないだろう。真昼間から裸体を絡めあっていたことだ。こうして優雅にお茶を楽しめるのも、桜妃としての余裕の表れだ。

 近頃は、桜妃の賓客という物珍しい存在に、葵妃よりも夜渡りが多い。喜ばしいことだった。
 外の者を招き入れることに侍女頭の珀怜は難を見せていたが、ひと月も過ごせば自ら進んで桃花のお世話をするほどに。もちろん、第一優先は主君たる桜妃だが。

「彼女は酷く、曖昧な存在だな。まるで地に足がついていない。桜に攫われてしまいそうだ」
「主上もそう思いますのね。私も、気づいたらいなくなってしまうんじゃないかと不安に思うんです」

 春桜宮にて、桃花の評判は上々だ。
 表情が薄く、ぶっきらぼうなところもあるが、礼儀礼節をきちんと弁え、なによりも美味しいものを食べたときに固い表情を緩めて「おいしい」と笑みを綻ばせるのだ。
 薄味を好むようで、最近は侍女たちが茶菓子づくりに没頭しては、桃花にあげているのを見ると、餌付けされている猫のようだった。

「剣舞しか自分にはないと言うんです。口下手で、表情も豊かとはいえないけれど、教えたことは一生懸命にこなすんですのよ。同年代というよりは、人見知りの童を相手にしているような気持になります」
「裁縫を一緒にやっていると聞いたが」
「えぇ、主上に差し上げる手巾を刺繍していましたの。桃花さんも、珀怜に習いながら桃の花を縫っていましたわ。ふふ、きっと、蒼様がお知りになったら欲しがるでしょうね」
「あれは見ていて非常に愉快だ」
「昔からモテるくせに、他人の好意には鈍感でしたから」

 懐かしい。三人で城下町へと繰り出し、買い食いをしたのは良い思い出だ。自分の足で街中を歩くのはとても難しくて、大変疲れた記憶がある。結局最後は、梨李紗がバテて、馬車を呼んで帰ったのだったか。

「失礼いたします。蒼様と桃花様が御戻りになられました」
「そうか。なら四人で茶にしよう」
玲香レイカ、お茶の準備をお願い」

 礼をして給湯室へ向かう侍女を見送り、珀怜は追加の椅子を用意する。

「失礼いたします。主上、桜妃様」
「……失礼します」

 ふたり揃って入ってきたが、どこか様子がおかしい。
 桃花は視線を彷徨わせて落ち着かないし、桃真はいつも通り笑みを浮かべているのに醸し出す空気が凍え切っている。桃花の手首を掴んで離さないのにも目を丸くした。

「どうした。何かあったか?」
「えぇ、ありましたとも。主上、桃花は桜妃様の賓客ですよね? その方を侮辱するということは、桜妃様への侮辱にあたるのではないかと僕は考えるのですが、どうお考えでしょうか?」

 その一言で、何があったのかを察した王は、目元をキツく眇めて「怪我は」と短く問うた。

「ありません。僕が間に入ったので」

 大事になりそうな予感に、桃花は溜め息を吐きたくなるのを無理やり飲み込んだ。

「あの、桃真様がかばってくださったのでわたしは怪我もありませんし、こういうのには慣れているので」

 花街にいれば、やっかみなんて日常茶飯事だ。
 光雅楼の舞姫として人気が出始めてからは嫌がらせも多々あった。客を取られただの、内儀に贔屓されているだの、陰口も多かった。大華の美美や杏杏が良くしてくれるから表立っての嫌がらせはされないが、大華の三人目である遊女は舞踊を得意としていたために、お株を取られたとご立腹で、桃花に対して当たりが強かった。
 気が強くて、自尊心の高い遊女だった。近頃は月に一度客を取れば良い方で、滅多に部屋から出てくることもなくなってしまった。病に臥せただの、気が狂ってしまっただのと、密かに囁かれているが真偽は定かではない。
 彼女の嫌がらせに比べれば、侍女たちの嫌がらせなんて些細なものだ。

「……慣れるものじゃない。慣れちゃいけないことだ。僕が間に入らなかったらどうするつもりだった? 受け身も取らず、甘んじて受け入れるつもりだっただろう」

 眉根を寄せ合わせ、心配を浮かべた瞳に困惑する。
 それの何がいけないのだろう。下手に抵抗しては、相手が逆上して火に油を注ぐことになりかねない。それならば一発ぶたれておいた方が後から言い訳もしやすいだろう。
 先に手を出してきたのはあっちなのだから、正当防衛としてやり返してもいいはずだ。

 おとなしい見目の桃花が、まさかやり返すことを考えているだなんて思いもしない桃真は、純粋に心配をしていた。
 先に披露した天女の舞で、浮世離れした演技を見たのもある。ひらひらと衣装をたなびかせ、瞬きをする間に桜に攫われてしまいそうな舞に、無性に胸の奥を掻きむしりたくなった。

 初めは、ただのお気に入りの舞い手だった。つい毎週通ってしまうくらいには気に入っていた。通っているうちに、彼女の虜になってしまったのだ。遊女とその客という枠を超えた関係になりたいとすら思ってしまった。
 後宮に滞在するとなって、一番喜んだのは自分だろう。主上にくっついて春桜宮を訪れれば桃花がいるのだから。

 武闘会での、あの気の抜けた笑みを見た瞬間、心を鷲掴みにされた。美しい舞姫――僕の舞姫。彼女が傷つくなんて、考えたくなかった。自身の身を顧みない彼女が許せなかった。

「でも、所詮わたしは花街の一遊女でしかありません。後宮にお勤めされる侍女に敵うものでは……」
「違うわ、桃花さん。貴女が遊女であろうとなかろうと、私の大事な大事なお客様なのよ。いくら姫に仕える侍女であろうと、貴女をそしり笑うことなど許されないわ。怪我はなくとも、心が傷つくでしょう。その心の傷は見えない傷なのよ。体の傷は治っても、深く傷ついた心が治ったとは限らないわ」

 椅子から立ち上がった桜妃は、常なら花の笑みを浮かべている顔を翳らせ、桃花のタコだらけの手をそっとすくい上げた。
 ささくれひとつない滑らかな、お姫様の手。剣舞の稽古でできたタコや、節くれだった手が恥ずかしくて、白魚の手から引き抜こうとしたのを力を込めて止められる。きゅ、と柔く握られた手を胸元に引き寄せられて、言葉に詰まった。

「心配くらい、させてください。私のお客様ということは、私の庇護下にあるということです。桃花さんが嫌がらせを受けているなんて、知らなかった私を責めてください。ごめんなさい。申し訳ありません。不自由をさせないと言ったのに、抵抗もできなかったでしょう。もう、そんな目には合わせないので、安心してください」

 キリ、と瞳に強い意志を秘めた桜妃に、曖昧に頷くことしかできなかった。


 春桜宮の東屋に、桜の景色に似合わないピリピリとした空気が張り詰めていた。

「この度は、わたくしの侍女が無礼を働き、大変申し訳ございませんでした」

 卓子についているのは桃花、桜妃、そして六夫人のひとりである燕珠姫。桜妃の後ろには珀怜と玲香が控えており、燕珠姫の後ろにもふたりの侍女が控えている。

「謝る相手が違うのではなくって?」
「ッ……桃花様、不快な思いをさせたこと、心からお詫び申し上げます。桃花様に危害を加えようとした三人は、すでに後宮から追及いたしました」
「追放、って……なにもそこまでしなくても」
「いいえ! わたくしの監督不届きでこのような事態を引き起こしてしまったのです。本当に申し訳ありませんでした」

 燕珠姫は、桜妃のふたつ年下の可愛らしい面立ちの姫君である。入宮したのは半年前で、新参でありながら六夫人の位を与えられていた。高官官吏の孫娘らしく、四妃が四大彩家の姫君でなければ四妃入りしていただろうと言われている。

 桜妃の毅然とした態度に、可哀そうに顔色は白く、握りしめた拳が震えている。
 燕珠姫とは、顔を合わせれば話をするくらいには仲が良かった。初めに声をかけてきたのは燕珠姫から。武闘会での舞が素晴らしかったと、興奮気味にお褒めの言葉をいただいたのだ。散歩をすると高確率で出くわすので、気まぐれに会話をしているうちに仲良くなって、燕珠姫の暮らす棟に招かれてお茶会をすることもあった。

「わたくし、桃花様とお話するのがとても楽しみなんです、後宮にいれば、毎日同じことの繰り返し。でも、こんなことが起こってしまった以上、わたくしと桃花様が会うことを桜妃様はお許しになられないでしょう」

 大きな瞳に溜まった涙が、ぽろりと零れ落ち、裳にシミを作っていく。
 気まずい雰囲気に口を噤み、桜妃を見やった。

「貴女が桃花さんを害さないと言うのであれば、私からは何も言いませんわ」
「も、もちろんです! わたくしは桃花様と仲良くなりたいだけで……! まさか害を成すだなんてあるわけがありません!」
「桃花さんはどうかしら?」
「わたしも、燕珠姫とお話するのは楽しいので、よろしければこのまま仲良くしていただけると嬉しゅうございます」

 小さく息を飲みこんで、頭を下げる。
 桜妃がかすかに嘆息して、肩をすくめた。被害者の桃花が良いと言うのなら、これ以上桜妃の出る幕はない。

 これが最善であったのか、桃花にはわからない。けれど不要な争いやいざこざは避けたかった。
 燕珠姫は素直で、とても良い娘だ。天真爛漫な桜妃とも、妓楼の女子供とも違う。無垢であどけない少女だった。

「私は部屋へ戻るけれど、おふたりはどうなさるのかしら?」
「……桃花様がよろしければ、もう少しだけお話がしとうございます」
「桃花さんは?」
「そう、ですね。まだ時間も早いので、燕珠姫とお話をしてから戻ります」

「そう」と桜妃はどこかつまらなさそうな表情で、「どうぞごゆっくり」と告げて東屋を後にした。

 桜妃の姿が見えなくなり、深く息を吐きだした燕珠姫は相当緊張していたのだろう。頬に赤みが戻り、体の強張りがほぐれていた。
 四妃の中でも人好きのする性格の桜妃だが、今日はずっと厳しい顔つきで、眉間にシワが刻まれていた。声音も常より低く、口調も厳しくて、まさに王の御妃様という姿だった。

「桃花様、ほんとうに、このたびは申し訳ありませんでした。まさか、わたくしの侍女がこのようなことをするだなんて思いもせず」
「怪我もなかったので、大丈夫ですよ」
「けれど! もし、桃花様のお美しいお顔に傷がついたら、手足を怪我していたらと思うと、わたくしは夜も眠れず……!」

 わぁっと我慢していた涙が溢れ出し、ぎょっとする。控えた侍女たちは「お可哀そうに」と姫につられて目元を袖で押さえていた。
 桜妃は天真爛漫だが、燕珠姫は感情豊かというか情緒不安定というか、とにかく感情の振れ幅が大きい少女だった。

「け、怪我もなにもなくピンピンしているので、本当に大丈夫ですから!」

 このままでは姫を泣かせたと、打ち首になるかもしれない。何かあってからでは遅いのだ。とにかく泣き止ませようと必死になる。

「……本当に?」
「えぇ、本当です」
「……では、舞ってくださいませんか?」

 脈絡のない言葉に目を丸くした。二の句が告げず、戸惑う桃花をよそに燕珠姫は言葉を重ねる。

「桜妃様ばっかり、ずるいではありませんか。わたくしだって、桃花様の舞が見とうございます。力強く一閃する剣に、わたくしの心も切り裂かれたのです。繊細な指先からは蜘蛛の糸が垂らされているようで、思わず手を伸ばしてしまいます。軽やかに飛ぶ足は、まるで天女の如く身軽で、何より、蒼く美しい瞳にわたくしを映してくださいませ」
「え、燕珠姫?」
「どうか、どうか、桃花様、わたくしのためだけに舞ってくださいまし」

 卓子を乗り越えて、手を捕まえられて、祈るように胸元に引き寄せられる。

「桃花様、わたくしの舞姫様、どうか、どうかお願いでございます」

 とろり、と甘さを含み、熱をはらんだ瞳は花街でよく見かけた目だ。
 恋をする盲目の目だった。



「桃花様、ご自身の立場をよくお考え下さい」

 厳しい顔つきで吐き捨てて、部屋を出て行ったのは桜妃付きの侍女である玲香。

「よく考えろっても……はぁ」

 ズキズキと痛むこめかみに、桃花は溜め息を吐いて寝台に倒れ込む。
 近頃は雨続きで外でのお茶会もできず、桜妃にお呼ばれしない限りは部屋に引きこもる日々が続いていた。
 雨が降ると体調不良を起こすのは幼い頃からで、花街に居ついている医師によく薬を貰っていたのだが、処方してもらっていた薬はとっくになくなってしまった。後宮でお世話になっている身としては「薬をください」だなんて言い出せなかった。

 頭痛の種のひとつでもある悩み其の一は、燕珠姫についてだ。
 顔を合わせれば話をするくらいだったのが、ひとりで出歩こうものならどこからともなく現れてくっつかれる。そう、くっつかれるのだ。やんわりと手を握られて、そっと指先を絡めとられて、ぴったりと腕に抱き付かれる。
 可愛らしい姫に好かれて嬉しくないと言えば嘘になるが、燕珠姫の瞳の奥に渦巻く情欲はどうしたものか。同性には興味がないのだけどなぁ、と思わず遠い目にあってしまう。
 燕珠姫は桃花に恋をしているのではない。舞い踊る姿に恋をしているのだ。憧れに近い感情を抱いているのだ。それも無自覚だから指摘のしようもなく、慕ってくれる姫を無碍にすることもできなかった。
 簡易的な舞を見せてあげれば、白くまろい頬を赤くして興奮気味に称賛の嵐だった。興奮しすぎて頭に血が上り気絶してしまうんじゃないかと心配になる。

 頭痛の種其の二は、何かとちょっかいをかけてくる桃真について。
 王様にくっついてやって来たかと思えば、菓子を渡されたり、耳環や飾り帯を渡されたりするものだから困っている。客間の一角が気づいたら桃真からの贈り物で溢れかえっていた。華美すぎない耳環は普段用で使わせてもらっているが。蒼一色の着物を贈られたときなんて顔が引き攣ってしまった。
 蒼色を身に着けられるのは、蒼性の者だけで、何を考えているんだこのお坊ちゃんは、と舌先まで出かかったのは新しい記憶だ。
 桜妃は興味津々な表情で「どこまで進んだの?」と聞いてくる始末。進んでもいなければ始まってもしらいない。ワクワクした目で見られても困るだけだ。

 頭痛の種其の三は、つい先ほどの侍女・玲香である。
 玲香の桃花を見る目は厳しく、ここ最近はことさらにキツい視線を送られていた。立場をよく考えろと言うが、玲香の言う立場とは花街の遊女としてのことを指しており、よく考えろというのは桜妃の賓客でありながら桃真や燕珠姫とお茶会をしていることだろう。
 桃真や燕珠姫からの誘いを断れない立場の桃花にどうしろと言うのか。
 燕珠姫のお誘いには桜妃もあまり良い顔をしないため、雨が降っているのを理由に断っているのだが、桃真については桜妃自ら宮へ招いているのだから避けようもない。

 結局のところ、ただ舞が得意なだけの遊女がちやほやされているのが許せないのだろう。

「あー……しんどい」

 髪が乱れるのも構わず、ふわふわの布団の上をゴロゴロと転げまわる。
 頭は痛いし、体はだるい。明らかに精神的負荷による体調不良だ。手持ちの薬は飲み切ってしまったし、今日は具合が悪いのでお休みしますと言ってしまおうか。
 簡単にまとめていた髪をほどいて、のそりと寝台に寝転がる。
 トントン、と叩音がして扉が開いた。

「あら、お休み中でございましたか」

 侍女頭の珀怜だった。

「いえ、どうしました?」
「桜妃様がお茶にいたしましょうとのことです。雨続きで気が滅入ってしまいますからね。空気も冷たいですし、温かい緑茶と月餅を用意しています」
「月餅……」
「以前、好きだと言っていましたよね」

 確かに、好物だ。月に見立てた丸い形に、中に甘い餡が詰まっている。渋い茶と一緒に食べると甘さが引き立って、とっても美味しいのだ。
 体調不良と月餅を天秤にかけた結果、月餅が勝ってしまった。花より団子。花街にいては甘菓子なんてめったに食べられない高級品である。食べられるときに食べなくては。
 光雅楼にいた時よりも少しばかり肉付きがよくなっている気がした。帰ったら内儀様に食事制限を強いられること間違いない。

「すぐに準備します」
「あら、髪くらい私が結ってあげますよ。さぁ、後ろを向いて」
「え、いや、あの」

 戸惑う桃花を強引に座らせて、寝台に放られた簪を拾い上げる。
 銀に、水晶の玉飾りがついた質素な簪だが、うっすらと透かし彫りで蓮の花が彫られている逸品だ。桃真からの贈り物であると気づいた珀怜は何も言うことなく笑みを深めてやる気を出した。

 化粧を施していない桃花は、お人形のように整った美貌をしている。
 日がな一日部屋にこもりがちな性分なもので、肌は色白でツヤがあり、猫目の蒼い瞳は愛嬌がある。小さな鼻に、小さな唇は口紅要らずの赤。そこらの姫君に劣らぬ美貌を持った少女が舞う姿は、まさしく天女と呼ぶに相応しい舞姫だ。
 さらさらの髪を編み込んで、くるりと簪でまとめれば完成だ。鏡台の前に散らばった化粧道具の中から紅を筆にとって。唇に塗られる。濡れた瞳に、赤い唇は酷く蠱惑的で、同じ女であってもクラッとくる色香があった。

「はい、完成。さぁ、茶室へ行きましょう」

 珀怜はわたしのことを子供か何かと思っているのではないだろうか。当たらずとも遠からず、珀怜の桃花へ抱く印象は懐かない猫だった。

 茶室とは、茶を楽しむためだけに作られたへやである。四方を開け放つことができ、晴れている日には風に吹かれる桜を眺めながらお茶会を楽しんだり、桜とともに舞う桃花を鑑賞したりもした。
 天女の如く舞う桃花と、普段のぶっきらぼうな桃花は別人かと疑うほどに差が激しい。しなやなか女性かと思えば、猛々しい男性にもなり、あどけない童にもなる。

 茶室にはすでに桜妃が待っており、毎度のことながら王様と桃真もいた。

「やぁ、桃花。今日も会えてうれしいよ」
「一昨日も会ったばかりじゃないですか……」

 卓子の並びは、桜妃の左隣に王様、向かいに桃真、右隣りに桃花だ。
 はじめのうちは桜妃の正面に王様が座っていたのだが、いつの頃からか気づいたら桃真が隣になっていた。つまり王様の正面を陣取っているわけだ。今ではもう慣れてしまって、お茶の味もしっかりと感じられる。

「ご機嫌麗しゅう、王様、桜妃様」
「舞い手殿も、体調は崩しておらぬか? 雨が続いているからな。風が冷たいだろう」

 一瞬ドキリとしたが、吊り灯篭の灯りで顔色はごまかせているはずだ。
 白粉をはたいてごまかそうかとも思ったが、舞う意外で滅多に化粧をしない自分が化粧をしていたら逆に怪しまれるだろうと、珀怜に塗られた口紅以外の化粧はしちなかった。
 よくよく見れば、白い肌はさらに蒼褪めており、紙のように白くなっているのだが、暖色の吊り灯篭のおかげか誰にも気づかれることがない。

「雨が止んだら、桃花さんの舞が見たいですわ。雨を題材にした舞なんてものもあるんですの?」
「はい。遊郭では雨と悲恋がよく結びつきされるものです。客の男に恋をした遊女が、叶わぬ恋に悲しみ暮れる舞があります。涙の雨なんてよく言いますよね。剣舞というよりは、扇舞のほうが合うんですが」
「あら、扇舞! 私、見てみたいと思っていましたの!」

 きらきらと目を輝かせる桜妃に、苦笑いを隠すように月餅を口に含んだ。甘い餡がとても美味しいが、体調が悪く、塩梅の良くない胃にはすこし重たくて、無理やり茶で飲み下した。

 異変が起こったのはすぐだった。

「……? げほっ、」

 喉が熱く、胸が苦しくなって、息が荒くなる。

「は、ぁ、げほっ、ごほっ……!」
「桃花?」

 怪訝な視線を向けられる。
 茶器が手からこぼれ落ちて、軽い音を立てて割れた。座っていられず、卓子に手をついて椅子から転げ落ちる。

「桃花さん!?」
「げほっ、がっ、ヒュッ、ひぐ、」
「毒か!」

 場は騒然とした。
 喧騒が遠くに聞こえ、視界が朦朧とする。胸が苦しくて、喉奥が熱い。
 舌先が痺れ、頭がぐわんぐわんと大きく揺れた。ふら、と揺らぎ、倒れそうになった桃花を支えた桃真は、その顔がひどく蒼褪めていながら高い熱を持っていることに気が付いた。

「珀怜、医局へ連絡を!」
「は、はい!」
「春桜宮に運びます」

 子供の頃に、ひどい熱を出して寝込んだ時を思い出した。とても身体がだるく、瞼を持ち上げていることすら辛い。

「と、ぅま、さま……」
「喋るな。すぐに侍医を呼ぶ」

 厳しい面立ちは彼に似合わなかった。
 あぁ、毒を盛られたのかと熱に浮かされた頭で冷静に思う。
 以前にも、舞姫としてはやし立てられる桃花を妬んで毒を持った遊女がいた。その時はひどい吐き気と、眩暈に襲われて足元がおぼつかず、二週間は寝込む羽目になった。

 小柄な桃花を抱き上げた桃真は、あまりに軽い体重に眉根を寄せた。もともと細く華奢だったが、まさかここまで軽いとは思わなかった。
 なんの毒かは分からないが、下手に動かすのはまずいだろう。全神経を注いで、揺らさないように細心の注意を払って宮まで急いだ。

 完全に気を抜いていた。主上や妃が口にするものはすべて毒見役が口にしてから食していたから、今回も大丈夫だと思っていたのに、このような事態になるだなんて。
 主上や桜妃を狙ったものなのか、それとも桃花か、自分か。狙いが差だけではないが、犯人はすぐに絞れるだろう。
 毒が入っていたのは月餅か茶か、桃花を狙ったのであれば茶器に付着していたかもしれない。加害者は月餅を用意した尚食か茶を淹れた侍女に絞られる。月餅は主上も桜妃も口にしており、茶も同じ急須から注がれた。――となれば、茶器に毒が付着していたと考えられるだろう。
 それか、主上か桜妃を狙った毒が桃花に当たってしまったか。

 繊細な硝子細工を扱うように寝台にそっと寝かせる。顔色は蒼褪めているのに、頬は熱く火照り、苦し気に眉が寄せられている。

「蒼様! 侍医を連れてまいりました……!」

 息を切らした珀怜が部屋に飛び込んでくる。よほど急いだのだろう、妃に仕える侍女にあるまじき呼吸の乱れはめったに見れるものじゃない。
 連れられてきた侍医のショウは、白い髭を蓄えた小柄な老人で、呼吸ひとつ乱さずにやってきてはおもむろに寝台へと近づいた。

「祥せんせい
「毒ですかな」
「えぇ、そうです」
「ふむ……失礼」

 袖をめくって手首で脈を測り、瞼を親指で持ち上げて瞳を確認する。その間も桃花は苦しそうで、桃真は気が気じゃなかった。
 脈拍は通常よりもかなり早く、瞳孔は収縮を繰り返している。顔色は蒼褪めているが、発熱と発汗をしており、軽くえづいているところから吐き気もあるのだろう。

紅山草こうざんそうですな」

 塗り薬にも飲み薬にもなり、紅州の高い山でしか採れず、紅家を通して仕入れている汎用性の高い薬草だ。
 薬となる草だが、時にそれは毒にもなる。切り傷には血止めとして、発熱には熱冷ましとして使われるが、摂取しすぎると血の気が一気に引いて、現在の桃花と同様の症状が起こってしまう。

「何か食べていたのですかな?」
「茶請けに月餅を」
「祥師、こちらです」

 皿に盛られた月餅を持った桜妃に、目を瞬かせた祥は改まって恭しくお辞儀をした。

「頭を上げて構いません。今、主上もいらっしゃいます。それで、桃花さんの容体は?」
「解毒薬を飲ませればすぐに良くなりましょう。幸なことに、医局に材料がそろっております」
「よかった……!」

 月餅をひとつ手に取った祥は、それを半分に割ってにおいを嗅ぎ、一口齧った。ゆっくりと咀嚼して飲み下し、再度半欠けに鼻を寄せる。

「ふむ、美味でございますな」
「師! 毒が入っているかもしれませんのに!」
「一口くらいなら平気でございますぞ。ふむ、やはり紅山草ですな。かすかにツンとするにおいがいたしまする。主上と桜妃様もお召し上がりになられたのですかな? 蒼様も?」
「え、えぇ、皆食しました。けれど、なぜ桃花だけが?」
「体調が悪かったのもありましょう。ここ数日気温が下がり寒い日が続いておりましたからのぉ。紅山草は薬として使いますが、使いようによっては毒となります。過剰摂取が過ぎると毒でございまする。月餅に少量の紅山草が混ざっております。この娘さんは主上や桜妃様よりも多くの月餅を食されていたのでは?」

 言われてみれば、ぱくぱくと手が進んでいた。月餅が好物なのだと、珍しく笑みを浮かべて教えてくれたので、主上も桜妃も微笑まし気にひとつふたつで手を止めたのだ。
 春桜宮の侍女であれば、桃花の好物が月餅だと知っている。好みの茶、味まで把握しているのだ。だって、桜妃様の大切な大切なお客様なのだから、心地よく過ごせるように精いっぱいのおもてなしをしたいのだ。
 よその侍女から受けていた嫌がらせを鑑みると、ひとえに決めつけられないが、加害者は春桜宮の侍女である可能性が高まった。

「ひとまず、儂は医局に戻り、薬を煎じて参りまする」
「祥老師、医局から紅山草を持ち出した人物は把握しているか?」
「ははぁ、陛下。えぇ、えぇ、もちろん存じておりますとも。医局からの薬草、薬の類の持ち出しは全て帳簿に記しております。帳簿もお持ちいたしましょう」

 祥のいなくなった部屋はしんと静まり返った。
 不安げな桜妃と、冷たい相貌を凍えさせた王。桃真は似合わない険しい表情で、珀怜は顔色を悪くして控えている。

「おそらく、これは舞い手殿を狙った犯行であろうな」
「そんな、まさか……!」
「紅山草が毒になると知っているのはそれなりに知識を持っている者です。ある程度の知識教養を身に着けていても知らない者の方が多い」
「紅山草を王都へ卸しているのは紅家だ」
「まさか、葵妃様を疑っているのですか!?」

 葵妃は後宮の南に、夏を司る夏夜宮かやきゅうを持つ四妃のひとり。
 紅家直系の姫君であり、涼やかで落ち着いた女性である。

 * * *

 紅梅に濃紅を重ねた梅重の衣はしっとりと重みがあり、細みの肢体にまとわりついた。
 香の焚かれた部屋で、そのひとつで一財産となるだろう長椅子にもたれた女性は、細い手に持った扇子をぱちんと閉じる。

「あの子はうまく使ったかしら」

 脳裏に思い浮かべるのは、自身のことを嫌煙する少女に仕える侍女。実家から送られてきた薬草を分けてやったが、何に使うのかは聞かなかった。わざわざわたしを訪ねてきたということは、ただの薬として使うわけではないのだろう。
 面白そうだから、というだけで分け与えたが、やはり思った通り事態は面白い方向へと転がった。

「桜妃のお客様は意識を取り戻したの?」
「はい。祥師により、解毒薬が処方され、快方に向かっております」
「そう。ねぇ、瑛祝エイシュク、私もあの子が欲しいわ。梨李紗ばっかりずるいじゃない」
「……招待状をご用意いたします」

 甘い香で満たされた部屋は、どこかみだりがましい雰囲気を醸し出している。必要最低限しか明かりの灯されていない灯篭は、ぼんやりと部屋の主の影を映し出した。
 酒の入った杯を傾けながら、卓子に無造作に放られた文を指先で弾く。
 蒼い目の少女。天女の如く舞う姿。春桜宮に招かれているお嬢さんの情報がつらつらと綴られていた。

 武闘会で披露された剣舞は素晴らしかった。自然と引き込まれる魅力があった。
 なにより、面布をしているから、なおさら蒼い目に視線が向かった。この国では珍しい、色変わりの瞳。蒼州で採れる蒼玉のように美しく、深い海の色をした瞳。
 欲しい、と思ってしまった。

 昔々に、父から聞いたことがある。母ではない女を愛していたと。その女は気の強さを煌めかせた蒼い瞳に、とても美しい容姿をしていたと。
 蒼い瞳の舞い手を見たとき、その話を思い出した。

 到底子供に聞かせる話ではないのだが、父はきっと、娘に同じ素質を感じたのだろう。そこらへんの官吏よりも頭が働き、武芸にも秀でた姫君。何度、男であれば、と惜しがられただろう。
 男であれば、家督を継げる器が彼女にはあったのだ。
 下に弟が二人いるが、長男は自由奔放の放蕩息子で、次男は気の弱い吃音症。どちらも家督を任せるにはいまいち不安な性格をしていた。だからこそ、いざという時のために、父は娘に一族のすべてを教えた。けれど、その娘は後宮入りしてしまい、最上級妃の四妃のひとりにまで上り詰めてしまった。

 黒髪を椅子から垂らして、王の夜渡りを待つ。
 普段の涼やかな彼女からはとうてい想像できない、濃厚で濃密な夜を王と過ごすのだ。そこに愛がなくとも、姫は妃としての役目を果たさねばならない。子を成せば、一族の名はさらに上がり、位も上がることだろう。
 王家に次ぐ位を持つ一族であるが、朝廷に参入している者は少ない。気難し屋の多い一族だから、官吏として国に尽くすことのほうが珍しかった。

「お父様は喜ぶかしら」

 今もなお、過去の女に囚われている父は、蒼い瞳に括っていた。蒼い瞳の美しい女。もしかしたら腹違いの妹かもしれない少女に、姫はくふくふと喉を転がして笑い声を漏らした。
 数か月に一度送られてくる紅山草のお礼の文に、蒼い瞳の舞い手について一筆したためた。

「主上がお越しになられます」
「そう……わかったわ」

 ぱちん、と扇を閉じて、優艶な仕草で長椅子から起き上がる。外へ繋がる扉を開けば、夜の暗がりの中、ひとつの明かりがこちらへと近づいてきていた。
 手櫛で乱れた髪を整え、王を出迎えるために扉へと寄る。
 夜伽か、それともお話に来たのか。無性に心がわくわくした。


第七話


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