夏の旅(時里二郎さんの詩)
今年の夏は時里二郎さんの詩集を読んで過ごしていた。
夜、就寝前に。朝夕の通勤電車の中で。時間があれば昼休みに。
暑さや気圧のくらくらとふらふらの激しい中、オフィスビルの中の長い廊下を歩く時などに詩集の中の海のことや森のことを思い浮かべると、まるで旅の途中にいるような気持ちにさせてくれた。それは束の間のこととはいえ、自分にとってはとても必要な「間」。
各詩集のモチーフの重なり、変化しながらの繰り返し、抽象化、現代詩文庫の編集、を眺めるとその一貫性、「あみもの」としての詩集の有り様に圧倒される。時里さんの詩は、当然詩集の中に存在しているのだけれど、本を閉じた後に読者の心身の内に発生するものを詩と呼ぶべき作用があるような気がした。その作用の為に積み重ねられた作品群にひたひた浸る。
モチーフの連鎖。
『胚種譚』(1983年・湯川書房)弓、武者、石、川、トンボ、邑。
『採訪記』(1988年・湯川書房)鳩、少年、島、王国、狩、弓、邑、森。
造本が、群を抜いて美しい。今ではなかなかこのような詩集は制作できないのではないかと思う。
『星痕を巡る七つの異文』(1991年・書肆山田)星、王国、鞠、歌、都、虫の屍骸、朱雀門、丸と呼ばれる童子、飛礫、内裏、眼、石、天文台、盲、弓、楽器、武者。
『ジパング』(1995年・思潮社)星、丸と呼ばれる童子、播磨守、虫、人形、果肉、テロリスト、種子、須磨、弓、山羊のチーズ、地図、壜、大殿、オルガン、越境、標本。
『翅の伝記』(2003年・書肆山田)標本、カミキリムシ、サル、島、トンボ、石、舟、ウラ、裏、浦、穴、海、森、天文台、トチ、父、桃、和歌、宮。
『石目』(2013年・書肆山田)標本、弓、森、空洞、トチ、標本箱、声変わり、治療、保育器、観音、奈良、薬売り、叔母、取り替える、石、痣、田、船、村、沼、祭り、シンノウ、詩歌、図書館、鉱物、雑木林、非在の家族、吃音、種子。
実はこの詩集がいちばん欲しかったのだった。最も心惹かれる詩集。
『名井島』(2018年・思潮社)植物図鑑、弓、雨、かり、うた、ゆめ、海、山、旅、山羊、穴、井、森、ことば、通訳、舟、空、島、栗鼠、クルミ、標本、庭、影、川、猫、窯、月光、精錬所、定家、人形、伯母、さんしつ、人工知能、母型、アンドロイド。
瀬戸内海の直島に美術施設が出来た頃、5.6年の間毎年訪れていた時期がある。もう長い間出掛けていないのだけれど、読んですぐに瀬戸内の島々を下敷きにした詩集であることは、行ったことがある者にならすぐにわかるように書かれている。美術品のような一冊であり、過去の詩集のモチーフが随所にちりばめられている。『石目』に登場する‘おば’とは使用されている字が違うおばが登場する。
ところで思潮社から刊行された現代詩文庫の裏面には柄澤齊さんの文章に
「時里二郎は名前そのものが詩である。一郎ではならず、三郎も四郎もありえない。二郎の立ち位置を宿命づけられ、失われた「時の里」を再現するため彼は地に墜ちた」と書かれている。論考頁の池内紀さんの文章では、
「旅役者のような名前」と書かれている。極端な、氏名に対する解釈。
ものを書くひとはここまで見つめられるのは仕方ないのかもしれない。
本名を使用されているだけなのか、筆名なのか存じ上げないのでなんとも
言えないところ。とはいえ、「二」という数字は確かに宿命的だ。そして今年の夏を時里詩集と旅した私にとっては、「旅役者のような」という指摘は
肯ける意見でもあった。