本因坊の歴史③本因坊道悦

皆様こんばんは。
先日の封じ手予想は大外れでしたね😅
形勢不利の意識もあったのでしょうが、一力棋聖らしい踏み込んだ打ち回しでした。

さて、本日は本因坊シリーズの第3回です。
前回書いた通り、安井算知と本因坊算悦の争碁は1952年に中断されました。
その6年後の1658年に算悦が死去、さらに10年後の1668年に算知は長年空位となっていた名人碁所に就きます。
既に51歳となっていた算知としては、ようやく時期がきたと思っていたのではないでしょうか。

ですが、それに異議を申し立てる人物が現れました。
それが本因坊道悦(1636~1727)です。
道悦は算悦の弟子で、22歳で本因坊を継いでいます。
自分との対局が無いということで、寺社奉行に争碁を願い出ました。
名人就位は幕府に許可されてのことですから、それに意義を唱えるというのは大変なことです。
道悦は負ければ島流しになると脅かされたそうです。
本当に島流しになったかどうかはともかく、控えめに考えても碁打ちとしては終わりでしょうね。
しかし、道悦は屈しませんでした。
結果、算知との六十番碁を命じられます。
算知と算悦の争碁は局数が決まっておらず、しかも年に1局のペースで6局打って終わりました。
それと比べれば、全く空気が違っていることがよく分かりますね。
道悦は上手(七段)、算知は名人(九段)ということで、手合割は道悦の常先でスタートしました。

番碁というものについては補足の必要がありますね。
現代で番碁と言えば、現在進行中の棋聖戦七番勝負などが思い浮かびますが、目的は既定の局数での勝ち越し者を決めることです。
しかし、それは定期的にタイトル戦が行われるようになってからの話です。
かつては番碁と言えば、どちらが強いかを示すために行われました。
村瀬秀甫と本因坊秀栄の十番碁、呉清源九段の十番碁などが有名ですね。

さらに、「手直り」という制度があります。
時代によって変わりますが、四番手直りか六番手直りが主流でした。
対局者間での成績が規定の局数勝ち越しになった場合、ハンデが一段階移動するというものですね。
うわ手側から見て当初よりハンデが大きくなることを、「打ち込む」などと言います。
現代でも、若い人などは一番手直りという形で対局することもあると思います。
大抵は早碁で行われるので、ひどい結果になることもしばしばですが、あくまでその時限りのものです。
しかし、昔の手直りは極めて重い意味を持っており、本人同士の段位よりも優先されることもしばしばでした。
打ち込まれたものを戻すには、勝ち越しを重ねて打ち込み返さなければならないのです。

手直り制の恐ろしいところは、局数が増えれば必ず打ち込みが起こるということですね。
数局のうちに打ち込むことは難しくても、局数によっては勝率数%の差でも打ち込みが発生します。
昔の棋士は、日常的に打ち込んだり打ち込まれたりを繰り返していたのです。
その結果次第で自然と段位が決まっていたという面もありますね。

というわけで、なぜ六十番というとんでもない長丁場が設定されたかは明らかですね。
当時は六番手直りが主流でしたが、それでも手合直りには十分な局数です。
算知としては自分が格上の手合を維持できれば、名人の正当性を示せるということになりますね。
道悦からすれば、少なくとも互先にまで打ち込まなければ異議申し立てに正当性が無く、島流しも止む無しということになります。

結果としては、第16局にて道悦が9勝3敗4持碁と6番勝ち越し、先相先に打ち込みました。
さらに、手合直り後も道悦の3勝1敗となったところで算知が碁所を返上、まだ算知上位の手合ながら番碁は二十番にて終了となりました。
1675年のことです。
常先での3敗4持碁が示すように、道悦は当初苦戦しました。
しかし、その後急に押し始めたのは弟子の道策(1645~1702)の存在が大きかったと言われます。
道策は囲碁史上最高レベルの大天才です。
そんな人物が背後についていては、勝ち目がないと悟ったのでしょう。
既に算知は58歳になっており、道悦は39歳です。
その年齢差も意識したでしょう。
番碁には7年かかっています。
もし当初の予定通り1年で二十番打つことになっていれば、道悦はもっと苦労したかもしれませんね。
2年後、道悦も公儀に異を唱えた責任を取り、本因坊を道策に譲っています。
同時に道策を名人碁所に推挙しましたが、どこからも異議が出ませんでした。
道悦自身も名人格として遇されることになり、92歳まで生きています。
争碁を争った算知も長年御城碁の立ち会いを続け、87歳まで生きています。
囲碁史上に残る戦いを繰り広げた両者ですが、恵まれた生涯であったと言えるでしょう。
さて、それでは対局をご紹介したいと思います。
1972年10月24日の争碁第18局、道悦の黒番です。

1図(実戦)

布石の思想は現代とはかなり異なりますね。
特に白10などは、黒Aと三々に入られたら困りそうです。
白Bには黒Cの滑りがぴったりで、白10の手が遊んでしまいますからね。

2図(実戦)

とは言え、囲碁の基本的な考え方はそう変わるものではありません。
布石で言えば石の強弱と勢力圏争いですね。
黒1~7とスピードを重視する道悦に対し、白6、8と戦いを重視する算知の好対照です。
現代のプロなら、白8ではAが一番人気でしょうね。


3図(実戦)

黒1ではAと飛んで左の白との力関係を重視する手もあります。
また、黒3、5は保留して黒Bなどの打ち込みを残す方が普通です。
しかし、コミ無し碁ということもあり、確実に白地を小さくしていくのが道悦の流儀ということでしょうか。
寄せ勝負なら自信あり、ということもあったかもしれません。

4図(実戦)

黒3、5は現代のプロはあまり使いませんが手筋です。
白Aと受ければ黒B、白C、黒Dと打ち、1目を抜かせている間に下辺を突き抜こうというわけですね。
黒5に対して白Eなら、黒Aと出て戦うつもりです。
白としては、何か一工夫したくなります。

5図(実戦)

白△のツケ!
捌きはツケからですね。
黒Aと受ければそこで白Bと打ち、黒C、白D、黒E、白Fとなって黒は手が出ません。

6図(実戦)

そこで実戦は受けずに黒1と出て、白は2と連打する振り替わりになりました。
隅を荒らしながら生きた利益が大きく、分断された白×にも活力が残っているので、白が上手く捌いたと言えるでしょう。
もっとも、これは算知ならではと言うほどのものではありません。
驚くべき仕掛けはここからです。
白Aと打てば普通ですが・・・。

7図(実戦)

白1、3のツケ連打!
1つの手筋ではありますが、この場面で思い付く人はなかなかいないでしょう。
何故この発想が生まれたかと言えば、まず白1で堂々とAと打ち込むのは不利な戦いになります。
となると、一旦白Bと好点に打っておくことが考えられますが、すると黒Cと模様を広げられるのが嫌だったのでしょう。
そこで、実戦のようにツケの連打を放ち、正面衝突ではなく捌きを求めました。
白3に対して黒Dからつながってくれば、その間に辺で生きられるというわけですね。
しかし、ここで黒も驚きの一手を放ちます。

8図(実戦)

黒△のツケ!
黒も技を返していきました。
単なる良し悪しに留まらず、相手を打ち負かすという気迫を感じる一手です。
これぞ生きた碁ですね。

9図(参考図)

ツケに対して白1と受ければ、黒2、8を利かして白を丸取りしてしまおうということですね。
白Aと渡る手が無くなっています。

10図(実戦)

ということで、黒11までお互いに地を破り合う予想外の振り替わりになりました。
面白いものですね。
もっとも、途中の黒1を利かしたところはちょっと不思議ですね。
黒Aで利かした方が得だと思うのですが、何か嫌なことがあったでしょうか。
白12に回り、いつの間にか形勢は良い勝負になっています。


11図(実戦)

そこで、思い切って黒1と広げました。
白2と消しにこられましたが、この手はちょっと捕まえようがありません。
そこで、黒3から右辺白にモタれて壁を作っていきました。
現代碁のような空中戦ですね。


12図(実戦)

白1、5と進出しました。
この白を直接的に追いかけても、中で簡単に生きられてしまいそうです。
そこで、再び黒6、12とモタれていきました。
かつての武宮正樹-趙治勲戦を思わせる展開ですね。


13図(実戦)

趙治勲ではないので、白1の当て一本で白3と守りました。
白Aと受けるのは、黒Bと打たれて流石に怖いでしょうね。
黒Aの抜きが残ったのは黒にとって大きな利益ですが、それに満足せず黒6から追及しました。


14図(実戦)

黒6、8も鋭い追及です。
気合が入っていますね。
ここで白Aと打ちたいところですが、死活に心配があったでしょうか。

15図(実戦)

実戦は白1(Aの所)~5を決めてから白7と押しましたが、ポン抜きを与えたうえ、白×を取り込まれたのは大きな損失でした。
黒10に回って黒優勢です。

16図(実戦)

黒12まで進行しました。
黒×を取り込んで生きましたが、上辺の黒地が固まって黒勝ちが明らかになりました。
白3では4と踏み込んだ方が良かったですが、黒の優勢は動かないようです。


17図(実戦)

ここまでの進行が棋譜に残っています。
結果は黒6目勝ちとなりました。
この対局だけ見ると、55歳とは言え算知は十分な力を保っており、1枚上手かもしれないという印象すらあります。
しかし、徐々に苦しくなってきていることを肌で感じていたのでしょう。
第17局は1671年、第18局は1672年、第19局は1763年、第20局は1765年に御城碁を舞台に行われていますが、この間隔には政治的な理由もあったのでしょうか?
いずれにしても、囲碁界を揺るがす争いは終結しました。
そして絶対的な存在が治める時代へと移っていきます。


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