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「大事な友人」と「家族」の違い

「大事な友人」と「家族」の違いって何だろう?いやそもそも違いはあるのか?
という問いは、割と常に僕の中にある問いでした。
で、今回ちょっと答えっぽいものが出たので記録しておきます。あくまで現時点での、ですけど。

端的に言えばそれは「背負えるし、預けれるか」だと思うのです。
(上手く説明できるか分からないですが、出来るだけ言語化して「そうは言っても…」的なことまで踏み込みたいと思います)


ある程度のことを背負える人、と聞けば思いつく人が何人かいます。ここでの「背負える」ってのは、そいつが犯罪を犯しても面会に行って話を聞きたいし、事故に遭って脳に障害を負ってこっちのことが分かんなくなっても会いに行きたい、何があっても味方でいたいってことです。僕にとって、こういう人は大事な友人だったり家族だったりします。
最初はこれが家族と言える感覚かな、と思っていました。でももう少し差異がありそうです。

結論、僕の場合「背負える」だけでなく「預けれる」と、家族、という感覚を持てるような気がします。
この時の「預けれる」とは、甘えたり、悩みを聞いてもらったり、モヤモヤしていることをぶつけたり、そういう弱みを見せても大丈夫と思えることです。もちろん大事な友人たちにも弱みは見せていますが、あくまで一側面を見せています。
その見せれる弱みの範囲が大きい人が、僕の場合親やパートナーだったりします。

ここで補足しておくと、あくまでこれは僕の中の考えです。「背負えなかったら家族じゃない」「預けれなかったら家族じゃない」って言ってるわけじゃないです。おのおのの定義があるし、あくまで僕の中で、大事な友人とさらに大事な家族に境界線があるなと思っただけです。
もし、もっと家族や友人の基準が低いところにあるなら僕はすっごいHAPPY野郎ってことになりますし、もっと高いところにあるなら僕はまだまだ関係を深めていける余剰があるということですし。もしくは人によって全く別の基準を拵えてることでしょう。参考程度にしてください。

話を戻します。

そういうわけで「背負えるし、預けれる」、つまり「何があっても味方でいれるし、弱みを見せれる」人が、僕にとっては家族と呼べる存在なんだと最近気がつきました。

要は背負える覚悟と同じくらい、預ける覚悟が無きゃいけないんだ、ということです。これが今日一の発見です。預ける、が苦手な自覚が僕にはあるから。

で、この「背負える・預けれる」感覚がある人となら「一緒に住めるな」と思うし、「一生一緒にいたいな」と思えるような気がします。
逆に、一緒にいたり一緒に住んだりしてるからこそこういう感覚を持ちやすくなるのかもしれません。


そしてもう一つ大事なこととして、この感覚は「感覚が持てるかどうか」が大切で、実際に背負っているのか、実際に預けているのか、というのはあまり関係ありません。
実際にはいつも何かを負担しているわけでもないし、弱みを見せているわけでもないけど、いつでも助けるし、頼れる、という「感覚を持てる」ことが大切です。

「お前の船なら任せれる」感

要するに、見せれる弱みは「大きい」ないし「濃い」と良いのであって「全て」である必要は無い、ということです。

タイミング・物理的な距離・お互いのどうしても相容れない部分によって、合わないこともあるのに、お互いがお互いを10割頼っている、その結果お互いがお互いしか頼れないというのはあまり健康的とは言えなさそうです。
そのために依存先は沢山あって良いんだと思います。ここ、強調しておきます。


もう少しだけ深ぼってみます。

「背負えるし、預けれるか」というのは言い換えれば「一緒に持てるか」ということでもあると思うのです。
そう考えると、大事な友人と家族の違いは「どのくらい一緒に持てるか」の度合いやバランスの違いだと言ってもいいかもしれません。

手プルプルしちゃう

すると、最初に僕は「背負える人が何人かいる」と言いましたが、怪しく思えてきます。刑務所に面会に行くことは背負えていることになるのか?その人の今後の人生や一番苦しい部分からは逃げていないか?。。

結局、ある程度のところまでいくと「背負うだけ」「預けるだけ」の関係なんて無理なのかもしれないです。近づくほど共有するものが増えて、一緒に持たないといけなくなる。
ということは、相手に持ってもらっているものが少ないのであれば、同じくらいの少ないものしか自分も持てていないのかもしれません。
、、、と、少しマイナスな言い方をしましたが「そのくらいの距離が良い」ことがほとんどなんじゃないかなとも思います。

世の言う『支え、支えられ』というのは、意味はまあ分かりますが、それを理想だと語るにはあまりにも、むずいんじゃないか、、、
というのが、この話のまとめになりそうです。


最後に。

ここまで言っておいてなんですけど、
「大事な友人」も「家族」もそりゃどっちも死ぬほど大切な存在であることに変わりないです。そこに明確な線を引くのは、野暮です。明確な線で分けてしまったがために、何か言葉にならない機微がその明確な境界線に殺されてしまうこともきっとあります。それに仮に家族だった人が家族じゃなくなったとしても、それは一生あいまいなままで良い。

なんですけど、僕の場合こんな風に言語化して明確にしておかないと、なかなか覚悟が決まらないんです。ググってこういうことを書いている人のnoteやインタビュー、めっちゃ見ちゃいがち。

というわけで、同じような人の参考になれば其れ幸いです。


以下、余談。

今月誕生日を迎えました。20代もだいぶ進んできました。
気づけば背負っているもの、これから背負いそうなものの気配を強く感じます。どこまで背負うのか、何を背負うのか、いっそのこと降ろしてしまうのか、そこに線を引く時、覚悟の決め時が近づいているわけで、こんなことを考えているわけです。

....とは言え、人生まだまだだよ、そこまで考えなくて良いよ、って誰かに言ってもらいたい気持ちもどこかに。
でも後悔もしたくない。

ああ、厳しい人生、難しい世界...


画像はお預けするオポッサムです。
「オポッサム」を知らない人はググってね。

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