「花街の剣の舞姫」第十一話
あっという間に滞在期間は終わりを迎えた。
荷造りを終え、馬車に荷物(ほとんどが後宮に来てから増えた荷物だ)を積み終わり、一時の静けさを味わっていた。
桜妃との日常はとても楽しかった。
女の園のいざこざに巻き込まれたり(!)、毒殺されかけたり(!?)、暗殺未遂事件の罪をなすりつけられそうになったり(!?)したが、なんだかんだで楽しかったと締めくくることができる。
健康的な日常生活に、来たばかりの頃よりも少しばかり肉付きが良くなった体に、肌がツヤめいている自身に苦笑いをこぼす。遊郭に戻れば、また不規則な生活で体型も元通りになるだろう。
姿見に映る自身は薄藍の裳に白の上衣を重ね、結い上げた髪には桃真からもらった簪を挿している。
頭の天辺から足先まで、桃真の贈り物で固められていた。有無を言わさず、珀玲に着せられたのだ。文句を言う隙もなかった。眠気まなこのうちに着せられたんだもの。きっと桃真の指示に違いない。
――結局、返事をせぬまま後宮を去ることになった。まぁ、帰りの馬車には桃真も同乗するのでそこでひと悶着ありそうな予感がするが、何もないことを祈りたかった。むしろひとりで帰りたい。
「本当に帰ってしまわれるの?」
「桜妃様、ここは、わたしには贅沢すぎる場所でございます」
眉を下げた桜妃が入り口に立っていた。寂しそうに唇を尖らせて、そっと歩み寄ってきた。
「……簪、よく似合っているわ。貴女の瞳とぴったりよ」
「…………アリガトウゴザイマス」
「あら、何よその顔。梅干しでも食べた顔をして」
くすくすと鈴の声音で笑う桜妃は相変わらずおちゃめだった。
暗殺未遂事件の直後は、ひとりで眠ることができなくなってしまったが、今はもうすっかり回復している。根の心が強いのだろう。恐ろしかっただろうに、とても気丈な女性だ。
事件後はしばらく、毎晩主上が共寝をしてくれたようだが、それはそれで嬉しかったと頬を染めて言うのだから、本当に強い御人である。
そうでなければ後宮で生き残っていくことも、ましてや頂点の花たる四妃のひとりになることもできなかっただろう。
とても同年代とは思えない、強く美しい桜妃が眩しかった。
「まるで蒼様の奥さんみたいな格好ね」
「え゛ッ」
「やだぁ、うふふっ冗談に決まってるじゃない。……でも、本当に寂しくなるわ」
そう思ってくれるだけで桃花は胸がいっぱいだった。
天真爛漫な桜妃。才色兼備の侍女頭の珀玲や、あどけない少女の燕珠姫。麗しい主上に――花のような桃真様。桜妃に気に入られて招待されなければ一生関わることのなかった人々だ。
「本当に、ありがとうございました。桜妃様には感謝してもしきれません」
「お礼を言うのは私のほうよ。桃花さんの剣舞を独り占めしたいって思ってしまったんだもの。このまま春桜宮にいてくれてもいいのよ?」
「嬉しいお言葉ですが……わたしは帰らなければいけませんから」
「つれないわねぇ」
小さな沈黙が流れた。どちらともなく、別れの言葉を言いづらかった。
「ねぇ、桃花さん。私ね、お願いがあるの」
「お願い? 最後に、何か舞いましょうか?」
「それも捨てがたいけれど……あのね、名前で呼んでほしいの」
きょとんと芽を丸くした。
桃真が羨ましくなったのだと恥ずかしそうに目を伏せて、両手を組んだ桜妃に「最後だしいいか」と軽く了承した。
「梨李紗様」
「うふふっ、様なんていらないんだけど、ここではそうもいかないものね。ずっとずっと、名前で呼んでほしかったの」
「ふたりきりのときだけですからね。わたしが主上に嫉妬されてしまいます」
あと数刻で後宮から去るとわかっていながら、ふたりきりのときだけ、と約束をした、それは再会を祈っての言葉でもある。
妃たちはよっぽどの特別なことがない限り、許可なく後宮から出ることはできない籠の鳥だ、再び、桃花が後宮を訪れない限り会うことは難しい。
馬の準備ができたと使いの者が呼びにくるまでふたりは他愛ない会話を楽しんだ。
見送りはなかなかに盛大だった。
お世話になった春桜宮の人々はもちろん、燕珠姫まで駆けつけてくれたのには驚いた。文字通り駆けつけてきたのだ。裳をなびかせながら、パタパタと駆け足でやってきた燕珠姫が転んでしまわないかハラハラした。
「た、桃花様ぁ〜! わたくし、わたくしっ、寂しゅうございますぅっ! もう桃花様の舞を見られないと思いますと、夜も眠れませんわっ」
瞳をウサギのように赤くして、化粧崩れも気にせずうるうるぼとぼとと涙をこぼす燕珠姫に誰もが苦笑いだ。
彼女のほの暗い感情に気づいていながらも突き放せないのはあどけない少女のようで、光雅楼の小さな女の子たちを思い出させるから。本当なら、突き放さなければいけなかったのだろうが結局できずじまい。
「燕珠姫、」
「うわぁ〜ん! 桃花様ぁ行かないでくださいませぇ!」
「燕珠姫!」
「ふあっ!?」
「燕珠姫、よく聞いてくださいね。別に今生の別れってんじゃないんです。生きていれば必ずどこかで会えます。……ほら、主上におねだりをすればいいんですよ。わたしの舞が見たい、って。そうすれば燕珠姫はわたしに会えるし、わたしはお賃金がもらえてウハウハです」
キリッと言い切った桃花に目をきょとりと瞬かせる。その拍子にぽろりと大粒の涙がこぼれた。
(お金だ)
(お賃金)
(結局お金なのね)
「……桃花様は、わたしに会いとうないのですか?」
「会いたいに決まっています。燕珠姫だけじゃありません。桜妃様にも、侍女の皆さんにも……烏滸がましいことですが、主上に会えなくなるのもとても寂しいです」
「じゃあ!」
「それでも、わたしは帰ります。帰らなくちゃいけない」
僕の名前が呼ばれなかったなぁ、と思いつつも今ここでは口に出さない桃真。どうせ、帰りの馬車に一緒に乗るんだから問い詰めるのはその時でいいだろう。
若干の寒気を感じつつ、桃花は深く頭を下げて別れの言葉を口にした。
「さようなら。お世話になりました」
これで、ほんとのほんとにお別れである。
「お手をどうぞ」
「……わたしは姫でもなんでもないので、結構です」
差し出された手を無視して馬車に乗り込む。隣に桃真が座って、肩が触れ合う距離にちょっとだけ心臓が高鳴った。
「桃花さん、お元気で」
「桜妃様も、お元気で」
ゆっくりと馬車が動き出す。窓から顔を覗かせて手を大きく振った。
三ヶ月というものはあっという間に過ぎ去った。
燕珠姫の賑やかさが懐かしく思えるほど馬車の中はしんとしていた。
膝の上で固く握りしめられた手は、そっと上から大きな手のひらに包まれている。動いている馬車の中、狭く小さな密室では逃げ場もなく、ただただ桃花は赤くなった顔を俯けていた。
「本当に、帰ってしまうんだね」
トン、と肩に頭が載せられる。
「これから桃花に会えないのかと思うと、僕は寂しくて死んでしまいそうだよ」
「燕珠姫にも言ったけれど、今生の別れではないのだから」
「それでも、寂しいものは寂しいんだよ」
するり、と指先が絡まり合い、心臓の大きな音が聞こえていやしないだろうか。ささやかに焚かれた香の匂いが鼻に移って、嫌でも桃真の存在を意識してしまう。
何にも思っていなければ、意識なんてするはずがない。もどかしい感情に胸を焦がされる。嗚呼、もう、認めてしまえば楽なんだ。桃真のことを好いていると。けれど、その感情に恐怖しているのも事実。――あの人のようになったらどうしよう、と。
「僕は、君を裏切らないよ」
一体、どんな顔をしていたのか自分でもわからない。痛ましいものを見る目で、そっと頬を撫でられた。
指先が柔肌に食い込んで、唇のすぐ端に口付けられる。
「っ、桃真様、わたしは、」
「お二方、到着いたしました」
言おうとした言葉は、御者の言葉に遮られ、喉奥に引っ込んでしまった。
いつの間にか花街に入っていたようで、馬車は止まり、窓からは光雅楼の裏口が見えていた。
「……さぁ、荷物を降ろそうか。僕も店主殿に挨拶をしなければ」
あっさりと、いとも簡単に離れていった桃真に唖然とする。次いでムスッと口を噤んで桃花も荷物を降ろすために馬車から降りた。
舞台の準備をしながら、桃花は溜め息を吐きだした。
後宮から戻ってきて三日。早くも桃花の舞台の日だった。帰ってきて丸一日を寝て過ごした。二日目は荷物の整理をして、今日である。三か月ぶりの桃花の舞台ともあり、客入りは上々。半券は半日のうちに完売。最前列は大華以上の値がついてらしい。
三か月ぶりともあり、普段なら一曲のところ、三曲を舞うことになっている。序曲・春来歌。戯曲・蝶々散花。終曲・冬仙天女。どれも得意な舞だ。
舞台は陽が沈んでからだが、すでに早入りして酒を楽しんでいる客もいる。
「溜め息なんて吐いちゃって、せっかく着飾ってるのにもったいないわよぉ」
「……美姐さん」
「あら、アンタにしては珍しい簪じゃない」
「ちょっと、触んないでよ」
白魚の指先が、一本だけ挿さった蒼の簪に触れようとして、軽く叩き落とした。
「……あら、あら、へぇ、ふぅん、そういうこと」
何やら悟ったのか、にやにやと口元に笑みを浮かべた美美から逃げようとするが、一歩遅く首根っこを掴まれる。
「それ、若様から貰ったやつだろう?」
耳元でひっそりと囁かれ、呻き声が出た。
「う、ぐぅ……」
「ふふん、随分とまぁ、可愛らしい表情をするようになったじゃないか。アンタを送り出して正解だったってわけだ」
年頃の少女らしい、真っ赤に染まったリンゴのような顔をする桃花に姐はイジワルな笑みを浮かべる。悠然な笑みからは慈愛が滲み、妹同然の少女の成長を喜んでいる。
「桃花、最初で最後の大舞台だ。気張ってきなよ」
頬に唇を寄せて、少女を励ます。
そう、最初で最後だ。
「桃花、出番だよ」
疑問を口にする前に、内儀が呼びに来てしまう。彼女の後ろには、美しく着飾った鈴鈴がいた。腕の中に二胡を抱えており、今夜の舞台の奏者である。
鈴鈴に楽器を奏でさせると敵う者はいない、と言わしめるほどにあらゆる楽器を美しく繊細に奏で上げる。
開始時刻には少し早いが、席は全て埋まっており、今か今かと始まるのを客たちは待ち望んでいた。
先に舞台へ滑るように現れた鈴鈴は、軽やかに、けれど金細工のように繊細で鮮やかな曲を奏でる。盛り上がるにはちょうど良い、短めの曲だ。曲の終わりごろ、静かに舞台へと現れた桃花は音もなく足を進めて舞台の中心で礼をした。
白い衣を幾重にも重ね、薄藍の紗が動くたびにひらひらと踊る。しゃらり、と簪が揺れて存在を主張した。
序曲・春来歌は、春の訪れを待ち遠しく思う姫君の曲だ。わくわくと花が芽吹くのを待つあどけない少女姫の、春を、恋を知る感情を演じるのだ。戸惑い、高ぶり、喜び。幸せに満ちた曲である。
軽やかに飛び跳ねる。ウサギのように、鳥のように、くるりくるりと回ると紗が後を追いかけて曲線を描いた。
鞠遊びをするいたいけな少女姫が、徐々に乙女へと変わっていく。大きな振りは落ち着いていき、繊細で細やかな動作へと変化する。細く華奢な手がしなやかに、天へ向かって花開き、二胡の奏でが転調する。ゆったりと、優雅な調べは少女姫の心の成長を表した。
自らの体を腕で抱きしめて、音が静かに途切れる。
一拍の静寂の後、聖だいな拍手が送られた。完成と口笛が響き、また一礼をする。その間に禿が剣を持ってきた。青い房飾りさらさらと揺れて、嫌でもあの男を思い出していしまう。
面布の内側で頬を噛み、深く息を吐きだした。
二曲目、戯曲・蝶々散花は一曲目とは打って変わって艶やかな剣舞だった。
自分が胡蝶か、胡蝶が自分なのか、夢うつつの男は人と思えぬ美しい女と出会う。月夜に咲く一輪の花の如く美しい女は、胡蝶と戯れ、男を惑わした。
かくん、と背中を反らして天を仰ぎ、いっぱいに伸ばした腕の先でくるりと剣を回す。顎埼を紙一重でかすめていった剣に、観客たちは感嘆の声を漏らした。
体を反らし、薄い腹が押し出される。面布からちらりと覗いた赤い唇は蠱惑的な笑みを浮かべ、薄絹の黒髪に遮られた。ちらりと垣間見える舞い手の素顔に誰しもが釘付けで、もっと見たい、見せてくれ、と知らず知らずのうちに前のめりになっていた。
艶やかで、艶めかしく、艶やかな舞は、文字通り誘惑する女そのもので、今この瞬間誰よりも美しい女だった。
たたん、と踏み込んだ右足の裳を、するすると捲り上げ、白く眩しい太ももが目に入る。パッと、手を放せば隠されてしまう細く柔らかな太ももに「嗚呼」と息が零れた。
片手を胸に、膝を折る。これで終わったのだと、誰も気が付かなかった。
魅了され、奇妙な静けさの中、三曲目が始まる。軽やかな春来歌とも、艶やかな蝶々散花とも違う、しっとりと濡れた曲だ。
終曲・冬仙天女は、冬を司る仙女の緩やかで永い時間の舞である。普通であらば扇舞のところを、桃花は剣舞で舞い踊る。
ゆっくりと、一寸もぶれることなく一閃する剣。桃花の周囲だけ、時間がゆっくりと流れているようだ。
内側から足を踏み出す、動きが小さくおしとやかで美しい足運びは物音ひとつしない、深く雪の降り積もった冬を連想させた。冷たく凍える寒さではなく、きらきらと朝陽に結晶が煌めく柔らかな優しさに包まれていた。踏み出す足のつま先を内側に向け、八の字を書くように歩くそれは、大華たちが高下駄を履いて花街を練り歩く道中の歩き方だった。
舞い手であり、遊女である。しっとりと濡れた雰囲気に唾を飲み込んだ。
嗚呼、彼女と褥を共にしたい。けれどそれは叶わぬ願い。男も、女も、お客も遊女も関係なく、舞台の主役に目を奪われた。
蒼く濡れた瞳が伏せられると息が詰まり、白魚の指先が宙をもがくとつい目が追いかけた。
しっとりと、穏やかに、緩やかに曲が終わる。
終わってしまうのが惜しかった。もっと長く見ていたい、と誰もが思い、けれど口には出さない。終わりがあるから、次が来るのだ。
「――よくやったね。お疲れ様」
舞台袖で、珍しく満目の笑みの内儀が褒めてくれる。
剣を禿に預けていると、軽く汗のかいた額を手巾で拭われた。
「さぁ、桃花は花の間へお行き。お客様がお待ちだよ」
「へっ……!?」
「アンタの知ってる若様さ。さぁ、お行き」
嗚呼、と。心のどこかで喜ぶ自分がいる。きっと、彼だ。
足早に階段を上り、はやる気持ちを押さえながら桃の花の描かれた襖の前で立ち止まる。
「……失礼、いたします」
そっと襖を開け、摺り足で部屋の中で入る。後ろ手で閉めれば――三日前に別れたばかりだというのに、懐かしいと思ってしまう麗しい青年がゆったりと椅子に腰かけていた。
「やぁ、久しぶりだね。桃花。舞、とっても素晴らしかったよ」
言葉は褒めているのに、声音はどこか不機嫌そうだ。
「お、お久しぶり、です。――桃真様」
いつものような簡易な装束ではなく、しっかりと着込んだ服に目を瞬かせた。
深い蒼の衣には細かく綿密に蓮の花が刺繍され、蒼玉の耳飾りに、ほっそりとけれど節のある指には同じく蒼い指飾りがはめられている。これから式典に出席するんですか、と聞きたくなるような装いだ。
椅子からゆっくりと立ち上がった桃真は、微動だにしない桃花の細い腕を引いて胸の中に閉じ込めた。
「はぁ、やっと、君に会えた」
「桃真様、?」
「たった三日、されど三日。君に会えない日々は冷たく凍えた冬のようだった。結局、最後まで返事は聞けなかったね」
なんのことを言っているのかわかってしまい、胸に額をくっつけて聞こえないふりをする。
「――だから、迎えにきてしまったよ」
「……え」
冷たい指先が耳を掠め、髪に何かが触れた。
「簪を贈る意味を、君はもう知っているね」
それは桃の花だった。美しい透ける蒼の桃の花。蕾と花が織り成し、重なることで深い蒼家の蒼になる。
「桃花、どうか僕と共に生きておくれ」
はらり、と綿布が落ちる。
ゆっくりと唇が近付いて、影が重なった。
心が歓喜している。こんなにも嬉しいと思ったことなどない。
離れてなお、彼はわたしのことを選んでくれた。
――後日、光雅楼より盛大な花嫁行列が成され、花街イチの舞姫は蒼家の若様に身請けをされた。
了