本因坊の歴史・序
皆様こんばんは。
将棋界では藤井聡太八冠誕生というニュースがありましたね。
全体のレベルが上がっている中でのタイトル独占とは、とてつもない偉業だと思います。
囲碁界でも、七冠時代の井山さんは隔絶した強さでした。
さて、それでは久しぶりに記事を書いていきたいと思います。
半年ほど前、本因坊戦実施方法の変更が発表されました。
変更の概要についてはこちらをご覧ください。
とにかく、ショックの一言でした。
棋戦契約については1年~数年ごとに行われることが普通で、これまでも度々変更されてきました。
平成以降、多くの棋戦で対局料が下がり続けてきたのは確かですが、それでもトップ層の賞金や対局料はある程度守られていたと言えます。
しかし、今回ついに本因坊戦で賞金額も大幅に減額、リーグ戦も無くなってしまいました。
この流れが続くと、対局だけで生活できる棋士は遠からずいなくなってしまいます。
プロの世界に関しては、コロナショックよりも深刻な状況と言えるでしょう。
このような形になってしまったものの、手の打ちようがないとは思っていません。
本因坊戦には84年ほどの歴史があり、現在まで続くタイトルとして最古のものです。
しかし、本因坊という名跡についてはその比ではなく、400年を超える歴史を持っています。
その伝統に価値を認められないはずがありません。
そこで私も、微力ながら本因坊の歴史について世に広めていければと考えています。
囲碁の伝来~本因坊家の創設
囲碁というゲームは、諸説ありますが2000年~4000年ほど前に誕生したとみられています。
発祥についても中国説、インド説、チベット説などあるそうですが、日本へは中国経由で伝わったことは間違いないでしょう。
年代は不明ですが、少なくとも7世紀以前であることは記録から明らかです。
当初、日本で囲碁を楽しんでいたのは上流階級が中心でした。
枕草子や源氏物語に囲碁の描写があることは有名ですね。
その後は時代の変化により囲碁を楽しむ層が広がり、室町時代あたりに庶民も囲碁を楽しむようになったと言われています。
そして江戸時代に入ると、囲碁と将棋の家元が創設されました。
囲碁では本因坊、井上、安井、林の四家です。
この四家に対して幕府から給与を支給されることになったので、これが日本における囲碁棋士の始まりと言って良いでしょう。
彼らにとって最も大きな舞台は、年に1回の御城碁でした。
将軍の御前で各家の代表者同士が対局するというもので、出場することは大変な名誉であると同時に、家の命運がかかった過酷な戦場でもありました。
また、囲碁界の第一人者は碁所または名人と呼ばれる特別な地位に就くことがありました。
権力も名誉も非常に大きく、この地位に就くための争いもまた激しいものでした。
そのために棋士たちは普段から腕を磨いていたわけですね。
その環境の中で、現代の棋士が見ても素晴らしい数々の棋譜やドラマが残されています。
江戸時代の終焉・苦難の時代へ
江戸時代は長きに渡る平和な時代でしたが、永遠に続くものはありません。
次第に幕府の力が衰え、終焉へと向かっていきます。
それに伴い、囲碁の家元への給与も打ち切られてしまいました。
囲碁界の苦難の時代の始まりです。
出火という事情もあったとは言え、本因坊家の当主が倉庫暮らしをしていた時期もあったほどです。
しかし、棋士や支援者たちは諦めませんでした。
家元という枠組みに留まらない団体もでき、普及にも力を入れながら切磋琢磨を続けていきます。
特に、当時広まり始めた新聞との相性が良く、棋譜が掲載されることで囲碁ファンにとって棋士の対局は身近なものとなっていきました。
日本棋院設立
四家の中で安井家、林家は断絶、井上家もかつての力をすっかり失っていました。
唯一本因坊家は威信を保っていたものの、後継者争いなどもあり囲碁界は混沌とした時代でした。
その中で囲碁界の大スポンサーであった大倉喜七郎氏の呼びかけにより、1924年に日本棋院が設立されました。
囲碁棋士誕生から300年以上の時を経て、初めて一つの団体に棋士たちが結集したのです。
もっとも、その後も一部の棋士による新団体設立という混乱はありましたが、それも棋士たちのエネルギーの表れだったかもしれません。
本因坊家から本因坊戦へ
新聞の囲碁欄が人気を博すようになり、棋士の対局の意義は大きく変わっていました。
そんな中、本因坊秀哉名人は大変な決断を下します。
それは本因坊の名跡を日本棋院に譲渡するというものでした。
これで家元としての本因坊家は無くなり、1941年には実力制の本因坊戦が始まりました。
その後すぐに戦争が始まるものの、その中でも本因坊戦は続けられました。
8月6日には広島への原爆投下により、対局者の橋本昭宇本因坊と岩本薫七段が被爆するという事件もありましたが、その日のうちに対局を終えています。
本当の意味での命がけの対局は、現代ではとても考えられないことですが、どれほどの強い思いがあったのでしょうか。
本因坊の名はあまりにも大きく、1950年には橋本本因坊が関西棋院を率いて独立するという碁界を揺るがす大事件もありました。
関西棋院が現在に至るまで独立した大きな団体として存続していることを考えると、本因坊戦は囲碁界全体を動かしてきたとも言えるでしょう。
現代の本因坊戦
その後も本因坊戦では激しい戦いが繰り広げられました。
実力制本因坊戦では、これまでに18名が本因坊に就いています。
雅号を名乗ったり、また永世称号として〇世本因坊を名乗ることがあるのも本因坊戦特有のものですね。
家元制の本因坊は21世まで続きましたが、実力制になってからは本因坊文裕の26世まで繋がっています。
本因坊の名に敬意を払ってのことですね。
さて、かなり簡略化しましたが本因坊家誕生から現代の本因坊戦までの流れをまとめてみました。
詳しく調べたい方はネットや書籍などをご参照頂ければと思います。
今後は歴代本因坊一人一人について、棋士である私の視点でご紹介していきます。
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