その瞬間を切り取るんだ!
「どうしてこんな事になってるの?」
ウチの会社では、そう言って部下に確認をする必要のある事がたくさん起きる。
当然ながら、ウチの会社でも『ホウレンソウ』の必要性は事あるごとに説いている。具体的な方法や様々な場面状況におけるホウレンソウのやり方も事あるごとに教えている。具体例を踏まえて解説をする事も多々ある。そんな時間をたくさん過ごしてきたはずの社員ばかりなのに、それでもいつものように上のセリフを使う場面に遭遇するのだ。
どうしてこんな事になっているのか?
それを確認するために最も必要なのは事実だ。
いつ、どこで、だれが、なにを、どうしたのか、どのようにやったのか、それはなぜか。
それが分かれば上のセリフについてはほぼ見えてくる。
事の起こり、その中で誰が関わっているのか、関わった人物が何を言ってどんな行動をとったのか、その結果何が起きたのか。これらが見えてくれば、あとは何をどうすれば良いのかについてはそれほど難しくない。できる事はそんなに選択肢が多くないからだ。もう少し言うと、俺がすべき事は全方位が“よし”になるように治める事なので、関係者及び関係団体が極力“よし”と落とせるところに持っていくだけだからだ。
もちろん、この選択をする際にはウチの会社の方針が大きく関わってくるので、それも判断材料の大きな部分になる。でも、それ以上に、関係した者の大部分が納得できる根拠を持てるような選択肢を取る必要がある。だから、その選択肢はそれほど多くない。
と言うか、“ほぼ一択”と言っても良い場合がほとんどだ。
だから、「その後どうするのか?」についてはそれほど難しくない。
事後処理は簡単なのだ。もちろん、だから中間管理職を任されてるんだとは思うけど。
問題はそれよりずっと手前にある。
一番難しいのは、『事実の確認』だ。
これが一番難しい。いつ、どこで、だれが、なにを、どうしたのか、どのようにやったのか、それはなぜか。いわゆる5W1Hの特定、これがホントに難しい。その中でも特に難しいのは『発言の特定』だ。
「一体それの何が難しいの?」そう思った人は恐らく周りの上司や部下や同僚や後輩に恵まれているのだろう。ウチの会社では、発言の特定に難儀している。
別に、プライベートのどうでもいい会話を思い出してほしいと言ってるわけではない。もちろん、社内で同僚達としていた雑談時の発言内容を一言一句思い出せと言ってるわけでもない。
『発言の特定』をする必要に迫られている状況、つまり、冒頭の「どうしてこんな事になってるの?」というような状況が既に起きているのだ。と言う事は、明らかに業務時間内に起きている通常であれば関係者が“違和感”を抱くような状況であるはずだ。そんな状況に至るまでの事実確認を行っている際に、皆が必ずこう言うのだ。「~~。そんなニュアンスの事を言いました」と。それではあまり意味が無いので、その後こちらで話を要約しながら聞いていくと「えーと、○○○って言いました」と正確に何て言ったかが、散々遠回りした後に出てくるのだ。まるで決まったパターンがあるかのように、必ずこうなるのだ。
仕事の中で、恐らく通常であれば違和感が生じるであろう場面での自分の発言と行動を正確に報告できない。いや、できないのではなく、恐らく『しない』のだと思うけど、結局はしっかり覚えている事を報告する必要に迫られる。もちろん、「なんでこうなった?」の事後処理は彼らの上司である俺が行うのだ。自分の行動の結果起きた事を、上司が引き受ける。組織としては当たり前の形だ。それをやるから俺は中間管理職なのだ。だから、そんな所謂泥かぶり仕事が回ってきてもそれは俺の役割なのだから、特に彼らに何かを言う事はない。巷でよく聞くような、「上司が部下に対して罵詈雑言をぶつける」ような事は俺や俺の後輩の中間管理職たちは決してしない。だから、部下たちが報告を恐れるいわれもない。はずなのだ。にもかかわらず、彼ら彼女らは、正確な発言を覚えているのに『しない』のだ。その理由は俺にはわからない。
ただ一つ分かっている事は、自分の発言をまるで覚えていないかのように正確な報告を『しない』という行動をするという事は、その行動によってこの自分が起こした“事実”を無かった事にできると考えているが故の行動からくるものなのだ。何故これを断定できるかと言えば、常に彼ら彼女らに俺が明言しているように「責任を取るために上司がいる」から、本人たちが事後処理の内容を考えるという事は現実的に起きないのだ。本人たちに求められるのはこれまでもこれからもずっと「正確に事実を報告する」ただそれだけなのにもかかわらず、発言内容を正確に報告『しない』という行動をとっているのだ。つまり、正しく物事を考えられているのであれば、正確に報告を『する』という行動以外の選択肢はとらないはずだからだ。そして、そういう行動を取り続けている彼ら彼女らは、自分で“事実”を敢えて誤認することで“事実”自体を無かった事にできると考えていて、無かった事にしたい行動を取る。それがこの人達の世界で常態化している。
つまり、いついかなる時も“事実”を正確に把握することが出来ないという事なのだ。
そんな事に、先日気づいてしまった。
お陰様で、俺や俺の後輩で同志でもある中間管理職の人達の能力は飛躍的に上がっている。俺達の能力の向上については、自分達自身も、そして会社も認めるところだ。
彼らには感謝してもしきれない。
「ありがたい」という感謝の気持ちと共にもう一つ「大丈夫なのかな?」という心配する気持ちが、いつも湧いてくる。
これから確実に個人が生き抜いていくには大変になるであろうことが容易に予想できる時代がやってくる。そんな、厳しい生き残りがかかってくる時代に既に突入している現状で、これだけAIの性能が飛躍的に上がっているこの現状で、定年年齢がどんどん上がっていてほとんどの人達が恐らく70歳までは働いていかないと生きていけなくなるであろう時代を前にして、彼ら彼女らは、これからの行く先をどうやって生き抜いていくんだろうか。
それだけが、若干心配ではある。