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短編小説『水溜りの月』

 鏡に問う。
「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのは誰?」
 ではなく、ニヤケ顔でこう訊く。
「お前は誰だ?」
 繰り返す。リフレインするほど言葉は重みを増して、鏡はぼやけていく。
「お前は誰だ?」
 この恐ろしい表情をした男は、逸らしてしまいたい目は、叫び出しそうな口は、今にも飛び出して襲いかかってきそうな、お前は、誰だ?
 洗面台から男は呆けた顔で玄関へ向かう。何処へ行きたい訳でもないが、恐怖がこの場へ留まることを許さない。悲鳴を上げたくともそんなことをした瞬間に何かが自分を喰い殺すのではないか、そんな妄想が彼を黙らせていた。
 部屋を出ると心身の硬直は解けた。むしろ一体何を自分は怖がっていたのか不思議な程だった。年季の入った雑居ビルの明かりがまだらに照らす線路沿いの道を、夏の夜風を浴びながら歩く。高架下で一休みしていると、誰かがやってきた。逆光で男からは顔がよく見えなかったが、その人物は少し離れたコンクリートブロックに腰掛け、しばらくただじっとしていた。やがて物静かな散歩者はスマートフォンらしき物を取り出し操作し始めた。暗がりとこの距離だ、相手からは見えるまいという無意識の考えからつい目を離さないでいた男は、そこで我に返り目線を遠くへ逸らした。途端、通知音が響く。何の変哲もないトークアプリの通知音だ。誰からだろうと男も自分のスマートフォンを起動してみる。「坂口」というユーザー名の相手から「起きてるか?」とのメッセージを受信していた。突発性の自己乖離は自分だけじゃなく自分にまつわる全ての人を自分から遠ざけてしまうようだ。坂口、その名前も彼には曇った鏡に映る虚像だった。「起きてるよー」。とりあえず適当に当たり障りの無い返答。
「みたいだな」
 頭の上からした声に顔を上げると、スマートフォンに青白く片頬を照らされた男が、彼の前に立っていた。動揺した彼は何故かアプリで応えてしまう。またしても響く通知音。
「〈びっくりした〉……いや、口で言えよ」
 ぐうの音も出ず、今度は意図して文字で伝える。
「〈ごめんなさい〉……謝ることでも無いと思うけど。なんだよ、お前も寝られなかった訳ー? まあそうだよな……凄かったもんな! 俺もさ、早くこんな風になりてーなーって、もう興奮しちゃって全然寝らんないの!」
 何の話かまるで分からなかったがこのテンションを損なわせてはいけないと思い、自己乖離中の青年は精一杯話を合わせた。外国人と片言で会話しているかのように彼は感じた。
「ところでさ、ちょっと聞きたいんですが」
「何? あ、今の俺のオススメ? そうだなー、最近はなんだかんだやっぱ大手より小さい所の方が面白いんだよなー」
「そうなんですか、それも、うんとっても興味深いのであとでじっくり聞かせてもらいたいんですが、あの、俺って、誰ですか?」
 時間が止まったような、氷漬けにされたような目の前の見知らぬ誰か。たぶんとても仲が良いはずの誰か。電車が無粋な衝突音を立てて走り抜けるのに、割れてしまうのじゃないかと思わず抱きしめそうになるくらい、そのくらい結晶して見えた。
「それはあれ?」
「はっ!? えっ、あ、何?」
「哲学?」
「お?」
「自分とはなんぞや的な」
「我思う故に的な?」
「って訳でもない?」
「って訳でもないんすよねこれが」
「困ったな」
「うん、困った」
 はぁあー、と二人で大きな溜息をついた。チラチラと雲間を揺れる月はあと本当もう一歩で満月になりそうで、男は頭の中で満月にしてやらずにはいられなかった。
「免許証とか持ってないの?」
「あー、さっき見たんですけど、松坂洋一っていう名前にも、その松坂洋一さんだと思われる顔写真にも全く覚えがないんですよー」
「本人が無いんじゃ仕方ないけど、お前がその松坂洋一さんなんだよね」
「ですよねーこれはそういうことですよねー」
 坂口、恐らくそれが本名であろう男は何も言わず松坂、これもまた本当の名前である可能性の高い男を黙って見つめた。異様に長時間に亘ったもので、松坂が変顔でもしてやろうかとしたところで、坂口は言った。
「よし! 分かった!」
「んおおっ!? 何すか?」
「俺が証明してやる! お前が松坂洋一であることを!」
「えー? 出来るんですかそんなこと?」
「心配すんなって、お前自分がどんだけ……あ、いや……心配すんなって!」
「心配! え!? 何ですか今の言い淀み! 心配しかないですよ!?」
「落ち着け! 悪かった! この通りだから、どうか落ち着いて下さい、気を鎮めて下さいぃい……あれだけは、あれだけは勘弁して……」 
「……俺って一体」
 雨上がりの道路。十分な舗装のされていない至る所穴だらけのアスファルトには無数の水溜りが出来ている。満ちきらない月はその全てに反射し、わずかずつ異なった姿になっていた。風が吹く度に波立つ水面で、それらは笑うように揺れるのだった。
 月が綺麗ですね、そう言ってしまいそうになる美女が、街灯の下で待っていた。カラカラとよく笑うその人が、坂口の言によると──。
「お前の奥さん」
 らしいのである。うおお、全く覚えがないけどナイスだ俺。どうやってこんな人モノにしたんだ。松坂は感動し、小さくガッツポーズした。
 三人で川沿いの道を歩いた。その間中、松坂夫人はひたすら夫に二人の思い出を語った。大学のサークルで先輩と後輩だった、サークルで行った旅行先で罰ゲームとしてキスさせられたのが始まりだった、2年間の同棲生活の後、松坂が無事就活に成功するとすぐに二人は結婚を決めた。
 出来過ぎている。松坂は幸せそうに笑う自分の妻だという女に笑い返しながら思った。そんな教科書通りみたいな馴れ初めが、三流脚本家の作品みたいな人生が、本当にあるものだろうか。
「本当に、分からないんだね」
「ああ……はい、ごめんなさい」
「すぐ謝る。ずるいなー、私だけ覚えてて、あなたは忘れてるなんて。もう一回出会い直せるのはあなただけだなんて」
 トレンディドラマじみた独白をする女に、松坂はたまらず坂口の肩をつかんで少し離れた場所へ移動させた。
「なあなあなあなあ、マジで? あれマジで? あのヒト素であんななの? そんであんななのと俺は結婚してたの?」
「そのはずなんだけど……いやー、びっくりだよねー」
 敬語を使われるのは気持ち悪い、という坂口のために勇気を振り絞ってタメ語で喋ってみると、不思議なほど違和感がなく、あっという間に旧知の仲のように話せるようになった。というか、実際のところ旧知の仲なのだろうが。
「ビックリもビックリだよ。顔以外好きになる要素無いじゃん」
「まーね。でもその顔が好きだから結婚したんじゃない?」
「えー、俺そんな単純なやつだったの?」
「どちらかというと」
 あとは若い者同士、とかなんとか捨て台詞を残して坂口は跳ねるように去って行った。仕方なく散歩の続きを始めると、女は豹変した。大根役者の雰囲気は掻き消え、意思の強い女性のそれとなった。
「松坂さん」
 いや、あなたも松坂さんなんでしょう? とは言わせない圧を感じて男は何も言わず次の言葉を待った。想像通りといえば想像通りの事実が女の口から語られる。
「私はあなたの妻ではありません」
 嫌に音量のデカいバラエティ番組の馬鹿笑いが通り過ぎる家から漏れ聞こえた。
「坂口の妻です」
「あー……なんかそんな気がしました」
「お願いがあります」
「はい」
「一緒にあの男を懲らしめて下さい」
 ここで言うあの男、とは今し方楽しそうに消えたあの男以外になく、松坂にとっても自分を騙した相手である彼に仕返ししない理由も特に無かった。ただ、血を見ずには済まない彼女の計画には諸手を上げて賛同するわけにはいかず、松坂は時間を置くことにした。バー、カフェ、レストラン、どれもイマイチ状況にそぐわない気がして、彼は話し合いの場にカラオケを選んだ。適度に騒がしく、適度にプライバシーの守られる場所。
「あー! あー畜生! ざっけんなってんだよー! なーにが倫理的に問題は無いだありまくりだボケ!」
「まあまあ」
「一夫一妻は先進国に倣って取り入れられただけの形ばかりの制度だぁ? んじゃあその先進国は何でそういうルールでやってたんだよ、あぁ!?」
「どうどう」
「マジ本当リアルにあり得ねーよあいつ死んだりすれば良いのに」
「死んだり? 死ってそれと並列させられるような何かあるの?」
「チックショウがぁコラァ! もう一杯、つーか癪だ! ボトルごと持って来い腐れネズミども!」
 実はジンジャーエールではないものを飲んでいるんじゃないかという勢いでひとくさり坂口の悪評をぶちまけると、女は今度は一転して弱気になり、泣きながら自らの反省点を誰にともなく謝罪するのだった。夜も更けた頃、財布にあったなけなしの金を全てテーブルにそっと置いて松坂は店を出た。眠気に拍車をかけるような優しい激しさで、朝日は彼を襲った。ほぼ気絶しそうな状態でフラフラと並木道を歩いていると、突然肩を掴まれ、朝から元気な悪人さんがいるもんだなあと振り返った彼が見たのは目の縁を赤く腫らした女だった。
「せっかくだから! あ、私笙子ね、さか……今んとこまだ坂口、笙子。せっかくだからさ、もうちょっと、夫婦ごっこしない?」
 何種類かの蝉がどういう訳か律儀に一種類ずつ順番に鳴いていた。陽炎が見渡す限り全方位に見えても暑そうだなー大変だーと何故か他人事のように見ていた。照り返すアスファルトの焦げ臭さに混じって甘いような香りがした。夏の空気。胸一杯に吸い込んで、出来たら吐き出さずにいたい、むせ返る幸福の空気。
「松坂洋一です。こちらこそよろしく」
 知ってるけど? そう言って笑う彼女の顔の前をすごい早さで何かが通り過ぎた。砂嵐のように、吹雪のように、無数の粒子が合わさって一本の糸になり、それがまた合わさって巨大な糸になり、さらにそれらは集まって流れて、きっと、だから、今目の前を通ったのは、銀河だった。水溜まりが蒸発して雲に溶けて雨になって循環する途中で宇宙へはみ出した雫。松坂の挨拶と笙子の笑顔は誰も知らない宇宙の片隅で何千回もループした。その度に松坂の顔面すれすれを銀河は流れた。やがて彼の肉体も大気圏外へ弾き出される。呆気なく内側から破裂して、血も骨も肉も無くなって、彼はただの欠片になる。宇宙の塵になって漂う。だがそれもすぐに終わる。粉末の身体は燃えながらオゾン層を突き抜けて、また地球へ、日本へ、ここへ、彼女の前へ、それは銀河だった、水溜まりだった、月だった。
 お前は誰だ?
 無駄な遠回りをして、時間をかけてようやく答えを思い出した頃にはチャイムが鳴って、答案用紙は白紙のまま回収される。無記名の、空欄だらけの紙には、でも実は裏面に落書きを施してあったのだ。
 松坂は思い出した自らの記憶を、見なかったフリで遠ざけた。そして笙子に笑い返す。銀河の通り跡に身を焼かれながら、水溜まりの中の月を裂く。

 三度の冬を越えて、四度目の夏が来る頃には、もう松坂は決めていたのだった。偽物の夫婦生活を、いい加減本物に変えるのだ。
 突然パートナーに切り出された話を、しかし笙子は安堵した思いで聞いた。彼女とて知っていたのだ。彼の本当の人生は、いつまでも目を背けたままでいられる程、易い物ではないことを。
 スポーツドリンクのような透明になりかかった限りなく薄い青色の空から、二人が部屋を出るタイミングを狙い澄ましたかのようにザザ降りの雨が注ぎ始めた。狐の嫁入りだ、そう思った時、松坂の頭に奇妙なイメージが浮かんだ。和装して結婚式に臨む自分の姿である。しかし、何故か彼は女性用の衣装をまとい化粧をしていた。隣で笑うのは、笙子、ではないのだった。狐につままれたのは、俺か、それとも俺が狐で、笙子のことをつまんだのか。狐の、婿入り? いや──。
 いつしか雨は上がって、見間違いのような判然としない小さな虹がビルの陰に佇んだ。車から降りてその家を前にした時、松坂の心を通り過ぎたのはあの日の銀河の名残りだった。チリチリと音を立てて焦げる胸の内を、彼はどこか快く感じながらドアベルを鳴らす。ややあって見えた顔は、一瞬の妄想の中の物と全く同じだった。女装した自分の横で男装して緊張しながらも精一杯笑おうとしていた女。
 俺の、妻。
「ただいま」
 無意識に口を衝いて出た松坂のそれまでの時間などまるで感じさせないその言葉に、対する女も「おかえり」とどこまでも平凡な受け答えをした。考える間もなく身体は旧の動きを覚え直すように少しの危うさをもって靴を脱ぎ、玄関へ上がった。笙子はこれで永遠に松坂は失われてしまったのだと確信した。帰るまでは、全てが終わるまでは泣くまいと、彼女はこっそり自らの片頬を平手打ちした。
 虫の知らせ。松坂の本当の妻である女、圭はそう言った。洗濯物を取り込むのもそこそこに彼女は玄関で松坂を待っていたのだそうだ。すっかりずぶ濡れになってしまった衣類を両手いっぱいに抱えながらも、圭は芯から嬉しそうに話すのだった。玄関口での挨拶から先、二の句の告げないでいる松坂とそもそも何を言うべきかまるで分からない笙子にはお構いなしに圭は空白を埋めようとするかのように喋り続ける。彼女にしか見えないタイマーの数字に急き立てられるように。彼女だけが今にもブザーが鳴りそうな、残り時間があとわずかしかない電光掲示板を前にしていた。
「……それからそうだ、由依の高校卒業祝い買いに行かないとねあの娘確かペンタブ? だっけなんかあのパソコンで絵描けるやつ欲しいって、あーそうそうそういえばあの革ジャン、あなたが休みの日の度にニッコニコしながら着てたあの高級品、虫食っちゃってたよー? せっかくだけど捨てちゃう? 場所がね、目立たないところならいいけどなんせ胸のあたりだから、まあでも新しいの買いに行こうよ、由依も一緒に、三人でほら……それから、それからほら……あれだよ……」
 雨がまた降りだした。腕の中の衣類を投げ出して圭は庭へ飛び出した。洗い立ての洗濯物は泥にまみれる。大変大変! と大声をあげながら彼女は残りの洗濯物を荒っぽく取り込む。その姿に松坂はとうとう堪えきれず言うのだった。強い風に、部屋の中まで雨が吹き込んでくる。
「ごめん」
 もはや絶叫となっている圭の話す言葉と、嵐のような風雨に掻き消されないように彼はもう一度ハッキリとした声で繰り返した。
「ごめんなさい」
「何で謝るの!? 洋一、あなた何か悪いことした!? してないよね!? 単身赴任、お疲れ様! お疲れ様! お疲れ様あぁっ!!」
「圭!」
「喋らないで……何も、お願いだから何も言わないで……そしたら、元通りじゃない? 何も無かったのよ、だってあなたは帰って来た。ほら、私と由依とあなたがいる。家族が全員揃ってる。それだけでいいじゃない? 何もおかしくない。どこにも問題は無い」
 話しながら彼女は膝が震え始め、言葉が尽きると同時に泥水の中へくずおれてしまった。今までどこにいたのか、気配も無く現れた少女は掃除をするように事務的に圭を抱きかかえ、縁側へ投げ込んだ。それは文字通り投げ込むといった動作だった。由依は、突然スイッチの切れる母親の扱いには慣れきっていたのである。
「久しぶり」
 煙草を咥えながら由依は父親に挨拶する。何の感情も感じさせない声で、彼女は箱の中の一本を松坂に勧めた。礼を言って彼はしばらく吸っていなかった煙草を味わった。未成年喫煙を注意しようという気には全くならなかった。する必要を彼はまるで感じなかった。親子は降りしきる雨に打たれながら、会話も無くただ煙を喫んでいた。

 またも止んだ雨は消えきる前に新たな虹を架ける。二重の虹は見ているとどこか遠くへ連れ去られて行きそうだと松坂は思った。見惚れているといつの間にか知らない場所に居て、目を離してようやくそれに気付く。そんな風にどこかへ消されてしまうような怖さと期待を同時に呼び起こす七色の2乗だった。
 父と、母と、娘と、父の不倫相手。おかしな四人組は謎の和やかさでドライブに向かった。アルファベットチョコレートの袋が車内を10周ほどした頃、車は停止し、四人は歩きだした。日は既に傾いてミカン色の街は姿を変えようと準備していた。三たび小降りに雨は降る。おかしな天気だ、と空を見上げた由依は思わず声を漏らした。
「すげ……」
 いちご牛乳のパックを飲み終えたのであろうズズゥ、という音を立てながら茫然とした様子で彼女は一人先頭に立って歩いていった。上ばかり見ている少女に釣られて空に目を向けた三人は由依と同じく呆気に取られてしまった。
 塔。夕間暮れの空の中に堂々たる塔が聳えていた。どうやらそれは積乱雲が竜巻一歩手前で瓦解を始めている物のようだった。嵐の恐ろしさよりも儚い美しさばかりが目立つ巨大物体はみるみるうちに空へ溶け出していく。跡形も無くなった時にはもうとっぷりと日は暮れきっていた。ただでさえ涼しい一日だ。夜となればもはや快適を極めていた。
 寒さすら覚える夜風。分厚い排ガスの向こうで光る北極星。川から届く水の流れる音。そんなあれこれがひどく心地いい小高い丘の上の駐車場へ四人はやってきた。裏の林を抜けると海へ下りる道があることを松坂は知っている。曲がり、歪み、千切れ、錆びて朽ちゆくガードレールにもたれて家族は遥か遠く見える自分達の住む街を眺めた。街灯は少なく、夜にはほとんどの店が早々に閉まり、コンビニも数えられるだけしかない。そんな中で光るのは家々の仄かな明かりだった。月の光にほんのわずかに照らされる海底のように、闇の底でぼんやりと揺れる蜃気楼のように、生活はそこに存在していた。
「じゃあね」
 またね、とは圭は言わなかった。彼女の感じていたもう二度と会えないのだという確信は、松坂を優しく牽制した。追い掛けようと踏み出した片脚は、由依の「さようなら」という声に止められる。
 さようなら。
 愛が、人一人の一生分にも値するような膨大な愛が宿っていた。由依という少女の、顔を見たのなどもう数年ぶりだった自分の娘の、精一杯最大限の愛をもって告げられたのは別れの言葉だった。
 車のエンジン音が聞こえなくなってから、松坂と笙子は歩き出すことにした。街へ戻るまでは中々の距離がある。防風、とあと防塩も兼ねているのだろう金属製の、何という名前なのかよく分からないやつ、松坂は小さい頃から勝手にそれをバリアーと呼んでいたのだが、そのバリアーが終わるところに変電所がある。ブゥー……ンと本能的に命の危機を感じる鈍い音に顔をしかめながら変電所の隣に店を構えるレンタカーショップで車を借り、二人は街へ戻る。
「さようなら」
「……えっ?」
「あ、ごめんそういう意味じゃなくて」
「……えっ?」
「あー、あー、いやあ、あのさー、我が娘ながら素晴らしい“さようなら”だったなーっていうさー。……ごめん、ちょっと、ごめん」
「いいよ」
 路肩に停められたバターのように黄色い軽自動車は、それから小一時間ほど動かなかった。
「ということで、すうぇぬぁぐぁく! よぉるぉすぃくぅぬぇぇ!」
 一番の復讐はしつこくいつまでも夫婦で居続けることだという結論に辿り着いた笙子の坂口への逆プロポーズの言葉を聞いて、松坂は静かなカフェの中にいるのも忘れ爆笑していた。同じテーブル席でコーヒーを口に含んだ所だった少女はたまらず彼の背中をばしばしと叩いた。諭すよりも「釣られ笑いするからやめて!」という切実な意思がそこにはあった。何とか散水せずに済んだ少女は誰に一番怒ればいいのか分かりかね、取りあえず松坂にもう一撃加えたのだった。娘からの激しいスキンシップに、松坂は少しだけ冷静になる。屈託無く笑う由依と圭。いたずらっぽくほくそ笑む笙子と、心の底から嫌そうにする坂口。さあ、そして、ここで馬鹿みたいに幸せに座ってる俺は、誰だ? 人は自らを映す鏡という。ならまたあの日のように俺は鏡に向かって問う。
 お前は誰だ? 
 鏡は答えて言う。
「あなた」
「お父さん」
「洋一」
「クソ野郎」
 カップの中に浮かぶ電球の明かりが、満月のように輝いていた。

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