手巾に隠された涙 近代化で揺らぐ道徳観
みなさん、こんにちは!
しらいです!
今回はいつもと趣向を変えて(といっても本関連ですが)、芥川龍之介の『手巾』を読んで興味深かったところや考えたことを書いてみます。
青空文庫で読めるので、興味のある方はぜひ!
はじめに
まずはザックリと物語をまとめてみます。
※ポイントになるところは太字にしてあります
この物語は、東京帝国法科大学教授の長谷川謹造先生を中心に展開します。先生は、西洋近代戯曲に興味を持ち、ストリントベルクの「作劇術」を読んでいます。先生は西洋の演劇を研究する傍ら、日本の武士道にも強い関心を持ち、現代日本の精神的堕落を救う道は武士道にあると考えています。
ある日、先生の元に教え子であった西山憲一郎の母、篤子夫人が訪ねてきます。息子は腹膜炎で亡くなったばかりでした。先生は篤子夫人に息子の容態を尋ねますが、夫人は驚くほど冷静に息子の死を伝えます。悲しみに暮れる様子はなく、むしろ微笑さえ浮かべているように見えます。先生は西洋人であれば感情を率直に表現するはずだと考え、篤子夫人の態度に違和感を覚えます。
しかし、先生は偶然、篤子夫人の手に握られた手巾が激しく震えていることに気づきます。夫人は顔では笑っていても、実際には全身で悲しみに打ち震えていたのです。先生はこの姿を見て、篤子夫人の内に秘めた深い悲しみと、それを表に出さない武士道的な精神に感銘を受けます。
先生は篤子夫人の振る舞いを「日本の女の武士道」だと賞賛し、妻にもその話を伝えます。そして、「現代の青年に与ふる書」という雑誌の寄稿依頼を思い出します。今日の出来事を題材に、武士道の精神について書くことを決意します。
ところが、再びストリントベルクの「作劇術」を読み始めると、そこには「顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂く」という芝居がかった演技についての記述がありました。先生は、篤子夫人の手巾を握りしめていた姿を思い出し、型にはまった行為との間で葛藤を感じ始めます。
物語はここで終わります。
都都逸と『手巾』の共通点
ここから、個人的に考えたこと、芥川が読者に提示したことなどを書いていきます。
私は『手巾』を読んで、「恋に焦がれて鳴くセミよりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす」という都都逸を思い出し、日本人の精神性における共通点を見出すことができるな、と思いました。
都都逸:
表面的な賑やかさよりも、静かに燃えるような情熱を秘めている蛍の姿に、日本人の奥ゆかしい美意識が表現されている。
手巾:
西山篤子夫人は、息子を亡くした悲しみを表面に出さず、静かに微笑みをたたえながらも、手巾を握りしめる手に激しい感情を滲ませている。
どちらにも共通するのは、感情を直接的に表現せずとも、内に秘めた強い思いや情熱が、奥ゆかしくも力強く表現されている点です。
篤子夫人は一見すると冷静さを保っているように見えますが、実際には手巾を握りしめることで、深い悲しみを静かに表現しています。これは、周囲への配慮を重んじながらも、自分の感情を押し殺さず、静かに表現するという日本的な心情を表していると言えそうです。
都都逸の蛍も、鳴くセミのように自己主張をするのではなく、静かに光を放つことで、その存在感を示しています。これは、派手な自己表現よりも、内に秘めた情熱や美しさを大切にするという日本的な美意識に通じるものがあると思いました。
このように、感情を抑制しながらも、内に秘めた情熱や意志を表現するという点で、都都逸と『手巾』は共通していると感じました。
日本の女の武士道の礼賛:型と本質
芥川は『手巾』の最後でストリントベルクの「作劇術」を引用することで、日本の女の武士道を単純に礼賛するのではなく、読者に対し、本質を見落としている可能性を提示しています。
長谷川先生の賞賛と葛藤:
長谷川先生は、篤子夫人の感情を抑えた態度を「日本の女の武士道」と賞賛し、奥さんにもそのように語っています。 しかし、ストリントベルクの「顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂く」という二重の演技=「型」についての記述を読んだ後、先生は不快感を覚え、考え込んでしまいます。
これは、篤子夫人の行動を「武士道」という型に当てはめて解釈していた先生自身が、型にはまった見方をしていた可能性に気づき、葛藤を感じている様子を表していると考えられます。
作劇術と篤子夫人の共通点:
ストリントベルクが批判する「型」は、舞台上の演技であり、篤子夫人の行動とは直接的には関係ありません。しかし、「感情を押し殺し、外面的に平静を装う」という点において、両者には共通点が見られます。
篤子夫人の行動は、周囲への配慮や社会的な規範によって生まれたものであり、必ずしも「武士道」という高尚な精神に基づいたものとは言い切れない可能性も示唆されています。
読者への問いかけ:
芥川は、作品を通して、読者に対し、表面的な行動や型だけを見て、その背後にある複雑な感情や本質を見落としていないか、という問いかけをしています。
特に、長谷川先生のように、「武士道」という理想や固定観念に囚われ、現実を正しく認識できていない可能性を、ストリントベルクの「作劇術」を対比させることで浮き彫りにしていると考えられます。
というわけで、『手布』から、興味深かったところや考えたことを書いてみました。
『手巾』は、型と本心、外面と内面の複雑な関係を通して、人間の本質を問いかける作品と言えますね。
これが何かのお役に立てれば幸いです!
ではでは!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?