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短編小説『地獄に堕ちたメイドども』

 可愛い、と僕に向かって言ってきたその人の頬を打っていた。自分でも気づかないうちに。高い破裂音がひとつ。それから、潮が引いていくみたいに教室から喧騒が消える。首を左右に動かして、誰もがこっちを呆然と眺めているのを見て、僕はその場を逃げ出した。
 メイドの衣装を着て体育座りをすると、こんなに心許ない気持ちになるんだ、と初めて知った。出来ればそんなことは永遠に知らないでいたかった。体育館の裏、ここ最近晴れが続いていたのに何故だかじんわりと湿り気があるように思える日陰で、僕は小さくなっている。
「帰りたい……」
 いっそ、この格好のまま帰ろうかな。しばらく近所で噂になるかもしれないけど、仕方ない。そうだ、帰ろう、そう思って立ち上がりかけた時、軽やかな足音と一緒に明るい声が飛び込んできた。
「いたー! おい汰志郎! あははは! やっぱ超似合ってるなそれ! なあー! 汰志郎いたぞ皆ー!」
 見た目も動きも、何もかもが派手な隆暢が手招きをすると、体育館の陰から謙と乙が現れた。謙は僕を見ると眼鏡の真ん中を一度指で押し上げてから目を逸らした。乙は手のひらを口の前でぱたぱたとさせながら欠伸をしている。
「……怒ってた?」
「へ? 何が?」
「うん、怒ってたよ。謝ったほうがいいぞ」
「だよね……。あー僕なんであんなこと……」
「……あはっ。ちょっと面白かったけどね。あんな汰志郎初めて見たし」
 三人が来てくれたおかげで僕は何とか教室まで戻って謝るための勇気を得ることができたから、女装癖がある、という噂をご近所さんに立てられるのは避けられそうだった。僕がビンタをしてしまった相手である水沢さんは、しばらくぷりぷりしていた。でも、周りにいる何人かに諭されて、渋々という雰囲気ではあったけど許してくれた。
 その日の帰りしな、隆暢は店で彼の顔ほどもある大きなハンバーガーを頬張った。僕はじっと隆暢が咀嚼するのを見つめた。ただハンバーガーを食べているだけなのに、隆暢は全身で自分の強さを誇示しているように見えた。謙や乙と比べても、明らかに動作のひとつひとつに力がある。特に印象的なのは、大きく口を開けるとき、少し顔が左に傾くこと。まるで捕食者の恐ろしさを演出するみたいに。
「男らしくならなきゃな……」
 僕が小さく呟いた声はきっと誰にも聞こえなかった、と思った。

 そんなことがあった翌日の放課後、謙が珍しく僕たちを遊びに誘った。何をするのかと思ったら、渋谷のど真ん中、ツタヤの前に陣取り、謙は言った。
「ナンパするぞ」
 隆暢がまず目を見開いて謙を見た。僕もたぶん同じくらい目を丸くして謙を見た。謙は笑いをこらえきれないみたいな、ただ、見方によっては泣くのを我慢しているみたいにも見える顔をしていた。くすぐったい沈黙は、乙の笑い声でどこかへ飛んでいった。もう少し遅い時間になるとたくさん現れ始める大学生っぽいお兄さん達みたいな、怒鳴っているのかな、とも思うような笑い方だった。
「乙のこれ、久々に見たな……」
「うん……修学旅行で謙がゴキブリ怖がりまくってた時以来じゃない?」
「あははは! そうそう! その時だその時だ。やっぱりこいつ謙がツボなんだよなー」
 僕たちが落ち着いていくのに反して、乙は「だははははは!」と、何かの栓が勢い良く抜けるときの音みたいな気持ちよさが感じられる笑いをやめようとしない。さすがに耐えきれなくなったらしい謙が無理矢理口を塞ごうとしても乙は笑いが抑えられないみたいだった。ふと周りを見ると、結構な数の人が僕たちを遠巻きにしていた。スマホをこちらに向けている人も少なくない。
「ねえ、ちょっと。これ、まずいかも……」
 さりげなく言ってみると、隆暢も状況を理解してくれたみたいだった。おーい! と、もう完璧に取っ組み合いになっている乙と謙に呼びかけ、返事がないのを見ると二人の腕を取って地下道の入り口のほうに引っ張っていく。
 地上の騒がしさがなくなったのが良かったのか、地下まで来ると乙もようやく落ち着きを取り戻した。謙も落ち着いている。というか、意気消沈してる?
「なんでナンパ?」
 項垂れていた頭が一度僕のほうを向いて、また項垂れ直す。
「男らしくなりたいんだろ……汰志郎は……」
「ええ!? 僕のため!? 僕、うーん……そういうことじゃないんだよね……」
「う……」
「ああでも、うれしい! 謙がそうやって考えてくれたのは、うん! すごいうれしい!」
「うう……」
「これ、あれだね! う、お、男の、男の友情ってやつだ! なんか、ドラマみたいだったよ、謙!」
「ううううう! くそお! なんで俺はいつもこうなんだ!」
 スイッチオン。と、たぶん隆暢も心の中で言った。きっと。乙がせっかく収まった笑いをまた吹き出したそうにしていたから、とにかく謙の背中をさすりながら僕たちは早足で地下道を駆け抜けた。
 電車の中でしきりに謝る謙に「ありがとう」と「大丈夫」を半年分くらい一気にあげたら、どうにかスイッチは切れてくれた。乙は初めのほうは楽しそうにしていたけど、途中から興味を失ったみたいでスマホのゲームをしていた。隆暢は、泣き上戸の人を介抱するのってこんな感じなのかな、とか言って茶化したりしながら、しっかり謙が冷静さを取り戻すまで背中をさすってあげていた。
「まー。あれね。少なくともこいつから男らしさを学ぼうとしても無理! ってことだね。こんな、いかにもしっかりしてまーすみたいな顔してさ、一番赤ちゃんだもん」
「赤……! いや、うん、そうかもしれない。ごめ……」
「……えーんーなーさいは、ね、ごめんなさいはいい。もう、いいから」
 あからさまにまた謝ろうとして飲み込んだことによる「あっ……」という顔をした謙に笑ってしまう。そして、可愛い、と思った。口に出しかけて、水沢さんの顔が浮かんだ。僕に向かって微笑む顔が現れたと思ったら、次の瞬間には頬がうっすら赤くなって、目は空っぽの人形みたいに虚ろになる。ごめんなさい、と口の中から出てこないように僕は小さく小さく唱えた。
「汰志郎は男になりたいの?」
 急な問いかけにはっとして肩が震えた。少しだけ顔を上げて横を見ると、乙の手の中のスマホは画面が暗くなっていた。
「もしかしたら手伝えるかも、俺」
 乙は澱みのない目で僕を見据える。長い前髪の奥にある乙の目をこんなにしっかり見たのは、いつ以来だろう。電車の走行音が少し遠ざかった気がする。うるさく聞こえていた人の話し声も膜がかかったみたいになって。それから。
「おーおーおーダメダメダメ。きのとーっ! きのとくーんっ! キミのそういう感じ怖いんだよ。俺の幼馴染を洗脳するなーっ」
「なんだよー。洗脳じゃないって。人聞き。お前は関係ないじゃんか」
「あるわ。あのねー。だってキミわざとじゃんそれ」
「ええ?」
「なんかこう、凄味を! スゴみを出すでしょ、時々。怖いから。そんなんだからクラスの連中からも怖がられんのよ」
「しらねー。興味ねー。勝手に怖がってろバーカ」
 あらもうこの子ったら! とおどけた口調で隆暢はしぶとく乙に釘を刺し続ける。乙はあえて隆暢を怒らせようとしているみたいに、ひょっとこみたいな顔をする。さすがの謙もそれを見るとはにかむように笑っていた。

 乙が電車の中で何を計画していたのかは、間もなく明らかになった。彼は僕に映画を見せようとしていた。乙の家は個人経営のミニシアターで、小さいころ僕たちはよく、無料で古いアニメ映画などを観せてもらっていた。しばらく行っていなかったけど、雰囲気は記憶の中にある通りだった。
「最近観た映画がね、ちょうどそんなんだったなって。それで、もしかしたら何か得るものがあんじゃないかなって思ったんだよ」
「そっか……ならそう言えばよかったのに」
「言ったじゃん」
「分かりづらいんだよお前はー! 変に含みを持たせるから。危ないことに誘おうとしているようにしか見えないんだよなー」
「ほんとそれ。人のこと馬鹿にしくさるし」
「根に持つねえ! 男らしくねえぞ!」
「うるせえ! その通りだよ!」
 ガヤガヤやっているうちに、上映前のブザーが鳴って照明が暗くなった。映画館で映画を観るなんて本当に久しぶりだ。それも皆と一緒になんて。暗さで視界が制限されると、古い木と座席のシートの匂いが混ざった、独特の空気を強く感じるようになる。学校の体育倉庫に近いけど、こっちは全然嫌じゃない。
 映画は、とても静かだった。最初にロシア語の文字が出てきたから、たぶんロシアだったんだと思う景色がとにかく印象に残った。ロウソクの火を消さないようにコートで風を遮りながら温泉の中を何往復も歩く最後のシーンが、まったく意味は分からないのに心に迫ってきた。上映が終わって、僕と隆暢だけが泣いていた。乙は満足そうに笑っていて、謙は激しく眉間に皺を寄せていた。メッセージを読み解こうと必死になりすぎて辛かった、とのことだった。
 帰り際、いつものハンバーガー屋の目の前で、隆暢の足が何故か突然止まった。それまで笑いながら喋っていたのに、顔が見るからに真っ青になった。隆暢の視線の先には一人の女性がいた。その人は僕たちを、というより隆暢を見つけると、ずんずんとこっちに競歩みたいな勢いで近づいてきた。
「隆暢。あんた何してんの」
 隆暢は何も答えない。口角は笑おうとしているみたいなのに、悲しいくらい痙攣するだけで持ち上がることはなかった。
「遊んでばっかり……。はあ……。そんなんじゃあの男みたいになるよ。いつも言ってるでしょ。なりたいの。あんな男に。あんな男みたいにならないために頑張ってるんでしょ。あんたはあの男とは違うんだから。ちゃんとしなさい。ほんとに。いい加減にして。あんな男になったらね、おしまいだよ。いい? わかってるんだったらさっさと帰りなさい。遊んでばっかいないで。なんべん言ったら分かるの。いい加減にしなさい」
 女の人は、隆暢に懇々とお説教をしているようだったけど、怖いことに、自分自身に言い聞かせているようにも見えた。言うだけ言って、あっという間に姿は見えなくなってしまった。
「隆暢……」
 自分の声が震えていて、ああ、怖かったんだ、と今更実感が沸いた。怖かった。とてつもなく怖かった。見慣れたいつもの風景にいきなり宇宙人が現れたみたいな、異質な怖さだった。思わず謙と乙のいる後ろを振り向くと、二人とも暗い表情にはなっていたけど、宥めるようにうなずいてくれた。

 それからしばらく経ったある日、僕は隆暢と二人で自転車に乗っていた。なんとなく話の流れで、せっかくだから隆暢も「男らしさ」ってものを教えてよ、と僕はあまりよく考えずに言ってしまった。隆暢は一番ちゃんとしてそう、と。
「そんなに~? そんなに、男……らしい? 俺って?」
「うん……! 隆暢なら大丈夫、いける!」
「なんだよそれ~。……いいけどさ。変わんないと思うけどな~」
 隆暢の反応はそんな感じだった。その割には、話を聞いてすぐに隆暢はいきなりハンドル両手放し運転を見せてくれた。真似しようとしたけど、僕には片手を放すので精一杯だった。
「うわー、やっぱりすごいよ隆暢は」
「ははー、そうかいそうかい。そんな気は、まー、しなくもなかったんだけど。こんなんで喜んでくれるなら良かったよ」
 やじろべえみたいに両腕をぴんと伸ばしてバランスを取りながら、隆暢は自転車を漕ぐ。時々よろけるけど、ほぼ真っ直ぐ進んでいく。結構急な上り坂なのに、と僕が感動していたら、隆暢はみるみるうちに変な方向へ、風に吹き流されるみたいにふらふら行き始めた。
「隆暢!?」
「おっ! ははは! やべー!」
 坂を着実に登っていきながら、どんどんよれていきながら、隆暢は「やべー!」と何度も繰り返している。僕は半分腰を浮かせて立ち漕ぎのような姿勢になりながら、思い切り力を込めてペダルを左右交互に踏む。
「ど、どうやべーの!? ねえ! 隆暢!」
「はははは、やべーわこれ!」
 笑えないって! と僕が言うと同時に、突然ペダルが外れたみたいに軽くなった。そしてスピードが静かに、でも確実に上がり始める。下り坂になったんだ。そう気付いたとき、背筋がゾッとした。隆暢の笑い声もいつしか止んでしまっていたから。
「うわあああ!!」
 叫んだ。自分がこんな声を出せるなんて知らなかった。ただ夢中でペダルを漕いで漕いで漕いで。全身が焼かれてるみたいにひりひりして。汗なのか涙なのか分からない水が目の前を覆ったけど、ぼんやり見えた姿に必死で手を伸ばした。冷え切った肌の感触が、ハンドルから放していたほうの手の中に飛び込んできて、それから、でっかい光。
 荒すぎる呼吸はよく聞くと二つある。僕と、隆暢の。隆暢と僕は、声が全然違う。隆暢は少し嗄れた低めの声で、僕は気を抜くと馬鹿みたいに高くなる子供っぽい声だ。だけど、死にかけの、絶え絶えの息の音は、どちらも大差なかった。夏の終わりの雲一つない晴天のど真ん中、白い白い太陽は僕たちの遥か上空で冗談みたいにまぶしかった。

 九月。まだまだ暑い日が続く中、エアコンもない教室で行うにはあらゆる意味で辛すぎる企画が、ついに決行される。文化祭で、僕たちのクラスは出し物としてメイド喫茶をすることになった。男女問わず多数の賛成票が集まったから、今日は男女どちらもメイド衣装に身を包んでお客様に、いや、ご主人様とお嬢様にお給仕しなければいけない。
 可愛い可愛いメイドたちが、地獄の暑さに蒸されながらお出迎えする。隆暢も謙も乙も、最初は恥ずかしがっていたけど、今ではもう可愛さを振りまくことに衒いがない。僕だってそうだ。だけど、当初の予定にはなかった「頼めばビンタもしてくれるサービス」が追加されていることだけは未だに恥ずかしい。
 もうすぐ開店時間だ。地獄の蓋が開く。

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