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『MASTERキートン』の月餅
ここでは「味わい深い描写」について語っていきたいと持ってるんですが、どうしても実際的に「美味しそう」な描写が多くなってきております。今後は実写や小説などの「味わい深い描写」も出していくつもりです。
さて、浦沢直樹さんという漫画家の作品『MASTERキートン』には、比較的食事のシーンがたくさん出てきます。浦沢さんは絵が大変上手ですから(あるいはアシスタントの方の技かもしれません)、食べ物の味や食感が生々しいリアルさを伴って伝わってくるほどの描写力であります。
私は常日頃「腹が減る作品は名作」と標榜いたしておりますが、この『MASTERキートン』はまさに腹が減ります。そしてその一話一話の完成度の高さはまさしく「名作」の名に微塵も恥じぬのであります。
さて月餅です。世に数多ある漫画の中で、月餅がここまで丹念に描かれたものは他にないのではないか、と思っています。
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月餅は中国を代表するお菓子です。中秋節の時、月見をしながら月餅を食べるんだそうです。贈答用としても盛んにやりとりがされているそうです。
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このあとこのおじさんが月餅をもぐもぐするんです。「ハグ」のオノマトペでコッチはだいぶやられてしまいますが、このあと、その口元を描いた2コマが私のお腹を空かせるのです。
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いかがでしょうか。なんでもないことなのです。2コマ、おじさんの口元が描かれているだけです。でも前後関係から、この口の中に月餅が含まれており、しっかりと味わうように咀嚼し、その餡の甘みが口いっぱいに広がっていることが想像できるわけです。おじさんのほうれい線の外側に引かれた膨らみを表す線と、明らかに膨張した頬の輪郭線によって、なぜだか私は「甘み」を感じるのあります…ッ!
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しかも、ただの月餅ではなかった。餡に干し柿が練り込んであるのです。このキートンの台詞を読んだ瞬間、読者(私)の味覚は一気に明瞭さを持ちます。「餡に干し柿かぁッ…!! そりゃあ甘いッ!」。
大人になって月餅なんて、簡単に食べれるわけです。でもこのとき想像した味の月餅はないのです。この絵に描かれた餡の柔らかさと干し柿によるねっとりとした甘み……ないのです。
それにしても、かなりの描写力ですね。これを初めて読んだとき、まだ月餅のことを知らなかったのですが、大人になって目にしたとき、「『MASTERキートン』に出てきたヤツだ!」と興奮しましたよ私は。この皮の照りと言うんでしょうか、反射している感じや、皮の硬度と言いましょうか、柔らかみおよび硬さ、餡の複雑さ、奥深さ……すごい絵です。
そしてそのすごい絵の効果を数十倍に拡大させているのが、最初の「ハグ」と2コマのモグモグ描写ですよね。線とスクリーントーン、そして演出力と言うんでしょうか。それだけと言えばそれだけです。それだけでここまでのものが表現できるんですねー。