石木ダム問題と2022年長崎知事選挙~少数意見を反映させる選挙方法はある!?~
タイトル画像は、こうばるほずみさん作「ダムのツボ」(P8石木川の自然・川魚編)より
2022年2月20日に長崎県知事選挙があったのは、ご存知だろうか?
長崎県知事選挙で、初めて石木ダム問題を争点にあげる立候補者が出たことは、画期的な出来事だった。
長崎県の石木ダム水没予定地には13世帯の人々が住んでいる。今現在も、バキバキと木を切られ、ゴリゴリと大地を削り、ガガガガッと大音量で重機が動き、自然が壊されてゆく様は、そこに住む人々の健康も削り取られているようで、気が気でない。
しかし、日本の片隅の小さな村の、少数者の問題だと思われがちな石木ダム問題は、大きく話題になることは少ない。私は、この問題は日本の行政のあり方、そして公共事業のありかたを考える象徴的な問題だと思い、なんとしても注目を集めたいと、ただただオロオロとしている。
石木ダムを作る予定の石木川は、子どもたちが水遊びをするのにちょうどいい小さな川だ。九州の山間部で育った私には、その冷たい水の感触や、深呼吸したくなる空気、鳥や虫の声、気持ちよく吹き抜けてゆく風を感じることが出来る。
石木川のほとりでの暮らしを映し出したドキュメンタリー映画「ほたるの川のまもりびと」の予告編だけでも見てほしい。
石木ダム計画は1962年に持ちあがった計画だ。なんと、私の生まれる1年前。私も生まれてもうすぐ60年だが、私の60年の人生だって、ものすごい変化があった。なにしろ、電話やテレビや洗濯機がひとつずつ家に置かれるようになり、スマホもパソコンも手にしたのはここ最近の出来事だ。
世界だって1960年代にはアフリカ諸国の独立が相次ぎ、人々が人権を勝ち取ってゆく歴史的出来事が続いた。
なのに、60年も前の計画を、無理やり推し進めようとするその理由はなんだろう?この計画は60年後の世界を予測できる程の予知能力のある計画だったのだろうか?それとも、実は今や必要でないことはわかっているのに、60年前の人権意識のなさそのままに、人々の生きる権利も尊厳も、無視して推し進められているのだろうか?
この60年もの歳月を、豊かな自然を守るために闘わざるを得なかった人々のことを知って欲しい。その闘いは今現在も続いていることを知ってほしい。ただただ「ちゃんと説明してください」と言い続けた60年。その間、行政の担当者は変わり続け、巨大公共事業の利権だけが動機となって、計画実行ボタンが押されたまま、既成事実だけが積み上がってゆく。行政側のだれも責任を取らない。国のだれも責任を取れない。
そんな状況の中迎えた2022年2月20日の長崎県知事選挙。多くの県民にとっては関係ないと思われた石木ダム問題を、「自分に関係がないと思うならなおのこと、自分に関係のないことの為に538億円もの税金を使うことを考えてほしい」と訴える立候補者が現れたのだ。
立候補者は3人。ひとりは、無所属ながら政党推薦のある現職・中村法道さん。同じく無所属ながら政党推薦のある新人・大石賢吾さん。そこに石木ダム問題を争点にした市民推薦の新人・宮沢由彦さんが加わった。
ありがちだが、少数派の立候補者は、「どうせ落ちるんだから出てくるな」とか「邪魔するな」とか「票が割れるから迷惑」などの声が上がる。ひとりを選ぶ選挙となると、なおのこと「少数派は黙れ」という状況になる。
だから、立候補前に水面下で調整などということが当たり前に起こっている。本来ならば、立候補するのも、意見を表明するのも自由であるべきだし、選挙運動のなかで議論を戦わせるべきだ。それが民主主義だと思う。なのに、立候補以前の水面下の調整の時点で少数意見は消えてしまう。そして問題は人々の口に上ることもなくなる。だからこそ、宮沢さんは、石木ダム問題を選挙期間中語り続けた。
結果は
無所属新人・大石賢吾さん 23万9415票 当選
無所属現役・中村法道さん 23万8874票 落選
無所属新人・宮沢由彦さん 4万6794票 落選
なんと一位と二位の差が541票という僅差で無所属新人の大石知事が誕生した。宮沢さんは供託金没収という痛手を負いながらも、4万6794人もの、石木ダム問題を問う市民の存在を明らかにした。
この結果を見た時、決戦投票制だったら、、、と思わずにいられなかった。多数決だけが選挙方法でないことを教えてくれた本がある。
「多数決を疑う~社会的選択理論とは何か~」坂井豊貴著<岩波新書>
https://www.iwanami.co.jp/book/b226328.html?msclkid=42adb21ac08611ec893d9ad3c57c190d
『多数決は「票の割れ」にひどく弱い(はじめにⅢ)』と言い、『より優れた意志集約の方法を作れるはずだ(同ページ)』と言う。また『多数決の選挙で勝つためには~結果として選挙が人々の利害対立を煽り、社会の分断を招く機会として働いてしまう(はじめにⅤ』と言う。そして『自分たちのことを自分たちで決めたいならば、自分たちでそれが可能となる社会制度を作り上げねばならない』と言い。『この本~テーマは投票、より具体的には多数決の精査とその代替案を探索すること(はじめにⅦ)』と言う。
目から鱗とはこのことだ。それでだ!私は選挙が嫌いだった。少数意見は反映されず、社会の分断を招く機会になっているとしか思えない現行の選挙制度が。
本文でも、『多数決は、人々の意志を集約する仕組みとして深刻な難点があるのではないだろうか(P10)』と言い『有権者の無力感は、多数決という「自分の意思を細かく表明できない、適切に反映してくれない」集約ルールに少なからず起因するのではないだろうか(P10)』と言う。
そして、人々の意志の集約ルールの数々を、紹介してくれる。多数決がすべてと思っていた私は、びっくりしてしまった。例えば、一番を選ぶだけでなく、二番、三番も選ぶ方法などもあるらしい。この方法を使えば、熱烈に一番に選ばれる人が強烈に嫌われる場合もあるので、二番として多くの人に選ばれた人がリーダーにふさわしいという結果だって導き得る。
他にも、多数決がすべてではないという例がある、国会での議員立法だ。100%賛成、すなわち全会一致でなければ成立しない仕組みになっている。しかし、議員立法が全会一致でないと成立しないから、理念法にとどまらざるを得ないことは残念なことだ。法律は出来たのに、予算が付かず(予算を付けようとすると反対されることが多い)使えない法律になってしまうからだ。
さて、決選投票制だ。フランスの大統領選挙でも使われていると言う決戦投票。首長選挙などでは、よりよい結果を得られるのではないだろうか?
この長崎県知事選挙がまさにそう。この541票差の1位と2位で決選投票をすると想像してみてほしい。1位と2位に投票した人の票はほとんど動かないだろうから、この場合、決選投票の決め手になるのは、3位の4万6794票だ。この4万6794票を獲得するためには、石木ダム問題をどう扱うにかかってくるわけだ。まさに決選投票では、石木ダム問題が最大の争点となるわけだ。多数派も少数意見を聞かないわけにはいかなくなる。だれもが、自分の一票が選挙の決め手になるかもしれないとなれば、投票率も上がるのではないだろうか。
この著者は、フランス革命の思想的な象徴であるルソーの政治思想に触れつつ解説を進める中で、『どうすれば人間が奴隷にならない、自由にいられる社会を築けるのだろうか。そのための手段が互いを対等の立場として受け入れ合う社会契約である(P73)』と言い『各人が契約する相手は~「自分たち」つまり自分を含む契約当事者たちが構成する共同体である。この共同体を人民という。また、束ねた権利のことを主権という、人民に主権は属するので、これを人民主権という。人間は多様だが、彼らが行う契約行為は完全に等しいゆえ、社会契約は人々の間で完全に対等である(P73)』と言う。
そして、『契約しようとする人間の基礎は何かというと、利己心である。~それは利他心というより節度ある利己心である。~この節度ある利己心の根っこの感情とはどのようなものか。それは「他者との関わりのなかで、自分は軽く扱われたくない」という尊厳の感情である。この感情が暴走しないで「他者が自分を尊重するなら、自分も同様に他者を尊重しよう」という抑制の効いた心理が生まれたとき、社会契約は可能となる(P79)』と書いてある。
私たちは、互いに対等で、自由な社会を築けているだろうか?だれかを軽く扱っていないだろうか?だれかの意見は聞くまでもないと切り捨てていないだろうか?