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Milestone

2014年の夏 ライブハウスの前でファン対応をしているHirokiさんがいた。真っ先に気付いた母が珍しく私に向かって「あなたも握手してもらったら」と言った。スタッフと思しき人がやって来てHirokiさんに「そろそろ…」と言った最後の最後に声をかける事ができた。一緒に写真を撮ってもらったその時に「ありがとう」と向こうから握手してくれた事が長い間 頭から離れなかった。「二十歳で素晴らしい縁を」と京都の神社に願った半年後の出来事だった。

一緒に生きていたと強く感じるのはXENOツアーだ。大学の卒業旅行だという名目で全8公演に参加した。海外やテーマパークに行く事よりも 感銘を受けたアルバムのツアーに参加する事に意味があった。初めて行く土地や長い間訪れていなかった地に 数々の新たな印象深い事柄が刻まれた。広島では友人と合流し 平和記念資料館に再び足を運ぶ事ができた。各地のライブに行く事自体が素晴らしかったけれど それに付随した時間も今の私を形成する礎となっている。今でもライブを通して当時の自分に会いに行っている側面がある。

ライブ前後のHirokiさんの言葉が響き続ける

思い返せばツアー初日の仙台に行き 夜行に飛び乗って東京に戻り 卒業のための試験をこなし そのまま夜行で金沢へ向かうという破天荒なスケジュールを苦にしないほどの日々だった。地獄の夜行バス3連チャンだってあの頃だったからこそできた事と思う。

最高のはなむけ

社会人になってからは休みという概念がほとんどない環境にいた。12時間以上働く事もざらで かなり追い詰められていた。死にたいと思わないために 休日にライブがあればチケットを買って予定を埋め尽くした。休みは週に一日でも遠征までしてフェス等に行かなければ保てないような精神状態だった。「好きな人に会いたい」が3割、「日常から少しでも離れたい」が7割を占めていたかもしれない。人と会うのすら億劫な時期に唯一たくさん会いに行っていた人が 私の顔を見て ああこの子やと認識してくれる事は救いだった。当時 教師のはしくれで奮闘していた私は 一人一人に向き合い 認識する事の大変さ 双方向性の難しさが身に染みてわかる。でもHirokiさんは いちファンの顔を見ただけで名前入りのサインを書いてくださるような人だった。たとえ何年の空白があろうとも それが当たり前の事であるかのように。そのような人が 実はなりたかったという職業を聞いた時はうれしく思った。

無理やり休んで行った幕張公演にて

先日の渋谷サイクロン公演は主に後半でHirokiさんの美しい幻影ばかりを見ていた。MCで彼について一言も触れられなかった意図を全て汲む事はできないにせよ 逆にその存在をありありと感じた。最後に観たのは2022年の5月、Zepp Osaka Baysideだが 全国各地で何度も繰り返し聴いてきた楽曲にはHirokiさんの思い出が色濃く残されていた。これから先も残像だけを見続けるのは嫌だと強く思った。活動休止してからというもの どこか自分の心にぽっかり空いてしまった部分があり それはHirokiさんにしか埋められないものだからこそ 9年もの月日の断片を少しでも残せたらと思って書いている。

勉強や就活で ただ好きだという気持ちだけで突っ走ってきた熱量が冷えてしまった時 路頭に迷った。でも2015年のZepp Tokyoであの旗が翻った時 人生にやる気がみなぎったように感じる。卒業旅行をしたいと考えを巡らせていた時 まるで仕組まれていたかのようにXENOツアーが発表された。地元に帰ると決めたところに 地元のフェスへの初出演が決まった。アルバムEX_MACHINAが出た時に生活環境を一新し 15周年ツアーの際には自分なりに思い切った決断をした。忘れたいほどの試練や苦悩の日々と共に在り いつだって人生の節目に居たのがCROSSFAITHであり Hirokiさんだからこそ いつまでも忘れがたいのだと感じる。

忘れがたい出来事

徳島で「地元の人どれぐらいおるん?」というMC中、たまたま目が合った時 私の顔を見て絶妙な表情をしたHirokiさんは ファンがどこからやって来ているか どういう思いで来ているかをおそらく知っている。なんであれ、また私の顔を見てそのような顔をしてくれる日が来るだろうと自分を励まして生きている。このnoteを読めば いつでも思い返せるように。あの日から私は いつだってよく気付く人でありたいと思い続けている。

仙台GIGS FINAL 美しい瞬間



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