裂け目 #2000字のホラー
カーテンを開けると乾いた秋空だった。
高橋清四郎は寝ぐせ頭のまま、秋空を背に置かれた60インチのテレビの電源をつけた。
いつものようにキッチンでコーヒーを淹れるため、戸棚から豆を取り出す。ワイドショーを流し見しながら、毎日豆を挽いてコーヒーを飲むのが日課だ。
しかしその日、テレビには壊滅状態になっている都市が映し出された。ビルがなぎ倒され、下敷きになった車が何台もその下に顔をのぞかせている。道なりに電柱が横たわり、街は瓦礫の山と化している。まるでドラマだ。
そういえば明け方、激しい通知音が鳴っていた気がした。清四郎は夢で電話がなっていると思い込んでいた。あの音は緊急地震速報だったのか。
ヘリコプターの異様な音とともに、リポーターは必死に叫んでいた。
「…H市の中心部は壊滅状態、自衛隊による救助活動が続いています…まだ、大勢の方が倒れた建物の中に閉じ込められています…」
「H市」清四郎は思わず、小さく声に出してその名前を呼んだ。
H市といえば15年ほど前、高橋清四郎が前職の会社で配属されたことがある土地だ。20代だった頃アパレル会社に所属していた清四郎は、様々な都市の新店舗開発に携わっていた。H市もその1つだ。期間は1年ほどで、その頃は社宅に帰るのも1週間に何度かというほど仕事に熱中していたので、街の記憶は薄かった。ただ何度か、地元採用のみんなと屋台に飲みに行ったことが思い出された。もつ鍋や酒がうまく、飲んでいる人が明るかった。
ああいう屋台も全部潰れてしまったのだろうか、と清四郎は思った。そしていつものようにコーヒー豆を挽き始めた。
「えー大変なことになってるじゃない」
妻の陽子が、パジャマのまま頭をボリボリ掻きながら背後から現れた。
「震度6あったらしいよ。明け方緊急速報が鳴り響いたけど、あなた完全に寝てたもんね。」
ほんと、何があっても起きなくて羨ましいよね、と陽子は言った。
「清四郎さん、Hって昔仕事で行ってたよね」
「うん、1年くらいいたな」
「1年もいたっけ?3か月くらいだと思ってた。私も一度、遊びにいったんだよね。結婚する2年くらい前」
「そうだっけ」
「そうだよ、屋台に連れて行ってもらった。仕事しかしてないだろうと思ってたのに、こんなとこで遊んでたんだって言って怒ったな、あの時」
そういえば、そんなことがあったような気がした。
当時から付き合っていた陽子は東京で働いていて、清四郎が配属される各地に会いに来た。遊びに行くという名目で、恋人を監視するためでもあった。
「活気があっていい街だったなぁ」
陽子は言いながらあくびをした。
清四郎はやかんを火にかけながら、屋台の灯を思い出していた。
何か、胸がざわつく感覚があった。
テレビではヘルメットを着けたリポーターが瓦礫の上を歩いている。古くからある商店街のようで、おそらく店の看板だったであろう木の板が、道に散乱していた。
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薄暗い商店街の中で、誰かが後ろから清四郎の肘をつかんだ。
「私、恨んだりしないから」
彼女は言った。
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陽子が清四郎の腕を揺すった。
「お湯沸いている」
「え、あ」
清四郎は慌ててやかんの火を止めた。
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狭い屋台で、彼女はノースリーブの白い肩を摺り寄せるように清四郎にくつけた。彼女の髪は短かった。長い髪の陽子と違って、たまに少女のようにも、老女のようにも見えた。
子どもができたんだ、と小さな声で彼女は言った。
産みたいと思ってる、どう思う?
彼は言いよどんだ。答えはしなかった。そのまま、思い切り熱い酒を飲んだ。真夏だったが、寒気がした。
地元で店員をやっていた女の子だった。配属された店舗で一緒になった彼女は、普段は真面目で地味だったが、みんなで飲みに行くともう何もかもが楽しいという様子で、ずっとケラケラ笑っていた。初めて彼女とそういう関係になったのも、飲みに行った帰りだった。酔った時と同様に、抱かれているときも彼女は普段とまったく違って見えた。
彼は様々な場所で彼女を抱いた。まじめな女は彼といるときだけ奔放にも従順にもなった。彼にはそれが面白かった。この女をどうしたいという気もなかった。ただ、その瞬間だけが本当に彼には興味深かった。
だから彼女の告白を聞いたとき、彼は何も答えることが出来なかった。
正直なところ、煩わしかった。
屋台を出てから、ふらふらした足取りで彼は商店街を進んだ。彼女は後ろからついてきていたはずだ。
その時、彼は東京に戻ることが決まっていた。
ここに留まることはどうしてもできなかった。
シャッターが降りきった商店街を途中まで進んだとき、彼女は後ろから清四郎の肘をつかんだ。
「私、恨んだりしないから」
聞いたこともない、強い乾いた声だった。
清四郎は、振り向きもせず、肘に触れた柔らかい塊を振りほどいた。
「…その代わり、いつか会いに行ってもいい?」
確か彼女は、小さい声でつづけた。
どうでもよかった。この場から早く立ち去りたかった。
「…うん、いつか会おう」
ベロベロに酔った清四郎は、虚空に向かって言い放った。
そしてそのあとの彼女の記憶はなかった。
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リポーターが街を歩いている人びとをとらえた瞬間、その中の一人の女性が、大声で泣き叫んでいた。
「子供を探しているんです、」
カメラが女性を映し出した。白髪の目立つ短い髪の女だった。「まだ高校生なんです」女は大声で叫びながら、瓦礫の中をかき分けて中に入ろうとしていた。周囲の男性たちが心配してよろめく女の体を押さえた。遠目から見てもやせ細って骨が折れそうだ。
清四郎は息を止めた。
「子供に会わせなきゃいけない人がいるんです、約束したんです」
女は男たちによって、アスファルトの上に押さえつけられた。そのあともずっと叫んでいる。
「私は恨んだりしていない、私は恨んだり」
「痛々しいね」
陽子がため息をついて、チャンネルを変えた。
「何かを恨んでも恨み切れないだろうけど…、でも神なんているのかって思うね。もし子どもがいて、こんなことになったら」
清四郎は答えなかった。
真っ白な心の中に、ただ一言だけが浮かんだ。
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俺は何をしていたんだ?
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何故忘れていたんだ?こんなに長い間?しかし単なる夢のような気もした。緊急地震速報と同じように、屋台のことも現実味がなかった。確か東京に戻ってから、一度女のことを調べたような気がする。そのとき、女は子供を産んでいなかったはずだ。安心したのを覚えている。しかしどうやって調べたのか?もし違っていたら?
何故こんな大事なことを忘れていたのか?陽子の言うように、そもそもH市にいたのは3か月程では?女と一緒に行っていた屋台に陽子を連れて行くなんてありえるか?
そもそも、屋台に行ったのはみんなとだけで、女と二人で行ったことなんてあったか?
しかし女の声と感触だけは今もぬるく清四郎の肘を掴んで離さない。
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その時、清四郎には、リビングに置いた携帯電話が鳴っているのが聞こえた。
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痩せた女が泣き叫んでいる声がした。「私は恨んでいない」
コーヒーの匂いが部屋中に漂っている。窓からは晴れた空が広がっているがここは一体どこだ?
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まだ携帯電話は鳴り続けている。空は青い。