手帳デバイスの収集に関する試論(手書きデジタルノートとその収集:後編)
はじめに
デジタル手帳の味わいについて
後編(この記事)では、収集されるデジタル手帳、つまり書き手の元を離れて他人に読まれる記録媒体としてのデジタル手帳を見ていきます。
(※この一文が意味不明な場合は、若干の宣伝にはなりますが、著者がオーナーである手帳類図書室のサイトをごらんください。これは東京都参宮橋にある、1時間1000円で様々な人によって個人的に書かれた日記やスケジュール帳を読むことができる施設です)
デジタル手帳のルックス
まず最初に物理的なモノとして手帳を確認します。当然といえば当然ですが、基本的な外見は端末の種類ごとに同じです。Supernote A6XはどのSupernote A6Xも同じ見た目をしています。厳密には、カバーを選択する、シールを貼るといったカスタマイズはできるし、傷などによる経年劣化の痕により、個々の端末の見た目は異なります。それでも、表紙にマジックで題名を書いたり、中のページを破ったり付箋やレシートを貼ったり……といったバリエーションを持つ紙の手帳と比較すると、物質としての違いを出しにくい、感じられにくいといった想像はつきます。
特に中身です。個々のページが物質であり厚みを持つ紙の手帳と、仮想的なページであるデジタル手帳では大きく異なり、それは存在感や個性の違いとなっています。
個々のページについてはどうでしょうか。ページ構成や各ページのフォーマット(ページのレイアウト)はバリエーションが無制限に作れる(フォーマットを無料で入手したり買うこともできる)点では、電子的な手帳のほうがバリエーションが確保できそうに感じます。もっとも、紙の手帳においてもルーズリーフを自由に組み合わせたり、ページのフォーマットを自作することもできます。何なら手帳自体を自作することも可能ですが、それでも時空を超えて人々の考案したフォーマットを使ったりさらに自分で加工したりできるのはデジタルの強みです。
と同時に、フォーマットが多彩になればなるほど、フォーマット研究といった展望が開ける一方で、もしかしたら同じフォーマット同士を比較するのが困難になるといった懸念もあります。紙の手帳だと、例えば「ほぼ日手帳」「コクヨのキャンパスノート」といったカテゴライズで使い方を比較することが容易です。
デジタル手帳ならではの記録の味わい
物理的なモノの次に、書かれた物としての手帳の中身(記録データ)について確認します。ここには、デジタルデータであることを活かした、さまざまな分析の可能性があります。紙の手帳もデジタル化できますが、大量のデータをスキャンするにはお金や時間がかかるため、そもそもがデジタルである手帳の方が都合が良いです。
記録に持たせるメタデータ次第でさらに興味深くできます。メタデータを活用した例は(いつも挙げさせていただいて恐縮ですが)文章を書く過程をすべて記録し再現できる「TypeTrace」があります。「TypeTrace」はキーボード入力ですが、手書き入力であれば、同じ文字であっても形、大きさ、筆圧といったさらなるメタデータを(デバイス次第では)得ることができます。例えば全記録から「疲れた」という文字列を検索しつつ時系列に見ていくことで、込められた感じなどを分析できます。5年間記録された手帳であれば、最初の頃に書かれた「疲れた」と4年目に書かれた「疲れた」にデータ分析的な違いを見いだし、さらにそれを手がかりにして、書き手の変遷や到達に迫れるかもしれません。
(※ただし、あくまで分析であって、正解を出すものではなく、読み手の参考材料のひとつとして分析を補助的に扱うのが良いと推測しています。倫理的にも考えるべき問題が生じるはずです。)
前編でも指摘した通り、現状の電子デバイスでは書かれることによって生成される手触りや匂いといったものは再現できません。できたとしても現状のコンピューターにおいてはビットで表される情報ですから、アナログの情報量にはかないません。それでもデジタルならではのメタデータを記録し活用できるとしたら、少なくても興味深い可能性です。そうであれば電子の手帳を集めたり共有したり方法や条件についても考えていく必要があります。この記事の残りでは、そのことについて現時点での構想(試論)を書いてみます。
デジタルの手帳を集めるために
個人的な記録の収集方法ですが、集めるためのシンプルな方法は本人から直接もらうことです。そんな馬鹿なと思う方もいるかもしれませんが、紙の手帳はそうやって1600冊以上集めてきました。
(※2022年9月現在 手帳類プロジェクトの初期には買い取りも行っていましたが、現在は寄贈のみで集めています)
もちろんデジタルな手帳も原理的にはこの方法で集めることができます。ただ、紙の手帳と違い書き終わりがないため、寄贈できるタイミングはより上位の端末を買ったときとか、使われなくなったときとかに限られそうです。例えばSupernote A6Xだと5万円以上するため、自分自身で考えても手帳として使えるうちは誰かに譲渡することは考えづらいです。つまるところ他力本願的な状況があります。ここまできてすみませんが、以降のこの記事では収集方法以外の条件について考えてみます。
個人的な意思としての機能と収集
では気を取り直して……。他人に渡すために考えなければならないことは何でしょうか。Supernoteをベースに考えるならいくつかの追加機能が必要だと考えています。ここでは3つ指摘します。
1つ目は、ノートに書かれた個人情報を検出して無害化する技術です。紙の手帳を寄贈していただく際にも個人情報の削除はお願いしていますが、紙の手帳を施設限定で読む場合には悪用リスクは低いです。デジタルな手帳をもしアプリやウェブサイトで公開するとなったら、取り扱いリスクはさらに高まります。この対応は人力だと大変なので、人工知能を使って記録中に出てくる個人名を検出し、「山田太郎」なら「山岡三郎」に変換して表示させるようにします。その際、書き文字の癖を学習し筆致を近づけます。これまた他力本願ですが、これらの機能はいつか実装され、共有化されそうな気がしています。
2つ目は手帳デバイスへの寄贈機能や寄贈モードの実装です。これはノート(書かれた内容)を公開可能な形で他者に寄贈できる機能です。寄贈モードも実装するならそのデジタル手帳は閲覧専用になります。あるいはハードウェアとしてデジタル手帳を再利用する方向で考えるなら、ノートの記録データを寄贈先のサーバーに送り、その後初期化するイメージです。このときに1つ目の個人情報の無害化も行われます(書き手が問題ないと判断すれば無害化のオフも可能)。再利用する方向であれば、端末を大量に保管する必要もなくなり、持続的です。
3つ目は寄贈機能の実行や寄贈モードになる条件の設定です。これは例えば半年間起動されなかったら寄贈モードになり、指定したコレクターの元にデータが送られる……といったものです。若干SFになりますが、ドローン的なもので物理的に指定先に運ばれるといった挙動も含みます。ここで想像されたかたも多いかと思いますが、これは死後のデジタル手帳の扱いにも関わってきます。
(※ここからは特に倫理的な話になっていきます)
仮に寄贈モードになるトリガーが持ち主の死だとします。このとき、家族や友人宛に届けるメッセージや終活に相当する情報をまとめたものの共有機能と寄贈機能をそれぞれデジタル手帳に持たせることはできます。とはいえ著者の考えでは、家族にも関わる記録や情報と、より個人的で私的な記録は、端末レベルで分けても良いように思います。その上で、前者はスマートフォンなどに記録し、パスワードをスペアキーなどで家族と共有するイメージです。
それでも、家族確認もないままドローンで旅立つのはやりすぎかもしれません。ただ収集家の立場で言えば、本人が寄贈したいと自ら設定しているのであれば、家族や周りの人間が反対したとしても寄贈されるべき、と考えることもできます。もちろん、残された家族の確認後に問題なければ寄贈という2段階の設定もありえます。このあたりは持ち主と家族の関係次第です。加えて、10年後に公開OKといった設定は、デジタル空間ではやりやすいでしょう。
もうひとつの大きな課題
そろそろこの記事も終わりですが、ここで大きな課題を思い出しました。いま気軽に「10年後の公開OKといった設定」などと書きましたが、そもそも永続的な保存についての問題がありました。収集家が死ぬであろう50年後、さらに100年後、200年後についてです。
紙媒体においては、紙が読める状態であれば捨てられない限り保存されているといえます。電子媒体ではどうでしょうか。サーバーに保存しようがローカルに保存しようが永遠ではないように思えます。それは、2022年現在、ブログサービスが続々と消えていることからも明らかです。
その対策として紙にコピーする方法はありますが、その場合でも保存する場所は必要とします。つまり何らかの物理空間を用意し、メンテナンスし続けなければなりません。将来的に別の方法やそれを可能にする技術が生まれてくるでしょうか。いずれにせよ、世代を超えて残そうとすれば、考えなければならない点は多いです。
おわりに
ここまで長くなりました。前編と合わせてデジタルな手帳デバイスに関する2つのことを書きました。念のためにふり返っておきます。前編は、著者が考える現時点で個人的な手帳としてもっともよさそうに思えるSupernote A6Xの紹介でした。後編は、前編からは話がかなり飛んで、デジタル手帳に書かれた個人的な記録の可能性や集めるためのあれこれ、についてでした。
想像がつくかと思いますが、個人的な記録を自分以外の誰かが読んでも良いと考える人は多くありません。それでも著者の収集活動を知るなどして、死んだら収集家にあげても良いと思ってくれる人が少しはいることも分かってきました。ここで残念なのは、いざ死んだときにしっかりした遺言でもない限り、寄贈はおそらくされないということです。デジタルの手帳なら専用の機能がデバイスにビルトインされることで、設定さえすれば死後の自動的な寄贈が可能になります。
Supernote A6Xを買ってしばらく使ってみて、デジタル手帳はハードウェアとしてはかなり成立してきているなと感じました。あとは、個人的な記録をエンハンス/エンパワメントするためのメタデータの記録であったり、安心して手書きできるためのソフトウェアの機能だったり、メタデータも含めた記録を残す感覚・価値観・気持ちであったりします。
もしもSupernoteがアプリケーションAPIを公開し、アプリストアが公開されるならば、著者が何かしらのソフトウェアを作る未来も悪くありません。もちろん希望としては、ハードウェアチーム、ソフトウェアチーム、そしてコレクターの三位一体で個人的な記録の未来を紡いでいきたいです。
追伸かつ余談
先日、戦争に関連する施設を見学しました。その中に戦死者の紹介とともに手帳や日記帳が合わせて展示されているコーナーがあったのですが、もし日記や手帳がなければ、名前、所属、写真しか紹介されないのでは、とも思いました。これは時代や死に方に関わらずいまでもそういうところがあるのではないでしょうか。
人々の中には明確に何者かになって何かを残せる人がいます。しかし、そうではない人だとしても、書いたものが残せるのだとしたら何時か何処かの誰かに届くかもしれません。その可能性を考えるとき、記録が物質と一体であることで強度が増し、届く力を高めているとは言えそうです。届いた個人的な記録は、読み手の個人的な内省や着想、何らかの希望につながるかもしれません。それが即何かの役に立ったり問題を解決したりというわけではありませんが。それでも個人的な記録が別の個人に対して持つ可能性を100年ぐらいかけて検証したいのです。
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