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「見事に殺す」 〜自然農という生き方〜
知人と鶏を絞めて捌いた。
3年前は教わる側だったが、今は伝える側にもなった。
他のいのちを殺して生きることは、当たり前のことであるのに、日常では見えなくなってしまっている。
川口由一さんの本の中にある、「見事に殺す」という言葉が心に留まり、最近読み返している。
揺れ動く感情の中で、ひとつの指針になりそうだ。
”人が生きる行為は、他のいのちを見事に殺し、我がいのちを生きる。これは「貪り」とはちがう、人間、あるいはすべてのいのちあるものにとっての基本の行為です。採集であれ、栽培であれ、その能力を衰退させ失ってはなりません。”
”「貪る」とは、足るを知らず、必要以上に他のいのちを殺し、無駄に消費することです。「基本の行為」には、憐れみや同情は起こりえず、一体の中で別なく食べて生きています。生きるにおいて、他のいのちに憐れみやかわいそうと感じることは、生命力の衰退です。”
”この基本の生きる営みを、罪深きことと捉えてはいけません。他のいのちを殺して食べてよいのです。いのちの世界のこの営みに、罪やけがれを感じる宗教観に陥ることなく、生ききっていないといけません。しかし同時に、「足る」を知らなければなりません。本当は足りて過不足なきいのちの世界に住んでいるのです。”
”鶏を殺すときは見事に殺さなくてはなりません。生きる基本となる強さが必要です。ためらうと、死なせきらずに苦しめることになってしまう。”
鶏を殺し捌いた後は、毎回くたくたになる。自力で行えば、何でも必要以上の消費はできないのだろう。