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誰も言わないから私が言うね「りゅうさん助けてあげられなくてごめんね」

りゅうさんが浮かばれない判決だったね。りゅうさんの死を無駄にしない為に、ひとりひとりに出来ることがあるから、そのことを書くね。

2020年7月に京都で、重度知的障害のある17歳のりゅうさんが、介護に疲れたお母さんに命を絶たれるという痛ましい事件があった。当時私は何をしていたのだろう?と日記を開くと、コロナ禍で次郎の施設利用がままならず、それに伴い私の生活も振り回されていた。この事件はどの程度報道されたのかわからないけれど、私はこの親子のことを知らないままに過ごしていた。

最近になって2021年12月13日に京都地裁で判決が出るという記事(12/6付)を見て始めてこの事件を知った。Twitterなどで「お母さんがSOSを出せなかった」とか、「どう向き合えばよいのだろう」などのつぶやきを見るにつけ、『いや、お母さんはSOSを出してたよ!』とか『この問題に向き合うとかいいから、どうしたら助けられたか考えようよ』などという私の心の声は大きくなり、遂に私は居ても経ってもいられなくなって、12月13日の京都地裁の判決に行くことにした。

当然ながら次郎も一緒だ。私がひとりで身軽に行ければいいのだけれど、そんなわけにはいかない。次郎の支援計画は1か月前から決まっていて、急な私の用事で頼めるサービスはない。京都地裁で11時15分からの判決に間に合うように行くには、6時ごろの出発になる。次郎が普段利用している生活介護事業所は9時のお迎えだから、お休みして次郎を連れて行くしかなかった。ちなみに、1か月前からわかっていれば、前日のショートステイを頼めたかもしれない。しかし、ショートステイ先の部屋の確保や、ヘルパーさんの手配が上手くいかなければ利用は出来ない。

次郎と一緒に行くとなると、乗り換え時間を倍にして考えなければならない。障害者割引を受けようとすると本人確認のために駅員さんが居る改札を通る必要があったり、JRであればみどりの窓口での切符の購入が必要だったりするからだ。それに加え、次郎はエスカレーターに乗れない(強い乱視に加え、苦手を克服するのだ!という過去の指導のトラウマで遂に乗れなくなってしまった)ので、階段を手すりにつかまりながら上がり降りするか、エレベーターに乗るしかなく、階段は時間がかかるから、エレベーターを使うことが多い。だから私たちはいつもエレベーターを探して迷子になっている。

それでも障害者割引で安く乗れるからいいじゃない?と思うかもしれないけれど、障害者割引は乗車券にしか適応されず、特急券に割引はない。『特急券に割引がない』というと、『え、なんでなんですか?』と驚かれることもあるので、説明をすると、、障害者割引というのは、事業者のサービスでしかなく、国の事業ではないのだ。国土交通省は、「障害者に配慮しなさい」と事業者に指導はするけれど、そのための予算があるわけではない。だから、鉄道やバスなどの事業者が、子どもを半額にするサービスと同じように、障害者割引をしているだけなのだ。だから他のサービスとは併用できないし、場合によっては、他のサービスの方が安かったりする。事業者にしてみれば、『サービスしてやっているのに、文句言うな!』なのだと思う。ついでに言えば、タクシーは一割引きをしてくれているけれど、個人タクシーになると、運転手さんが一割儲け損ねるわけだから、あからさまに嫌がられることもある。それは運転手さんがわるいのではなくて、制度がわるいのだ。国が補填するのであれば、そしてその手続き料も上乗せして補助があるのであれば、障害者にも優しくなると思うのだ。

話を鉄道に戻そう。ICカードでほとんどの人が自動改札を通って行く中、私たちは有人改札を通る。最近は無人化も進み、駅員さんの居る改札を探さないといけない場合もある。やっと有人改札を見つけても駅員さんの助けを求める人が多く待たされることもざらだ。人員削減はサービスの低下だけでなく、駅員さんの仕事量も増やしていると思う。

幸い次郎は、切符をもらうという楽しみと駅員さんと触れ合うという楽しみのために、有人改札に寄ることになんの苦痛もないので、むしろ普段はその不便さを楽しんでる。ただ、今回のように時間が決まった場所に行こうとした時には、途中でどんなアクシデントがあるかわからず、早めに家を出ることにした。

出発は朝5時40分。出発の10分前に次郎は決まって愚図る。出かけることが楽しみで仕方ないから早く出たいのだ。玄関で準備が出来たと私を呼ぶ。『まだか?まだか?』と催促をする。片や私は、あと10分あれば、おにぎりを持って出ることが出来ると残りご飯でおにぎりを作っていた。なにしろ乗り継ぎに時間がかかる私たちは売店に寄っておにぎりを買うことが出来ないかもしれない。お腹が減っても愚図る次郎のために、私も必死だ。だから出かけ前はいつも修羅場になる。

夜が明ける前に家を出る。これで乗り換えさえ間違えなければ着くはず。乗り換えのエレベーターの位置まで、確認済みだ。なにしろエレベーターがホームの端にあることも多く、ホームの端から端まで歩くこともあるからだ。今でこそ手荷物が減ったとはいえ、手提げ袋に紙をパンパンに詰めた次郎が、人にぶつかりながら歩くから、気が休まる暇がない。

そうこうしながら、予定の新幹線に乗れた時には、胸をなでおろした。途中のお弁当屋さんで次郎が欲しそうにしていたのはわかっていたが、あそこでお弁当を買っていたら、遅れていた。新幹線の席に身を沈めながら「よく我慢してくれたね」と次郎を褒めたものだ。

”障害は不利益の集中”と言われることがある。私は次郎と一緒にいる時に、まさにそうだと感じる。社会がより早くより便利になってゆく中で、障害者のことは取り残されているのだ。次郎と不利益の集中攻撃を受けながら、なんとか次郎念願の新幹線に乗れた。


さて京都地方裁判所だ。

次郎のすごいところは空気が読めることだ。裁判所の空気にピタリと大人しくなって、黙って並び、黙って座った。私も、ひとりも知り合いも居ない京都地裁の101法廷で、時間が来るのを待った。法廷には、被告人(りゅうさんのお母さん)のお友達だろう方、親戚だと思われる方などが駆け付け、私は少し胸をなでおろした。1人で重度知的障害のある17歳の息子を育てていた被告人にも、心配してくれる人が居ることがせめてもの救いだった。この事件に心痛めてくれる友達がいることは、これからの被告人の人生を支えてくれるはずだ。

それから、報道関係者が報道の準備をする。テレビカメラも来ていた。ここに来るまでは、全く注目をされていないのでは?と思っていたので、少し安心した。17歳の知的障害者が亡くなったことをなかったことにしないで欲しい。

裁判長が着席した所をテレビカメラが映して、テレビカメラは退出した。あ、と気づくと被告人が手錠に腰縄で入廷したところだった。私は腰縄のかかった被告人の腰の細さにびっくりした。細い小さな女性だった。報道によると、息子の介護と認知症の兆候のある親の介護が重なり、一時は食事が喉を通らなくなり体重が33kgにまでなったとあった。小柄な女性とは言え33kgの段階で、生死の問題だと気づかれなかったものか。

被告席に着席した被告人に、裁判長ははっきりとした声で、判決を言い渡した。

下された判決は懲役3年、執行猶予5年の有罪判決だった。

「執行猶予5年」と裁判長が口にした瞬間、何人かの報道関係者が外に走っていった。この裁判では、有罪か無罪か?有罪ならば、実刑か執行猶予がつくのか?が問題だったのだ。

そして、その理由を裁判長は述べた。

被告は重度の知的障害のある17歳の息子を献身的に介護してきたが、認知症の兆候のある親の介護も始まり、自身のうつ病も悪化するなか、7月に高校卒業後の受け入れ先を探すも、見つからず悩んでいたという。事件当日も施設の送迎の地域でないことから断られた。家に帰りお風呂後の息子が服を前後ろ逆に着ていることを指摘すると、服を破いたり、被告を羽交い絞めにしたりした。落ち着いてから、眠らせようと自身に処方されていた睡眠薬を飲ませて寝かせた。「誰に託したらいいのかわからない。連れていきます」と遺書を書き、一緒に死のうとして息子だけ死なせてしまった。動機の形成には同情の余地が大きく、自らも反省していることが判決理由だった。

裁判員裁判の中で、始めて被告の苦労が認められた形になったのは皮肉なことだった。もうりゅうさんは戻ってこない。

私は執行猶予が付いたことは以外だった。次郎越しに聞く”執行猶予”は、次郎たち知的障害者の命を軽く見積もられたような気がして納得しかねている。裁判員さんたちは、次郎を前にしても、なお同じような判断をしたのだろうか?これからも次郎たちが殺されても、殺した者の罪は軽くなるのだろうか?殺されてしかたなかったということなのだろうか?

裁判長が、いかにりゅうさんの介護が難しかったかを説明したけれど、それはりゅうさんの所為ではない。例えば2歳児が殺されたとして、2歳児がわるかったと思う人は居ないだろう。私はりゅうさんは2歳児のようだったのだと思う。りゅうさんは2歳児のように大変で、2歳児のように可愛かったのだと思う。ただイヤイヤ期の2歳児にはない力を、りゅうさんは持っていたから、お母さんにはもう抑えられなくなってしまっていたのだと思う。

そのために支援はあるのではないのか?お母さんには出来なくなったことをサポートするのが福祉だろうに。17歳だったりゅうさんは、児童相談所に緊急保護だってしてもらえたはずなのに。ひとり親がうつ病で希死念慮がある状態なんて緊急だったろうに。

これは支援の失敗なのだ。

判決の中で、さらっと、高校卒業後に行く施設が見つからず絶望したと言ったけれど、どうして、7月の段階でそんなにも絶望しなければならなかったのだろう?りゅうさんを預かってくれる施設を3月までに探せばいいはずなのに、「今、見つけておかなければ行くことろはもうないですよ」なんてことを言った人がいるはずだ。だから、まだ7月だと言うのに絶望することになったのではないか?どうして「きっと見つかるから、がんばりましょう」と言えなかったのか?それとも、本当にりゅうさんの行き場のないような絶望的な福祉サービスの実情があるのだろうか?

不思議なことはもっとある。7月半ばと言えば、夏休みをどうするか?で頭を悩ます季節だ。目前の夏休みの預け先はあったのだろうか?夏休みは充分なサポートを受けられていたのだろうか?心中を決意するくらいだから、楽しい夏休みなんて待ってなかったことだけはわかるけれど。

私は、心中をするに至る動機は、長年の蓄積だと思うから、だれがわるいとか、何がわるいと言いたいわけではない。けれど、裁判では、問われることがなかった支援体制がどのようなものだったのかを知りたい。どんなサポートが受けられていて、何がなかったのか?どうして、りゅうさんの命が危険に晒されていることに気づけなかったのか?なにがあれば、りゅうさんを助けられたのか?

少し遡ると、2020年3月にはコロナ対策で、突然の休校があった。この休校で悲鳴をあげた家庭は多かったと思うが、障害児の居る家庭は声にならないうめき声をあげていた。りゅうさんは、この休校の間、どこで何をして過ごしたのだろうか?コロナ対策の影響は小さなことではなくて、次郎だって大変な影響を受けた。当時次郎は学校は卒業していたものの、卒業した学校にバイトに行っていて、突然の休校と共にバイトを失い、その後、次郎と私はさ迷うことになった。助けられて辿り着いた東京でも、次郎を預かってもらえる所がなかなか見つからず(コロナ禍で受け入れを中止している事業所も多かった)やっと見つかった時には、安堵したからか私の身体が悲鳴をあげた。持病の腰痛が出たのだ。次郎の相談員さんに「息をするのも痛い」と言ったら、「それは大変。次郎君のお世話は無理ですね」と、次郎を”緊急一時預かり”する手続きをしてくれた。あっと言う間にすべての関係機関に連絡をしてくれて、次郎を預かってもらえた。本当に助かった。相談員さんには心から感謝している。なにしろ自分が住み始めた市に”緊急一時預かり”という制度があることも知らなかったし、その制度を作ってくださった先人にも感謝している。

話を公的支援から離れて、私たちの何気ない日常のことにも触れておきたい。

よく、私たちは『ひとりで抱え込まないで』と言われる。しかし、逆にこうも言われることも知ってほしい。例えば、「障害のある子は、あなたを選んで産まれたのよ」とか、「乗り越えられない困難はないって言うでしょ。だからきっと大丈夫」などと言われる。

それから、私も随分「立派なお母さん」と言われてきた。「次郎ちゃんは、あなたの所に産まれて幸せだね」とも言われた。「えらい」とすごく言われてきた。私はそれを誉め言葉だと思って、喜んで受け止めてがんばってきた。

「えらいお母さん」って言われたら、がんばるしかないじゃない?

これら褒めているようで、孤立を強いる言葉を受け取りながっら、ひとりで抱え込む事態が産まれることを知ってほしい。

だから、私は自分の人生を横に置いて介護をしている人がいても、けっして「えらいね」とは言わない。本来なら、だれもが自分の人生を生きられるように、だれも犠牲にならなくていいように、公的支援制度を作ってきたはずだ。もし、自分の人生を諦めて介護をしている人がいれば、公的支援制度の不備なのだから、改善すべきだ。


この事件は判決が出て終わりではない。私は、この判決で終わりにしてはいけないと思っている人々と繋がって、二度とこのような事件を起こさない社会を作ることを、りゅうさんに誓います。

書くことで、喜ぶ人がいるのなら、書く人になりたかった。子どものころの夢でした。文章にサポートいただけると、励みになります。どうぞ、よろしくお願いします。