短編小説『たとえば季節が廻ったら』
会いませんか。
画面に現れたその言葉を見た瞬間、私は今までの人生(って言ってもたった十七年だけど)で一度も感じたことのない高まりを覚えた。椅子から立ち上がり部屋をぐるぐるしても落ち着かなくてベッドにダイブしごろごろと左右に転がる。それから仰向けになって天井を眺めながらぼんやり考えた。会いませんか、っていうのはつまり、会いませんか、私とどうですか、って……こと……だよな……。
「えええ……?」
ピコッ、という音がしたのでスマホを見ると、マッチングアプリ「ピタリカ」から通知が届いている。タップしてみれば「すみません、やっぱり今のナシで」というチャットが来ていた。相手は「くらりねっと」という方。私が面白半分に登録するとすぐに連絡をしてきた男性だ。彼とはあっという間に意気投合し、気づけば一番仲の良いネッ友になっていた。半年ほどやりとりをしていたが一向に会おうという話にならないのできっと向こうも私のように暇を持て余して遊んでいるだけなのだと思っていた。好きな音楽や漫画からどうしようもない愚痴まで、ほとんど一方的に語る私の話をいつも彼は面白そうに聞いてくれた。ちなみに顔も超良い。サブカル女子を殺すタイプの顔面をしている。特に髪型が素晴らしい。そんな彼からオフで会わないかという提案が来てしまったものだから私はもう色々と何がどうなってんのかよく分からない。でも「ナシ」になってしまうのは……それは、嫌、かもしれない。
今日買ったばかりの楽しみにしていたバンドの新譜も耳を虚しく通り過ぎるばかりになってしまったので私はもうやけくそになった。「会っちゃいます?wwww」と限界まで不誠実な返信を送った。「やったあ」と返ってきたのに気づいてはいたがその夜はもう知らないふりを決め込んで寝た。
週末午後一時に駅前の電気屋の入り口で、と翌朝になるとトントン拍子で話は進み、とうとう待ち合わせ場所と時間まで決まってしまったので私は……私は……ここ数年で一番気合を入れた格好で今、彼の言っていた場所にいるが。いるけども。現在時刻午後一時半。一向にそれらしい人は現れないし連絡も来ない。やっぱり遊ばれたんじゃない? と思いながらも悔しくて自分からは連絡できないでいた。何が悲しくて野生のモンスターをアプリ上で必死に捕まえようとするオタクの群れの中で貴重な十代の時間を浪費しなければならないのかと泣きたくなってきているのであと十分待っても音沙汰無い場合は帰ろうと決めた。
折しも花粉が隆盛を極める季節。マスクも無しで外に立ちっぱなしなのは物理的にもそのくらいが限界だ。ほとんど歩行者天国と化した十字路の角で行き交う人々をきっと真っ赤になっているであろう目で睨めつけるこんな私をもし現れたとしてくらりねっとさんはどう思うかな。いや、でもここまで待たせたあなたが悪いんですよ。責任取ってくださいね。薬局なんて腐るほどありますからね。具体的には目薬とかでね。ふふふ……と、開口一番「責任取ってください」って言ってビビらせてやるんだ、なんてそんな馬鹿な妄想をしていた時。肩を叩かれた。モンスターの交換なんかしないぞ、とキレてやろうと思いながら振り返った私の目の前にはめちゃめちゃ知り合いがいた。そこにいたのはめちゃめちゃ友達な、めちゃめちゃにクラスメイトな女の子。短めの髪を片方だけピンで留めてアシンメトリーにしている。人が人ならきっととても大人っぽく見えるのだろうがいかんせん童顔なせいで女子小学生のような雰囲気になってしまっている。でもそれがなんだかとても可愛かったりもする。そういう女の子。
「理也、なにしてるの?」
「奈々じゃん、そっちこそ……あ、待って」
片手を彼女の前に突き出し私は顔を背けた。そして大きく上体を逸らし、勢いよく頭を振り下ろしながら──。
「ぶぇっくしょーい!!!」
スッキリしたのだった。神様。今朝までの純情な私ってなんだったんでしょうね。可愛かったなあ私。色んな事想像してさ、いやー、可愛い女の子だったよ、実際。
もうなんもかんもおわり、という気分でいる私に奈々はベージュのウェストポーチからポケットティッシュを渡してくれる。ありがとう、とすら言えずにハチャメチャな勢いで洟をかんだ。かんでかんでかみまくった。モンスタートレーナー達はそんな私を揃って見つめている。おう、なんだてめえら、捕まえられるもんなら捕まえてみやがれ。私のヒットポイントは既にマイナスだぞ。
「あのさあ! 出会い系で知り合った男がいんの!」
勢いのままに語る言葉を奈々はうんうん、とうなずきながら聞いてくれた。でもさすがに視線が痛いようで口にこそ出さなかったが手と顔で「とりあえず歩こう」と促してきた。経緯を全て喋りつくすと奈々は連絡してみたら、と言う。確かに、もうこれっきりネット上でさえ顔を見たくないのだから最後に不満をぶつけてやってもいいかもしれない。私はスマホを取り出し、彼へ「クソビビりチェリーくん何の連絡も無くてウケますわwwwwふざけろwwww」と投下してやった。まさにその瞬間、チーン! というベルの音がし、奈々がスマホを取り出した。そして目にもとまらぬ速さで何かを入力する。彼女の手が止まると今度は私のスマホからピコッ、と……私が今日何度も幻聴した、頼むから鳴ってくれよと思っていた音がした。「くらりねっと」から返信が来ている。「誰がビビりですかwwwwちゃんと来てずっと待ってたんですがwwww」とのこと。いやいや、散々探し回ったけどアンタみたいなイケメン何処にも……そこまで考えた時、この数十秒の間に起こったことを思い返してある一つの推測が生まれた。私は確かめるために一言声に出してみた。
「……くらりねっと」
奈々は私を激しく二度見した。
焼肉食べ放題奢りの刑。私が奈々に課した罰を彼女は甘んじて受け入れたので近場にあったまあまあ高そうな店に二人で入った。マップに表示された一目で「ヤバい」と分かる店は奈々の必死の懇願により避けることになってしまったのはちょっと納得いかない。
「なんで?」
香草と共に大皿に載って現れたてらてらと艶かしく輝く肉たちを丁寧に網の上に並べながら私は問う。
「だって絶対高いじゃんあんなの……勘弁してよプリンセス・リヤ様」
「違うそっちじゃない。なんでさ……くらりねっと……つーかじゃああれ誰なの」
「……兄貴」
「うっそ紹介しろ」
「無理だよ」
「なんで」
「兄貴ホモだから」
「それは嘘」
「嘘じゃないししかも素人童貞」
目の前の肉がまずそうに見え始めたのでこれ以上彼女の兄の話をするのは賢い選択ではないと私は判断した。「くらりねっと」に話を戻すと奈々はバツが悪そうにテーブルに両肘をついて頭を抱える。
「ごめんねえ~」
じゅうじゅうと焼ける肉の煙の向こうで彼女は謝罪を繰り返した。ふざけているように聞こえるのは元々そういう声質なせいで、どうも本気で悪いと思っているらしいことは何を言っても「ごめんなさい」しか返ってこなくなってきたところで私にもやっと分かった。
「……分かったよ。奢ってもらうんだし、許すよ、奈々のこと」
「やったあ」
お? 煽ってんのか? ぴゅあぴゅあ天使ガールだった数日前の自分が彼女の返事によってよみがえってきてやっぱり一生許さないでおこうかなと少し思ってしまう。
「馬鹿女釣って遊ぼうと思ったんだよ~兄貴顔だけは良いから~」
あ、やっぱ煽ってんの? 殴る? こいつ殴る? たぶんあまりの怒りに呆然となってしまっていたであろう私を見るとさすがの奈々も失言に気づいたようだった。慌てて両手をぶんぶんと振りながら身を乗り出し、煙をまともに喰らって「あっつ!」とかもんどり打つ。
「おおお……やっべえ……死んだ……三回くらい……」
「おめでとうごぜーやす」
「ありがとう……いや、それで、違うから。馬鹿女をー、ね? 釣ろうとしたらー理也見つけ……ぶっは!」
「ねえー!? なんなのこの子ー!」
「ちが……ちがう……ぶっはあ! ……ひひひひひひ。あー、ごめ、んねえー……」
「なーにがちがうんですかーせつめいしてくださーい」
「分かった、あのね? 馬鹿女っていうのは理也じゃない」
「おう」
「理也は賢い」
「へえ」
「でも見つけちゃったからさ。こんなのもう遊ぶしかないと思っちゃいました」
悪びれもせず言いやがったので私は焼肉店を出た後ゲーセンで目当ての巨大ぬいぐるみをゲットできるまでは絶対に彼女を解放しない地獄の番人となりました。五千円かけても空を切るばかりのクレーンを見かねて私が五百円を投入すると出てきたぬいぐるみを奈々は「すごいすごい!」とかぬかしながら心の底から嬉しそうに笑ってぎゅうっと抱きしめるので「そのまま持って帰りやがれ」と命令してやりました。「ありがとう!」とさらに可愛い顔で言って彼女はぬいぐるみごと私に抱きつきます。なんだってんだ。もっふもふじゃねえか。気持ちいいじゃねえか。くそが。
「ホテル行こっか」
抱きつかれたまま耳元でささやいてみると奈々は一度大きく全身を震わせた。ぬいぐるみのせいで数倍になった衣擦れの音をさせながらゆっくり私から離れる。それからぬいぐるみを抱えて固まる。
「いやそこは悩むなよ」
てっきり笑ってくれるものと思ったのに奈々は「……いいよ」と言った。
……………………え、何が???
シャアアア……じゃねえんだよな。シャワーの音が聞こえてくるのも隣の部屋からベッドがギシギシきしむ音が漏れてくるのも絶対間違ってる。それでもって一番おかしいのは私が部屋を歩き回りながら無性にソワソワしてること。どこもかしこも真っ赤もしくはピンクで、なんとなく仄暗くて、ふとベッドに腰を下ろしてそばを見遣ると、このご時世きっとドドド田舎の路地裏かこんなところにしか存在しないであろうバラエティ豊かにあの商品を取り揃えた背の低い自販機がある。あと意味わかんないけど泉もあるよ。ちっちぇえトレビの泉が窓際に鎮座してるよ。でも一番上にいるのは肉体美を誇る彫像じゃなくて小便小僧で、ずーーーっとチロチロ水出てんのがほんっとうに、ウザい。
「ごめんね、お待たせ」
ほかほかの身体から湯気を上らせて奈々はバスタオル姿でシャワールームから出てきた。さっきは焼肉の煙で三回死んでたくせに、確実に照明やお湯のせいだけでは生き返り方をしてる。赤いカーペットに血色の足跡をつけながら私の隣に座った。ショッキングピンクの掛布団にもじわじわ水が染み込んでいく。ピンが外されてシンメトリーになってしまった濡れた髪が顔に貼り付いている。焼肉からゲーセンと煙臭い場所ばかり巡った後なので甘ったるいシャンプーの匂いが襲い掛かってくるのも心臓によくなかった。
「それで?」
奈々は裸足の足の指をまるでピアノでも弾くように波打たせてそんなことを言った。
「これから私たちはどうなるの?」
肩をくっつけてきたのでせっかくの気合の入った服が台無しになっていく。よりにもよって白いブラウスにそれは最悪だ。右腕から少しずつ水は繊維を浸していった。でも離れることが出来なかった。
「楽しみだなー、女二人、ベッドの上でくっついてる。理也、このあとはどうなるのが正解?」
隣の音漏れはシャワーの音が消えたことで一層はっきり聞こえてくるようになる。木のうなりだけではなく、声までもが途切れ途切れに耳に入ってしまう。
「あ! しかも借りまであるよ! 私は理也を騙して気持ちをもてあそんだ。あーあとぬいぐるみも取ってもらっちゃったね、うわあーこれはもう駄目だー」
奈々はベッドに倒れ込んだ。大の字になって天井の鏡に映る自分を眺め、楽しそうに高笑いをする。可愛い。うきゃうきゃとはしゃぐ奈々はとても可愛く見えた。それに反して呆けたように口を開けて上を見上げる私はひどく不細工だ。こんなに自分の顔を醜いと思ったのは初めてだった。許せないと思った。なんかもう全部が許せない。もうだめー、と、ころころ笑って奈々は言う。そうだね。ここまで私、全部駄目じゃん。
急に湧き上がってきた怒りに任せて奈々の顔のそばに両手をついた。必要以上に弾力のあるベッドは大きく揺れ、奈々の身体は一度跳ねてから静まった。私の影の中で彼女と目が合う。光源を失った瞳からはさっきまでのような興奮は読み取れない。虫眼鏡で蟻を焼き殺す気分。残酷な欲望に満たされながら奈々の両目を見つめ続けていると、彼女はとうとう目を逸らした。口をきつく結んでどこか違う場所を見ている。
「……私はレズじゃない」
死ぬほど喉を引きつらせながら私は言った。すると奈々は私にまた目を戻す。強い眼光。今度は私が目を逸らしそう。
「私の兄貴は素人童貞だけど?」
だからなんだ。
大真面目な顔で言うにはあまりにも不似合いなセリフに困惑する私を尻目に奈々はもう一度言う。兄貴は素人童貞だけど、と。
「いや、だからなんだよ」
「……ビックリだよね」
「アンタにね」
「久々に話しかけてきたと思ったらディテール超細かいカミングアウトだった時の妹の気持ち想像できる?」
心なしか早口で言って、奈々は立ち上がった。そしてバスタオルを脱ぎ捨てる。とっさに目を閉じてからしばらくしておそるおそる薄目を開けると、もう完璧に服を着直していた。イルカなのかサメなのかよく分からないぬいぐるみもしっかりヒレが手に握られている。
「……行こう」
笑って言う顔はやっぱり可愛いけど、どうしようもなく胸が締め付けられた。
たとえば季節が廻ったら、私は彼女ともっと違う形で一緒にいられるだろうか。そして彼女もその兄と分かり合えるんだろうか。何周も、もしかしたら何十周かしないと難しいかもしれないけど、たとえば季節が廻ったら。それだけできっと変わっていくことはたくさんあるはずだから。帰り道、謎生物の右ヒレを握りながら私はそんなことを思っていた。奈々は左ヒレを握っている。柔らかくて気持ちいいけど、どことなく物足りなさがあるのは否めない。
ヒレは改札でついに私の手の中からいなくなった。奈々は向こうからぬいぐるみの両ヒレを振って「じゃあね!」と言って去っていった。今の私にはヒレが無い。そんなふざけたないものねだりに苛まれて立ちすくむ。花粉の季節なんてすぐ消えてしまえと思ってたけど案外役に立つものだ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってても変に思われないから。