シオコレ・コーデ・リレーvol.30 けんちゃん
シオコレに関わりのある人や、そのまわりの人にシオコレの古着を着てコラムを書いてもらうゆる〜い連載 #シオコレコーデリレー 。
記念すべき第30回に登場してくれたのは、たまーに出現する塩屋のレアキャラ、けんちゃんです。
大の電車好きであるけんちゃんたってのリクエストの、電車や線路との写真にもご注目ください。
塩屋の「もう一つの鉄道」が編む比類なきSTAY GOLD
ここ最近の俺のコーデというと、専ら「ユニクロのグレーのシャツとユニクロの黒いパンツ」だ。いつも同じ服というのは、病んでいる兆候なのだとか。でもAppleのスティーブジョブズも衣装が決まっていたし、これはこれでお気に入りの組み合わせだから個人的には良しとしている。もしかしたらジョブズも病みの中から光を求む同志だったのかも…なんてご都合主義を振りかざしつつ、いつものコーデで筆をとっている。
実はこんな俺も20年前、所謂「裏原」の震源域が居場所だった。子供の頃から好きだった鉄道趣味を封印し、サムライやオーリーを愛読しては、授業がない日に原宿〜代官山を巡回。whizやchildhoodを経て、最終的にはscannerに落ち着いた。何が言いたいか。鉄ヲタですら思春期を迎えるにあたり、服が他の趣味を圧倒する可能性も秘めているのだ。
男子が服に目覚めるって、異性からよく見られたい要素は少なからずあると思う。でも三十路を越えたあたりだろうか。異性という有機物からは好かれたいけど、鉄道という無機物もやっぱり好きだという「非モテ宣言」ができるようになった。無機物は俺を愛してくれないけど、有機物と違って一方通行でも愛を注ぐことができるからだ。身体ではなく心が渇望した、最早ある種の諦めにも似た境地なのだろう。
前置きが長くなったが、ここからが本題。服って人、だと思うのだ。もっと言えば、服を大事にするって、人を大事にするのと同義だとも。ユニクロだろうが裏原だろうがノーブランドだろうが、良いものは、良い。それこそ、20年前に裏原と同様にハマっていたメロコアやクラブミュージックから学んだこと。音もそうだし、食もまた然り。自分の身体と混ざる要素があるものを有機物だとすれば、服という有機物も拡大解釈で「イコール、人」と言えるのではないだろうか。服は人、故に買ったらそれでおしまいではないことも付け加えておく。
そう言えば裏原界隈に居た頃、エリア毎に茫と連続しているコミュニティーや、クラブにしても音楽毎で全く異なる村社会を横断しては、そこで垣間見える一癖も二癖もある人達の有機性が無上に楽しかった。まちを客観視することや、人を求めて旅する行為は、思いのほか服に端を発していたのかもしれない。
趣味も愛せて、さらに人も愛せる余白がある世界線が理想だ。俺の場合、服まで愛せたら「敦賀始発の播州赤穂行き新快速」に伍する範囲をカバーできるかも、という話。
正直言って、今の俺に今日の服は何にしようかという余裕はまだ無い。そんな俺が感じるシオコレの尊さは、服屋さんだけど服だけで人を判断しないお店だという点にある。俺がどれだけユニクロを着ていようが、もっと深層のレイヤーを透視しては、陽の当たらない恥部の気色悪さまでリスペクトしてくれるのだ。まちづくりという表層的な言葉を優に超越した、俺みたいな引き篭もり拗らせ懐古厨の心にも服を着せてくれる「ひとづくりの空間」と表現しても過言ではないだろう。服は体に纏うものではなく、心に纏うものだ。なんてな。服で人を判断しがちな方には、その服に穴があくほどの凝視を勧めたい。
スカスカのハコモノや思考停止したチェーン店では得ることができない気付きがシオコレには、ある。
ドン底の駅に佇む俺。そんな折、勾配を駆け降りてきた列車のドアが開いた。暗黒のホームに光芒が挿し込む。眩さの中に懐かしいタグも見た。盃を交わす音か、レールを叩く音か。その音色が夜の潮風に乗って、山肌や谿間にまで塗られていく。まちの賑わいとは、創出するものではなく、繙くことから始まるもの。シオコレは唯一無二にして不易流行。時を遡行する光のローカル鉄道だ、と誠に勝手ながらそう思っている。
塩屋の景色よろしく立体的な有機物のレイヤーから成るこの鉄道は、闇をも彩りながら今日もせっせと四次元空間をひた走る。
けんちゃん
(こうべまちづくり会館|日本観光提灯保護協会|駅名4コマ漫画家|🆕塩屋猛虎会←立ち上げました)
@mitakagaoka
今回着用いただいた商品
■ハット
■ピンクのTシャツ
■花柄シャツ(Paul Smith)
■デニムパンツ
■シューズ
■その他私物